4 ハインツの呵責
陽が中天にさしかかる前に、ハインツは目指していた場所にたどり着いた。
どこまでも続くかに思われた森の木々の合間を抜け、やや急な坂を上り、周囲をごつごつとした岩肌が囲むようになった細い獣道を歩くこと、三時間ほど。腰高の草木に覆われ苔むした大小の岩石が重なる一角に、あきらかに人の手によって作られた小さな木の扉があった。
その時カミルはハインツの背に負われて眠っていたが、ユッテは元気にハインツの傍らを歩いていた。ノックしてください、とハインツに言われ、素直に小さな手で「とんとん」と口でも言いながら扉を叩いた。
扉の内側から、返答はなかった。予想していたハインツは、カミルを背負ったまま片手で扉を押し開いた。中からはかびの匂いと共に、蒸れた空気がふわりと逃げ出していった。
「いないか」
中は天然の洞窟である。ハインツはカミルを近くの柔らかな地面にそっと下ろした。ユッテが心得たように、ぱちぱちと軽くカミルの頬を叩いて目覚めを促した。
「んー……?」
「カミル、起きて。ついたよ」
ユッテの揺さぶりにも、なかなかカミルは目を覚まさない。ユッテの力と声が徐々に大きく強くなる。
そんな二人をそのまま置いて、ハインツは洞穴の中に身体を足から滑り込ませた。扉の背は低く、腰の曲がったグリータならいいが長身のハインツには窮屈だ。その先は数段下に向かう階段があり、飛び降りるような形で滑り降りていくと、ぽっかりと空いた空間が広がっている。上部に自然か、それともわざわざ開けたのか、明かり取りになる岩の切れ目が幾つも入っていて、中はそう暗くなかった。
ハインツは洞穴の中を見渡した。寝台代わりに藁を積んだ一角と、古びた棚や壺やカゴ。そこに置かれた様々な植物、液体、吊された干し肉と、乱雑に積まれた革や布地など。だが人の気配はない。滞在していた気配も感じられなかった。
とん、と何かが後ろから足にぶつかる感触があった。ユッテとカミルが自分たちで降りてきたのだった。
「ここ? ハインツのおうち?」
「ハインツのおかあさんのおうち?」
その問に、ハインツは曖昧に頷いた。グリータの隠れ家の一つであるが、グリータをハインツの母と言われることには妙な違和感がある。
「でも、いないのね」
「お出かけ中?」
「ここは、もとからグリータの家の一つなんですよ。一番近いから寄ってみたけど、しばらく使ってないみたいだな」
幾つか棚の中のものを手に取り、埃を払う。その時ふと、ハインツはユッテの手に握られている白い花に気づいた。ユッテの方もハインツの視線に気づいたようだ。カミルと揃って自慢げにその花をハインツの前に掲げた。
「これね、ハインツのおかあさんに、あげる」
「きれいでしょ」
手にしていたのは、五枚の花弁が重なり合った二人の手のひらほどの白い花だった。「ハインツのおかあさんのおうち」を訪れるには、何か手土産がいると子どもながらに思ったのか。
ハインツはやや虚をつかれてしげしげとその花を見つめた。そして小さく呟いた。
「あげるって……、そこの戸の横に生えてたやつじゃないですか」
うん、と大きく頷いたユッテだったが、急に不安げに顔を曇らせる。
「だめだった? つんだら、だめだった?」
「でも、きれいだったの」
顔をしかめて泣きだす直前の表情でそう嘆かれ、ハインツは思わずふっと笑みをこぼした。
「いや、ありがとうございます。グリータが好きな花です。お二人からと聞いたら喜びますよ」
そして、代わりに僕が、と前置きしてハインツはユッテからその一輪の花を受け取った。白い花びらが花心に近づくにつれ薄い黄色に染まるその花を手の中でくるりと回すと、光の加減によっては花弁全体が白金色に見えなくもない。ハインツの言葉に嘘はなかった。グリータは時折この花を何処からか摘んできては、小屋に飾っていたものだ。
グリータが次にこの小屋に来るまでもたせるには、このまま乾燥させてしまった方がいいだろうと、乾いた蔓を茎に巻き付けて壁にぶら下げる。後ろからユッテに尋ねられた。
