8 正気の三人

 

 ***



 ルイから電話をもらったとき、和信はちょうど校舎を出るところだった。靴箱のある玄関の隅で通話を切ると、校舎の奥に続く通路に目をやり、小さく深く溜め息を吐いた。この学校はまだ蜘蛛の糸でコーティングされている。昨日よりも今日の方が糸の膜が厚い。きっと、今日より明日の方が糸は厚く、そして執拗にかけられるのだろう。時間的な余裕はもうなさそうだ。


「さて、予定変更だ。悠里とも情報を共有して調べに向かわないとな」


 一人で行動するのはリスクが大きい。だから最低でも二人で行動すべきだろう。それも、まともな精神をしている相手でなくてはだめだ。つまり、悠里しか選択肢はない。

 ただ、今の時間はちょうど文化祭の準備の時間なので買い出しの時以外に自然な感じで離れられない点が問題だ。


「俺だけでも大丈夫ならちょうど良いタイミングだったんだが」


 生憎と、悠里は近くにいないらしい。買い出し品のメモを手にしながら和信はまた溜め息を吐いた。RISEにメッセージを入れたが、既読にもなっていない。これはぎりぎりまで居残るしかなさそうだと思い、眉間に皺を寄せる。あまり遅いと、それはそれで危険な感じがするのがまた困ったことだ。

 とりあえず買い出しを済ませた和信は先に買い出しに出ていた立和名と遭遇する。


「あれ、ノブじゃん。また追加?」

「ああ、テープとかのりとか細々とした物が足りなくなったらしい」

「言ってくれれば回って買いに行ったのに」

「お前、RISEのメッセージ見てないだろ」

「え、連絡あった!? あ、マジだ」


 やはり、高校の敷地内から離れると正気に戻るのか生き生きしている。それなのに高校での自分がおかしくなっているという自覚はないのだ。それが無性に悲しく思えてまた小さく気付かれないように息を吐く。


「あ、手間かけさせたお詫びに高校まで荷物はこっちが持って行くよ」

「いや、これくらい荷物でもないから」


 そこで、ふと思いついた。彼に荷物を持って行かせれば少しだけ時間の余裕ができるかもしれない。そのときに悠里と山岳部の例の部屋を確認に行けば良いのではないかと。それと、ついでにルイから言われたものの中に生徒達の無気力状態の間の記憶について知りたいと言われていたことも思い出す。

 ――目の前のこいつはちょうど良い相手じゃないか


「なぁ、立和名。そういえばお前、最近ぼんやりしていないか?」

「え、そう? そういえば授業中の記憶がないかも」

「やっぱりそうなのか」

「は!? ちょ、違うって冗談だよ、冗談。そりゃ、部分的にはないけどさ、先生には言うなよ絶対!」


 うっかり真面目にそう返したが、立和名は突然慌てだして否定してきた。そういえばおかしくなる前には冗談でこうしたやりとりをしていたと思い出す。


「実際の所、どうなんだ?」

「今日はやけに引っ張るな。うーん、真面目に答えると、授業を受けた記憶はちゃんとある。世界史の小テスト、連絡を聞いていなかったという痛恨のやつとか……っていうか、ノブって世界史の担当だったんじゃん。ちゃんと連絡しろよな俺に!」

「教室にいなかったのはお前の方だろ」

「え? そういや俺、あの時どこにいたんだっけ?」

「その歳でもう健忘症か」

「何とはっきりした憐れみの目……失礼な! ……いや、違うよな!? 違うはずだっ」


 言っていながら自信がなくなったのか頭を抱え出す立和名を横目に和信はじっと考える。とりあえず聞いたそのままをルイ、というかたぶんオールドアのあの少女に伝えれば良いのだろうが、和信自身もその情報から分かることをしっかりと把握しておきたい。

 立和名の反応から考えると、授業中の記憶はないわけではない。明瞭かどうかは怪しいところだが。そもそも彼は居眠りの常習犯だから信用ならないのだ。そして、すっかり記憶が抜けているのは山岳部の蜘蛛を見に行っていたことだけのようだった。


