第二章
1 森での目覚め
――私も滅せ。炎よ……。
乙女の吐くか細い息が呪詛となって、森の夜のキンと張りつめた空気を弾いた。
森の中の小さな泉の側。青臭い草地の上に仰向けで身を投げ出し、見上げる星空の光はちらついて瞳を苛んだ。空を覆う闇が今にもこの地上に落ちてきて、全てを無きものに、潰してしまえばいいのにと乙女は唇を噛む。
「うう……」
肌に貼り付いた灼熱の痛みが、小さなうめき声として発せられた。火傷の傷は乙女の顔半分、肩から右腕にかけて白い肌を赤黒く腫れあがらせていた。
痛い。熱い。――だがそれ以上に、憎しみと喪失感がまぜこぜになった感情が、乙女の内を駆けめぐる。
ようよう瞼を閉じれば、見えぬはずの炎がありありと浮かぶ。耳から消せぬ声が、いつまでもいつまでも響き渡る。燃えさかる薬草園。闇夜を煌々と照らす、激しい炎。
父と母が、兄達が、そして夫が、乙女の名を呼ぶ。二人の間の子達が、かあさま、と呼ぶ。
そして繰り返すのだ。
――たすけて、あつい、火が、こわい、なんで、なんでこんなことに!
――たすけて、たすけて、燃える、燃える、……かあさま!
はぜる炎の中で、その声はかき消えた。炎に包まれた肉体が、黒く焦げて地面に倒れた。
叫んでも、手を伸ばしても、届かなかった。乙女は肌を焼かれ人々に引きずり出され、地面に押しつけられた。人々は口々に叫んだ。
――薬をよこせ‼
「ハ……ハハハ、……ハァッハッハッハッハ……‼」
乙女は狂ったように哄笑した。口を開ける度、喉の奥底を震わせる度、焼けただれた頬の皮膚が裂けて血が噴き出したが、もう痛みすら感じない。
――たわけたことを。自ら燃しておいて、何を求めている⁉
声を枯らしてひとしきり笑い終わると、短い呼吸の合間に、乙女は夫の名を、子達の名を呼んだ。叫んだ。なんども、なんども。いつしか、叫びが嗚咽に変わるまで。
その声に呼ばれた訳でもあるまいが、いつの間にか横たわる身体の足下に、白く光る影があった。
影は揺らめくように立ち上がり、四本の脚を動かして、ゆっくりと乙女の側に寄ってきた。白金色の毛が、月の光に輝いている。自分を覗き込む狼の顔、赤い双眸。
殺気だった人々の中に突然飛び込んできた、白金色の大狼。かつて一度森で出会った、病に苦しんでいたあの大狼。
人々の沸き上がった憎悪の中で八つ裂きにされようとしていた最中、大狼の背に乗せられ、夜空を舞った。――記憶はそこで途切れている。
乙女は目を閉じた。血の気がすうと引いていく。手先、足先が麻痺し、その痺れが次第に身体の内側に忍び寄ってくる。
このまま死ぬのか。それもいいと思った。夫と子達の名を、乙女はもう一度か細い声で呼んだ。
――夢を見ているのか……。
見知らぬ男が、自分を覗き込んでいる。
大狼はどこへ行った。ああ、もはや分からぬ。
男は、誰なのか。目が開かぬ。
かすかに認めたのは、大狼と同じ色の、白金色の美しい頭髪のみ……。
チチチチ……。梢に止まる小鳥の鳴き声が、朝日のきらめきに良く跳ねている。
サワサワと流れる小川は、少し先の岩肌から湧き出たばかりの清水の流れだ。ハインツはその流れに両のてのひらを浸して、指先がちりっというほどに冷えた水をすくい、喉に流し込んだ。
さらに、甘い匂いを感じて辺りを見渡す。多種多様な草木が生い茂る中を分け入り、古木の枝に絡みついた蔦を乱暴に下から引いた。ざざっという音と共に蔦に実った赤紫色の実がいくつも落ちてくる。一つを手に取り、中の果実を口に含む。甘酸っぱさは熟している証拠だ。ハインツは手にしていた短剣で蔦ごと切り離すと、両手に抱えてまた小川まで戻ってきた。
生い茂る森の木々の中、少し開けたこの沢は、清水の流れで風が抜けるのか空気が澄んでいて心地よい。砂利の地面を進み、緑鮮やかに葉を茂らせた腰高の植物のさらに根元を覗き込んだ。
二人の幼子は、そこでまだよく寝ている。
柔らかく大きな葉を敷き詰めた地面の上で、ユッテは仰向けに手足を広げ、カミルはその脇に寄り添うように腰を丸め、指をチュッチュッと吸いながら寝息を立てていた。夏とはいえ夜は冷えるのでさらに大きな葉を上からかぶせていたのだが、寝相の悪いユッテの仕業だろう、ほんの少し離れた間に全部を周囲に蹴散らかしていた。
「まったく……」
言いつつも、甲斐甲斐しくハインツはもう一度葉をかぶせてやった。やはりカミルは寒かったらしい。もぞもぞと身体を動かして、その葉の中にさらに身を滑り込ませた。
