5 魔女の証

 さて、と、眠ってしまった二人に手近な毛皮や布を掛けて、ハインツは傍らで、洞穴の中にあったなめした革を短剣で切り裂きはじめた。裸足の二人、そして自分のために、サンダルを作ろうと思ったのだ。と言っても、底に敷いた厚い革を細く裂いて編んだ革紐で巻くだけの簡単なものである。


 ハインツが初めて仔狼から人間の姿に変化したときに、グリータも同じものを作ってくれた。

 狼の姿だったときには気にもしなかった鋭い石や枯れ草、折れた枝、地面から飛び出た根に、人間の足の裏はひどく傷ついた。出血し、痛みで歩けなくなってようやくグリータはそのことに気づいてくれたのだ。


「人間は、不便だな」

 痛む足の裏をさすりながら、サンダルを編んでくれているグリータに向かってそう恨めしげに言うと、グリータはひっひと笑っていた。

「そうよの。なあんで、白狼は人になんか変化するのかね」

「してしまうんだから、しょうがないだろ」

「一番いらん能力だわな」


 ――黒狼の群れの中に、時折、白金色の毛を持つ狼が生まれることがある。


 それは『特別』な狼だ。

 月の光のように輝く毛並みを持つ身体は、他の黒狼のおよそ倍から三倍ほどに成長し、寿命も十数年で力尽きる他の狼と違い、七、八十年、またそれ以上長く生きることもある。


 ありあまる膂力と生気は白狼に他の狼とは異なる力を与えた。それは長い寿命の故かも知れぬ。白狼は生まれ落ちたときより、不思議な能力を備えていた。その唾液をはじめとする体液は毒にもなり、また恐ろしいほど浄化作用をもつ解毒薬にもなった。人語を解し、拙い発音ながら同じ言葉を発生することも出来、そしていつしか、人間の姿に変化する個体も誕生するようになった。


 だがハインツはまだその力をうまく制御できない。

 初めての変化も、仔狼姿でカゴの中で寝かされているとき、気づいたらカゴから白く細い手足が伸びていて、グリータもだが自分自身も仰天した。そこから仔狼には何日も戻れず、ある日の食事中に手足の力を失って椀をひっくり返し、地面に散らばった粥に直接口をつけていたときには狼の四つ足になっていた。


「大人になりゃ制御できる」

 グリータはそう言うが、さてそれはいつのことになるか。


 だが何度も変化を繰り返していた仔狼時代を経て、グリータの指令でジェラルドの元を訪れたときから、ハインツの基本形は人型に固定されていたようだった。城砦内で生活する間、内心いつ狼姿に戻ってしまうかと気を揉んでいたのだが、五年もの長い歳月でもハインツの身体は人型を保ったままだった。そのまま年相応に成長し、身長も伸び筋力がついても、白金色の毛は頭髪のみにおさまり体毛として全身を覆うことはなかった。


 ところが、ジェラルドに詰問されユッテとカミルを連れ去る決意をしたとき、急に全身に痺れが走り抜けた。

 眠る幼子を前にして、ハインツの両腕は床を踏みしめ、生えた牙で二人の襟足を咥えていた。城壁を飛び越えるのは、窓の桟を一度前脚で蹴りつけるだけで事が済んだ。

 双子を背に乗せ、森の中を四本足で走り抜けた。その速度に自分で驚いた。仔狼時代とは比べものにならぬ早さ。身の軽さ。風景が流れるように両わきを駆け抜けていく。昔ためしに乗せられた騎士団の馬の全速力より、ハインツの脚は速かった。

 そして夜が明け――騎士団にはとうてい一晩ではたどり着けないだろう森の奥深くの沢で、背の上で眠っていた双子を下ろしたとき、またしても自分の意志に関係なく、ハインツは人の姿に戻っていたのだった。


 サンダルをユッテの分の一足、カミルの分の一足、最後に自分の一足を完成させたとき。ハインツはなにやら身体が重く感じ、眠る双子達の隣に背を倒した。横を向いて、双子達の顔を眺めてそろそろ起こした方がいいかと考えた。あまり昼寝をさせすぎると夜に寝つかなくて大騒ぎになるのだ。


 だが、ハインツは天井に向き直り外から漏れる陽の光を眺めた。すでに、陽は西に傾いているようだ。日光自体があかく色づきはじめているのを見て、ハインツもまた眠気に誘われた。

 目を閉じると、グリータの声が聞こえて来る気がした……。

 



 ――グリータは、「白チビ」と彼のことを呼ぶ。ハインツという名はジェラルドがつけたものだ。


「チビ、白チビ」


 そう呼ばれたとき、仔狼は人間の少年の姿で、グリーダの小屋のそばの木の枝で昼寝をしていた。枝葉が日差しを遮り、風はよく通るお気に入りの場所だ。

 起き上がり、ぴょんと枝を飛び降りた仔狼は、小屋の前で彼を呼んでいるグリータのもとへ走った。


「おったか」

「いたよ。何?」


 人間で言えば十歳ほどの外見の仔狼は、毛皮の腰巻きと革のサンダルという軽装だ。グリータが色のくすんだ布を頭から被っているのは、日差しが目にきついからである。彼女の宝石のような緑色の瞳がここ数年白濁しつつあるのは、仔狼も知っていた。

