2 無垢な心
両手いっぱいにケビの実を掴んで頬張る双子達の側で、ハインツは双子達から提供を受けた二着の子供用のローブを、腹と腰に巻き付けていた。
このローブは寝相の悪い二人が寝冷えをしないよう、いつも就寝時に夜着の上から着させられていたもので、素っ裸のハインツに対し、面白がった二人が「これ着て、これ着て」と押しつけてきたのだった。
ハインツ自身は裸だろうが気に止めなかったが、二人はこのローブが今は暑くて重いと言って一度脱いだ後は放り投げてしまったし、狼姿ならまだしも、人間の姿ではあまりにも急所が露わになってしまうため、それくらいは保護した方が良いかと、遠慮なく受け取ったのだ。
狼の姿に変化したときに衣服は全て脱げてしまったが、腰のベルトだけは後ろ足に引っかかり、この森の奥で人間の姿に再度変化するときまでぶら下がっていた。森の中を走る間はその引っかかりがうっとうしく感じられていたのだが、このベルトに差していた短剣も落とさずにこれたのは、今はありがたい。腰に巻いたローブをこのベルトで固定し、ハインツはようやく一息ついた。
赤紫色の果汁に口の回りを染め上げた双子達は、甘酸っぱいケビの実の味と量に満足したようだ。汚れた顔と手をハインツが清水で洗ってやると、くすぐったそうに笑う。満腹になるととたんに飛び上がって、遊ぶ遊ぶと騒ぎはじめる。
しかしちょこまかと動き回るのは二人だが、ハインツは一人しかいない。あっちを追いかけるうちにこっちがいなくなり、こっちを見つけて戻るとあっちが姿を消している。
棘のある背丈ほどの草を無造作に握ろうとしたり、尖った石の多い砂利の上に裸足で飛び乗ったり、小川の浅瀬に小魚の影を見つけて追いかけたり、根元から枝が張り出した木によじ登ったり。
だがハインツも、双子の世話は彼らが生まれたときから慣れたものだ。枯れ草だらけになり、はしゃぎすぎて汗びっしょりになった二人の身体をようやく両わきに抱えると、「もっと」という二人の主張を静かに無視して森の奥へと踏み込みはじめた。
「……ね、どこいくの?」
小川の清流の音が聞こえなくなり、カミルが少し消沈した風にハインツに問いかけた。が、反対の腕に抱えられているユッテが枝葉の合間を指さして叫ぶ。
「あっ、あそこ小鳥さんがいる!」
「どこ? どこ? ユッテどこ?」
「あっちよ、あの木の枝の上。だいだい色の羽!」
「みえない、どこぉ?」
「……あそこですよ」
暴れる二人に辟易して、ハインツは双子達をそっと下ろすと、カミルの横に屈んで側の木の枝の、かなり上の部分を指さしてやった。「あっ!」と声を上げるカミルにシッと指を口に当てる。が、間に合わず、カミルの鋭い声はマリタリと呼ばれる小鳥を空に放ってしまっていた。
「あー……小鳥さん」
「もう、カミル! ……もう」
むっとした表情を浮かべたユッテだったが、カミルが口元を歪めて泣きそうになっていると、表情はそのままにカミルの頭を、軽く手で撫でた。カミルはすん、と一度鼻をすすっただけで、それからはまた興味深げに辺りを見渡している。
「楽しそうですね」
ふと、そんな双子達の背を見ながらハインツは呟いた。振り返った二人は、うん、と満面の笑みを浮かべてハインツを見上げる。この二人の、次はどんな幸せが自分たちに降り注ぐのだろうと信じきった笑顔は、時に眩しすぎる。ハインツはいつもそう思っていた。
「森、楽しい! いっぱいいろいろある!」
「お外、はじめて!」
「はじめて? いや城砦の外には何度も出たことがあるじゃないですか。王都には年に何度も、お父様、お母様、ローザ様と泊まりがけで……」
言いながら家族の名を出した事に慌ててハインツは語尾を濁したが、二人は気づかず微笑みも崩れなかった。
「あれ、いつも馬車だもん」
「お外は見るだけだったよ」
「なるほど……」
ジェラルドは騎士団長という職務、そしてアマリエとローザは王都の王立学問所への通学のために、頻繁に城砦の内外を出入りしているが、まだ幼いユッテとカミルには城砦の内側が世界の全てであった。
外、という存在を知らなければ欲も出るまいが、なまじ遥かに高い城壁の向こう側から木々のざわめき、獣の鳴き声が伝わってくる環境では、未知の世界に対する好奇心も膨れる一方だっただろう。