だが、そろそろ覚醒の時間らしい。ユッテが小さく声を出す。ん、んんと手足を動かしはじめる。伸ばした足先がカミルの腹に当たり、先にカミルのほうが目を開けた。焦点の合わぬ瞳で、ハインツをぼんやりと見上げている。朝日の中で、緑色の瞳が徐々に光を増していった。
「おはようございます。カミル様」
いつもの朝と同じようにハインツが声をかけると、カミルは一度顔をしかめて、いやいやするように首を振った。カミルはいつも寝起きにこんな顔をする。眠い、まだ眠いとだだをこねるのだ。大声で泣かなくなっただけ赤子からの成長は見られるが。
その動きに、ユッテの方も眠りの世界からむりやり引き剥がされた。カミルが振り回した手に頭を小突かれ、ユッテは唸りながら一度横に転げた。再び仰向けになったときには、目もぱっちりと開いている。カミルと同じ、木々の緑をそのまま写しとったような輝く緑眼。
見間違いではない、とハインツは思った。二人とも、昨夜よりもより瞳の色が鮮やかになっている。
「ユッテ様も目が覚めました? 朝ですよ」
「ん……おきた。ユッテ、おきたよ……」
口の中でもごもご呟きながらユッテは身を起こした。そして自分が横たわっていた場所が、いつもの子ども部屋の寝台ではないことに気づいたようだ。頭のすぐ上にある柔らかな枝葉を不思議そうに眺めてから、手を伸ばしてぎゅっと握る。
ぼんやりと、しかしやや不安げな表情を浮かべたユッテだったが、カミルが隣にいることに気づいて幾分安堵の色を浮かべた。ユッテの脇の下にハインツが両手を差し入れ木の下から出してやると、広がる空と、木々の緑に包まれた光景を見渡して、ユッテは驚いて飛び跳ねた。
「ここ、どこ? ――お外⁉」
ハインツは目を丸くしたユッテにただ微笑むと、同じようにまだ半分寝ているカミルも外に出してやった。カミルはそのまま座り込んで再び瞼を閉じようとしていたが、はしゃぐようなユッテの声に自分も周囲を見渡しはじめた。
「おっと」
どこかに走り出そうとするユッテの襟をハインツは掴む。引き戻すと、ユッテは口も目も見開き頬を紅潮させて笑っていた。
「お外! お外! ここ、森の中?」
「はい、そうです」
「なんで? なんで外にいるの? いつユッテおうち出たの?」
矢継ぎ早にそう聞いてくるが、ハインツの答えはそう必要としていないようだ。きゃっきゃとはしゃぎながら飛び回っているユッテをただ見ていると、隣でカミルがぽかんと口を開けてハインツを見上げていた。
「お外? ……なんでえ?」
聞きながら、だっこをせがむようにハインツにすがりついてくるカミルを、珍しく無条件にハインツは抱き上げた。走り回り、小川のせせらぎに手を差し入れ「つめたい!」と叫んでいるユッテを呼び寄せ、その隣にカミルを下ろす。並んで見上げる双子の視線に交互に眼を合わせて、ハインツは静かな声で囁いた。
「お二人を、昨晩、旦那様からもらい受けました。今からあなたたちを『魔女』の所に連れて行きます。ユッテ様、カミル様。あなたたちは――『森の魔女』の力を受け継ぐ者なんですよ」
カミルとユッテの表情から、笑みが消えた。
眼を見開き、口を開けて、ただただハインツの顔を見つめている。
自分はどんな顔でこの二人を見下ろしているのだろう、とハインツは考えた。笑ってやるのがいいのか。それとも、そんな情は見せない方がいいのか。
チチチチ……、と鳥の囁き。サワサワと流れる清水の水音がしばらく響いた。朝日の鋭いまぶしさが、木々の間から時折三人の影を濃くしていく。
急に家族から引き離されたことに、泣き出すか。そう思った矢先、ユッテとカミルはハインツの姿を、頭のてっぺんから足先まで何度も視線を往復させて凝視していることに気づいたのだ。
「ハインツ」
二人の声が不思議な調和で重なり合った。
「……なんで、ハインツ、はだかなの?」
ハインツは黙り込んで、自分の手足に視線を這わせた。その視線を、ユッテとカミルもそろって追いかける。今のハインツは、長く細い手足も厚みのやや薄い上半身も、もちろん下半身も、透き通るような白い肌が露わになっている。一糸まとわぬその姿は、昨晩狼姿に変化した際に、その時身につけていたシャツもズボンも身体からすり抜けていったせいなのだが、人間の姿に戻った今は、たしかに四歳の幼児から見ても異様な、あるいは滑稽な姿だろう。
ハインツは肩をすくめた。
「まあ、そっちのほうが気になりますよね。確かに」
そして妙にしらけてしまった空気をごまかすかのように、先ほど蔦ごと取ってきていたケビの実を、二人に差し出すのだった。
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