 グリータはその濁った目で、人型の仔狼の頭から足のつま先まで、じろりと何度も眺めやった。その沈黙の時間は、仔狼を落ち着かなくさせる。


「なに? なんだよ」

「お前、森を出て下の城に行け」

 突然の言葉に、仔狼はぽかんと口を開けた。

「城? って?」

「この先、えんえん南に進んだところに石を積んだ壁がある。その中に、人間が住んでおる」

「人間……」

「今のお前と同じ姿の者達じゃ」

「分かるよ、それくらい」

 口を歪めてやや反抗的な態度を取っても、グリータは相手にしなかった。顔をしかめ、黙って小屋の中に戻っていく。日差しに目を焼かれる限界だったのだろう。仔狼はそのまま後ろについていった。


「儂の力を継ぐ者がおるはず。時期を見て連れてこい」


 グリータは何でもないことのように、竈の鍋をかき混ぜながらそう言う。意味が分からず、仔狼は言われたことをそのまま問い返すしかなかった。グリータは面倒くさげに舌打ちをすると、煮立てた薬湯を一口味見し、さらに顔をしかめてから仔狼に向き直った。


「緑の瞳を探せ」


 グリータの瞼が開かれる。薄暗いところではその濁りは消え、夜に輝く星々のような美しさを取り戻す。


「それが、力の証じゃ」


 まずはジェラルドに会え、とグリータは告げた。人間の王国の、騎士団長。

 ――お前も会ったことがあろう。三年前この小屋に来た男よ。女房の病を治せと。

 その記憶は仔狼にもあった。夜更けに不躾に押し入って来て、なにやらグリータと問答をしていた。その時の眠りを妨げられた苛立ちをよく覚えている。


 三年も前の話にもかかわらず僅かに小屋に残っていた匂いを頼りに、仔狼は森を下った。人型の時は狼の時より鼻がきかない。が、かなり彷徨い歩いた末に石畳で舗装された街道に出くわすと、濃い匂いを辿ることができた。やつはこの道を通る。その予想は当たり、それから三日後に仔狼はジェラルドと対面し、ハインツとなった。


 ハインツはジェラルドの妻アマリエに引き合わされた。じっとその瞳を見つめる。――違う。アマリエの瞳は光の加減で緑色にも見えたが、もともとの色は青灰色に近かった。


 アマリエの娘というローザにも会った。――一見して違うと分かった。ローザの瞳は父ジェラルドによく似た淡褐色だった。


 いないじゃないか。魔女の力を持つ証の、緑の瞳の持ち主など。

 しばらくそうふて腐れていたハインツだったが、城砦で日々を過ごす内に、アマリエの腹部が次第に膨らんでいくことに気づいた。回りに聞けば、あの中に赤子がいるのだという。秋の初めくらいには生まれるだろう、と。


 九月の半ば過ぎ、城館に大きな産声が響いた。

 大騒ぎだが、人々の顔には笑みが、声には幸福が滲み出ていた。満面の笑みを浮かべたローザが飛びついてきた。


「双子なの! 弟と妹、いっぺんに生まれたのよ!」


 双子とは何かと聞くと、「そんなことも知らないの?」とローザが得意げにその意味を教えてくれた。

 まあ一人だろうが二人だろうが、赤子が生まれた。緑の瞳の持ち主はその赤子かもしれぬ。ハインツは期待した。

 

 そして一月ほど後にようやく産後の床上げをしたアマリエが、使用人たちに双子のお披露目をしてくれた。逸る気持ちを抑え、まずは姉に当たるユッテの顔を他の使用人とともに覗き込む。赤子はちいさく欠伸をした後に、大きな目をゆっくりと開いた。


 ――緑の瞳。この子だ!


 思わず手を出しそうになって、周囲の目に気づいて慌てて止めた。この子がグリータの後継者だ! 高鳴る胸を押さえる。そしてどうやって連れ出すか心の中で算段しかけた、その時。

 次に弟のカミルをアマリエは抱き上げ、皆にむけて顔を見せてくれた。


 ハインツは仰天した。思わず息を飲んで、カミルの――緑色の瞳に目が釘付けになった。


「性別が違っても、よく似ていらっしゃいますねえ」

「お目目の色なんて、まったく一緒の綺麗な緑じゃないですか」


 使用人たちは口々に可愛い赤子を褒めそやし、格好を崩した。そんな中でただ一人、ハインツは心の内で魔女に問いかけるのだった。


 ――グリータ。……これは、どうしたらいいの?

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