それゆえか、ごくたまに城砦を出て王都への同行を許されたときの二人の喜びようは相当なものだった。ハインツも一、二度お付きとして馬車に同乗したが、揺れる馬車内でも動き回る二人がたいそう危なっかしく、アマリエとハインツで交代し、一人ずつ膝に乗せてつきっきりで面倒を見させられたものだ。興奮気味の双子は最初目をらんらんとさせて喋り続け、ついで馬車の窓が小さく、外が思うように見えないことに機嫌を悪くし、しまいには半日程度とはいえ子どもにとっては長い旅路に疲れ果てて具合を悪くする、とさんざんな思い出しかないが、ふとその時のアマリエの、ぐったりとした声音がハインツの耳に聞こえた気がした。
――ほんとうにこの子達は……。ハインツ、手間をかけさせたわね。
到着寸前に眠ってしまった二人の頭を撫でながら、そう言いつつもアマリエの頬には柔らかな笑みが浮かんでいた。ローザも隣であきれ顔で二人を覗き込んでいたが、ぷっくりとした頬をつんつんと突いて、う、う、と寝ぼけて反応する双子達の様子を楽しんでもいた。
そこまで考えたとき、目の前のカミルがすてんと前に転げた。ひっと、小さな声を出して、地面に伏せたままひんひんと泣き出す。
「ころんだ……」
駆け寄ったユッテは、カミルの肩を乱暴に揺すって立たせようとする。
「カミル、ころんだくらいで泣いちゃだめ。もう四さいなんだから!」
言われて、カミルは口を閉じ、そのままゆっくりとではあったが立ち上がる。
――もう四歳だろう、泣くな。
父であるジェラルドは双子達が泣き出すと、よくそう言いきかせていた。アマリエのように手取り足取り子どもの面倒を見る父親ではなかったが、言葉での意思の疎通が出来るようになってからは、ことあるごとに低い声でそんな風に諭していた。双子達が聞き分けなくても激高したりはせず、同じ口調で何度も言い聞かせる根気強さもあった。
そんな家族の情景をふと思いおこして、ハインツは、いや、と頭を振った。
それは、終わった光景だ。ユッテとカミルはもうあの家族の輪に戻ることはない。
それが、ジェラルドと魔女がかわした約束なのだから。
双子は、まだその事実に気づいていない。言い聞かせても、先ほどのようにおそらく理解はできない。ならばこのまましばらく黙っていよう。両親を恋しがって泣かれても面倒だ……。
ハインツは、まだ表情にはべそを浮かべて、しかし顔を拭ってそれ以上の涙を堪えているカミルの前にしゃがみ込み、すりむいた膝を診てやった。小川に戻って水で洗ってから、これは布をあてるよりも自然に乾燥させた方がいいだろうと、それだけに留める。気づくと、泥に汚れた裸足の足先が枯れ葉や石で傷ついている。それはユッテも同じだった。
「痛くありませんか?」
「いたい」
「いたいよ」
声は元気なのだが。
城砦の城館の中や、庭や薬草園などでは外も裸足で走り回る二人だが、足場の悪い森の中では危険だろう。ハインツはカミルを右肩に担ぎ上げ、ユッテは左腕で抱き上げた。急に高い視点になりまたはしゃぎ出す二人に、静かに告げる。
「では行きますか」
「ねえ、どこいくの?」
そう言えばさっきもカミルにそう聞かれたな、と思い出した。
「グリータのところです」
「グリータ?」
「『森の魔女』……って言っても分かりませんよね」
「女の人?」
名前の響きから、ユッテはそう思ったらしい。ハインツが頷くと、カミルが高い声をあげた。
「ハインツのおかあさん?」
――おかあさん?
聞かれて、ハインツははてと首を傾げた。
確かに自分は仔狼の時からグリータに育てられた。黒狼の群れに生まれた一匹だけの白金色。母狼は知らぬ。群れの掟で、ハインツは生まれてすぐからグリータの手で山羊の乳を口に含まされ、毛づくろいしてもらった。アマリエが、ユッテとカミルに匙で粥を食べさせ、湯で身体を洗ってやったように。
ハインツはしばし考え、しかし何も答えなかった。二人の幼子を抱えたまま、そのまま一歩一歩踏みしめるように、森の奥へと踏み込んでいった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます