3 母の焦燥
城砦へ軽武装の騎兵達が戻ってきたのは、夜明けに出発してからおよそ三時間後のことだった。
昨晩遅く、城主である騎士団長ジェラルドの次女と長男――四歳の双子を連れたハインツが人外の力で城壁を飛び越え、森の中へ消えていった。その知らせはジェラルドの口より、すぐに城砦を預かる主立った部下達に伝えられた。
が、深夜の闇の中、それも森の奥深くへと捜索隊を出すことは憚られた。満月の光は煌々とウルムヴァルドの森を照らしていたが、そのために獣たちの気配もざわざわとさざ波のように伝わってくる、そんな夜だ。また昼間に街道を騒がせた狼たちの目撃談もある。部下達は、幼児を連れたハインツ自身もこの夜にはそう遠くに行けまい、夜明けを待って大規模な捜索隊を出そう。そう言って、今にも剣を帯び、馬を駆って森に飛び出そうとしたジェラルドをようよう押さえたのであった。
双子を拉致されたとの知らせは、発生とほぼ同時にユッテとカミルの母であるアマリエにも告げられた。寝室で就寝していたアマリエが血相を変えて双子の子ども部屋に飛び込んだ時、そこには開かれた窓の外を猛りきった表情で睨みつける夫ジェラルドの姿があった。
「……何が起こったの⁉」
背中に縋ってそう聞くが、動揺と怒りに震える夫は、無意識にそのアマリエの身体を払いのけようとした。一瞬のちに自分の乱暴な振る舞いに気づいたが、もうその時には、アマリエの怒りを宥められる境界線を越えていた。
「何が起こったのかと聞いているのよ!」
城内では淑やかな貴婦人との評判だったアマリエの、そんな激高した声は城内の者のだれも聞いたことがなかった。あまつさえその細腕で、筋骨たくましい夫の腕を掴みねじ上げる姿など、誰が想像できただろう。使用人達が間に入ってようようその手を離させなければ、ジェラルドの腕の骨を折っていたかもしれない――もともとの互いの腕の太さからして不可能なのは分かっていたが、そう思わせるような気迫がその時のアマリエにはあった。
「ハインツが……」
アマリエに詰め寄られ、ジェラルドは苦い表情で声を絞り出した。
「ハインツ? なぜ? なぜあの子がそんなことを⁉」
さらに畳みかけられて、ジェラルドは全てを話さざるを得なかった。
夜間の捜索が断念され夜明けを待つ間、ジェラルドはアマリエだけを書斎に呼んだ。そして、八年前の魔女との取引の詳細を語ったのである。
魔女との取引で、代価として差し出したのは「ジェラルド自身の命」のはずだった。だがハインツによれば、それは魔女の真っ赤な嘘であるらしい。真実の代価は魔女の使いであるハインツが連れ去った、「魔女の後継者」としてのユッテとカミルであった――。
話が終わり、沈黙が訪れると、アマリエは目を見開いてジェラルドを問いただす。
「魔女の後継者って、どういうことよ」
「俺にも分からん……。そんな話を、あの魔女は一言も」
「騙されたのは分かったわ。だったらユッテとカミルは魔女にされてしまうということ?」
ジェラルドとしても、そもそも理解できぬ話で答えようがなかった。
「――いいわ、もう!」
沈黙に焦れたアマリエは、苛立ちを隠さず立ち上がった。そのままジェラルドの視線を振り切って部屋を出て行こうとする。が、扉を乱暴に開いたときに、廊下で聞き耳をたてていたであろう長女ローザの姿が目に入った。
自室で就寝していたローザも、この騒動に起こされたのだろう。今や城館中の灯りに火がともされ、ローザの後ろには使用人たちも勢揃いして、気を揉んだ様子でアマリエ達を見つめていた。
「お母様、ユッテ達は……」
「……あなたは心配しなくていいのよ。ユッテもカミルも、必ず連れ戻すから。元気な姿で帰ってきたら、また一緒に遊んであげて」
アマリエは優しくローザを抱きしめた。耳元で囁かれる言葉に、かえってローザは苦しげに目元を震わせた。
室内では沈痛な面持ちでジェラルドが立ち尽くしている。その背後の窓からは、そろそろ夜明けを告げる群青色の光が東の地平線から上りつつあるのが、はっきりと見て取れた。
やがて訪れた夜明けと共に、ジェラルドは厩舎に姿を現した。
背後には追いすがる老人が一人。ホルガーである。
「ジェラルド様、お待ちくだされ。お一人で捜索に向かうとはまことにございますか!」
ジェラルドはその声に振り返らず、厩舎の馬丁から愛馬の手綱を受け取った。
ジェラルドはこの時、鋼の甲冑ではなく軽量な革鎧で全身を包み、その上から厚手の外套を纏っている。腰には長剣を帯び、背には食料などの荷をまとめた背嚢を斜めにかけていた。そして鞍に跨がってようやく、ホルダーに向き直る。
「子らが連れ去られたのは、私事でのことだ。国王陛下よりお預かりした騎士団をこれ以上動かすことはできん。狼の群れの件もある。付近の村、農地、街道の通行に被害がないよう、兵達はその守備に当たらせねばならぬ」
「ならばそれがしをお連れくだされ! 老いたと言えどこのホルガー、まだまだジェラルド様のお役には立ちますぞ!」
「いや、それには及ばん。――すぐに帰る。ホルガー、アマリエとローザを頼んだぞ」
見下ろすジェラルドの真摯な瞳に、ホルガーはしばらくにがりきった表情を浮かべていたが、やがて了承したという風に頷いた。
そんな中、城館からこの厩舎へと続く回廊にざわっとした空気が流れた。
何人かの話し声が交差する気配にジェラルドとホルガーが視線を向ける。その先に、数人の使用人たちに送られて、こちらに向かってくる人影があった。思わず、騎士団長とかつての老騎士は怪訝そうに目を瞬かせた。
「ジェラルド、私も参ります」
アマリエであった。見送りに来たわけではない。
まず目を奪うのはその服装だ。いつもの足首まである裾の長いドレスではなく、男物のシャツにズボンに、その上から肩と胸と腹の部分を厚くした皮鎧を身につけていた。まとった外套の背には、ジェラルドと同じ背嚢、そしてアマリエの上半身ほどの長さのある弓と矢筒がかけられ、波打つような長い蜂蜜色の頭髪は頭の高いところで一つに縛っている。
「アマリエ……」
「留守を預かってなどいられないわ。ユッテとカミルは、私も探します」
ジェラルドを見あげる視線は鋭く、言葉もぴりぴりとした緊張を孕んでいる。それは言外に、ジェラルドに対し全幅の信頼などおけない、と言っているようであり、またそれに対してジェラルドは反論できなかった。二人の子どもを誘拐されるというこの事態は、まったくジェラルド自身の行動と誤解によって起きた事だったからだ。
アマリエの後ろには、ローザがいた。アマリエは馬の鞍に足をかける前、振り返ってローザの目線に合わせて腰をかがめた。
「じゃあ、行ってくるわね」
ローザの視線が、母と父との間を交互に動く。何度か何か言いたげに両親に目を合わせるが、結局はそのままローザは黙り込んだ。
二騎の騎影はそのままホルガーとローザの見送りを受け、互いに会話を交わすことなく密かに東の大門から旅立った。朝日がその影を長く引く。やがて姿が見えなくなると、ホルガーは二人の背を追い森を見つめ続けているローザに、中に入るように促した。
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