「それ、なんて名前のお花? 見たことない」
「名前は僕も知りません。ユッテ様達が見たことは、そりゃないでしょうね。森の奥にしか生えないんですよ、これ」
「ふうん」
「……僕も、懐かしいです」
思わずこぼれた言葉をやや気恥ずかしく思い、ハインツは口元を拭ってごまかした。
「さて、ご飯にしましょうか」
その言葉に、再び浮かぶ双子の笑顔と言ったら。
ハインツは蜘蛛の巣の張った竈の埃を払い、火を熾した。変形した鍋に洞穴からすぐ側の小川で水を汲んできて、貯蔵用のかめに残っていた麦を炊き始める。水を多めにして、粥にする。と同時にここに来る途中に狩りをして仕留めたおいた野ウサギを、ハインツは地面の上に置いた。ベルトに吊しておいた短剣を手に取り鞘から抜く。
後ろで、あっとカミルが声を上げた。
「それ、とうさまの短剣!」
ハインツはぎょっとした。
「そう……ですね」
――昨晩、『代価』として己の命を取れとジェラルドから渡された短剣だ。思わず手を止め、抜きかけた鞘に収めてあらためてじっと見る。装飾も何も無いただの短剣と思っていたが、カミルが見分けられたのも道理だ。柄の部分にジェラルドの紋がさりげなく刻まれている。
「なんでハインツが持ってるの?」
「……いただいたんです」
「とうさまに?」
無垢な表情で問われて、ハインツはようよう頷くだけだった。別段、カミルはハインツに対して思うところはないだろう。純粋な問だと分かっていたが、ハインツの背中に不快な汗が伝った。カミルはくしゃっと顔を歪めた。
「なんでぇ?」
「え?」
「ぼくも欲しかったのに。でも、とうさま、だめって言った。ずるい、ハインツにだけ」
まだ危ないからだとジェラルドは言ったのだという。道理だ。四歳の幼児に鋭利な刃物を持たせる親はいないだろう。だが聞きながら、もしかして家族の元で成長していたら、いつかカミルはこの短剣をジェラルドから譲り受けたのかもしれない。そんな光景がハインツの胸の内に広がった。
とたん握った短剣の硬質な触感があやふやに思えてくる。手の内側が痺れたのか、どれだけ力を込めて握りしめてもするりと滑り落ちてしまいそうだ。
肩越しに自分の手元を覗き込むカミルの存在がやけに重く感じられた。それを振り払うようにハインツは振り向くと、空いた方の手で、カミルの頭を軽く撫でた。
「じゃあ、カミル様がもう少し大きくなったら、僕からお譲りしますよ」
「ほんと⁉」
とたんに破顔するカミルに、ハインツは無言で頷いた。
……この短剣が、この子にとって父の忘れ形見になるのだろう。ハインツの心の奥が、ぎしっと軋んだ気がした。
約束、約束だよ、と飛び跳ねるカミルを、今度はユッテがずるいずるいと顔をしかめている。再び元気に騒ぎ出した双子達を余所に、ハインツは今度こそ短剣を鞘から抜き、野ウサギを捌きはじめた。俯いたその横顔から、表情らしきものは消え去っていた。
野ウサギの腹を出し、毛皮を剥ぐ様を双子達はじっと見つめていた。怖がるかとも思っていたが、意外にもユッテもカミルも平気そうな様子だ。それもそのはず、好奇心旺盛な双子は城砦内を駆け回るのが大好きで、危険がない所では各所の仕事ぶりを眺めることを許されていた。厨房で、もっと大きな羊や鹿を捌く料理人の姿も見慣れているのだ。
粥は歪んだ木の椀に、野ウサギの焼肉は大きな葉にのせて二人の前に出すと、二人は飛びつくようにして食べ始めた。匙がなかったので手頃な木片で代用したが、それで器用に粥を掬う。肉は手づかみだ。口の周りを汚しながらやがて満腹になると、ユッテもカミルもその場でこてんと横になった。
空腹が満たされ、再び急な眠気が襲ってきたらしい。ここまで背負われてきたカミルはともかく、ユッテはその小さい身体に酷なほど歩き通しだったのだ。ハインツが声をかける間もなく、二人とも転がったまま寝息を立て始めた。
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