「ああ、そうだ。立和名、俺の買い出し品を皆のところへ持って行ってくれないか?」

「そのくらいお安いご用だ。けど、珍しいな? ノブなら買い出し品を皆のとこへ持って行くまでが買い出し係の仕事だーとか言いそうなのに」

「ちょっとな」

「あ、分かった。サボりだな?」


 悪い顔をして笑う立和名の頭を叩く。実際の所、やろうとしているのはまさにそれなのだが、立和名に言われると何故か腹が立つ。


「珍しいけど、たまには良いっしょ」


 からりと明るく笑う立和名に和信は買い出し品を預けた。そして、校門を通ったそのとき、ちらりと彼の顔を確認する。


「……」


 先程まで感情をよく表していた顔はそこになく、どこか魂が抜けたようなぼんやりとした様子になっていた。生徒に影響を及ぼす範囲が広がっているようだ。そのうち校舎内などは蜘蛛の卵もかくやといった具合に糸で覆われてしまいそうだ。

 和信はスマホを取り出してメッセージを確認する。


 《蜘蛛教のご神体確認、りょーかい。いつにする? 今からでも良いよ。サボれるなら大歓迎》

 《今出られるか?》

 《もち》


 雪うさぎをデフォルメしたような餅うさというキャラクターのスタンプが返ってくる。悠里はわりとこの傾向のものが好きなタイプだ。見た目だけでいえば秀が似合うのだが、彼はどちらかといえばハードボイルド系統のものを好んでいる。自分のルックスでは決して到達できない分野への憧れがあるのだろう、きっと。


 《山岳部の例の教室近くの階段で》


 それだけ返してから和信は校舎を歩く。途中で職員室前を通ったのだが、やはりその近くだけは蜘蛛の糸の侵入がない。一体なぜだろうと思いながら、少しだけ足を止める。そのとき、常にないほど険しい顔をして職員室から出て来た世界史の先生……出雲路と目が合った。


「あ? どうした、先生の誰かに用事か?」

「いえ、たまたま通りかかっただけです。出雲路先生、何かあったんですか?」

「いや、何もねぇよ」


 出雲路はそう言いながらも眉間に皺を刻むという、何もないとは思えない表情になる。何かに苛立っているような、そんな様子だった。はっきりと不機嫌なのは初めて見るかもしれない。


「と、悪いな。用事がないなら文化祭の準備に向かうと良い。引留めて悪かったな……あ、ん?」


 ふと何かに気付いたかのような声を出した出雲路に、和信は体の向きを変えかけたまま止まる。しかし、視線が合わない。どこを見ているのかと先生の目線を追って、彼が固まった理由を何となく察した。


「三井、お前――何で正気でいるんだ?」


 出雲路が凝視していたのは廊下の床だった。彼は蜘蛛の糸がかかっていない範囲にいる。一方で和信は蜘蛛の糸がしっかりかかっている場所にいたのだ。ここ最近の生徒であればこの蜘蛛の糸がかかっている場所では無気力な状態を見せている。それがないことに驚いたのだろう。

 逆に考えると、先生は蜘蛛の糸が見えており、その範囲にいる生徒は無気力な状態であるということを認識していたということだ。それが出雲路に限ってのことなのかどうかは分からないが。


「なぜ、とは俺の方が知りたいです。山岳部の蜘蛛の話が広まってから誰も彼もが蜘蛛に夢中になって、校内では無気力に過ごすようになっていました。けれど、俺はそんな風にはならなかった。何か理由があるなら俺こそ知りたいですね」

「つまり、三井は普通の生徒なんだよな……。何か耐性があったのか? 確かに最初のころは……だが、流石にこっち側の奴だったら出雲の名前に反応しないわけがねぇしな。マズいな、この可能性はまったく考えていなかった」

「先生?」


 額を押さえ、ぶつぶつと呟くその姿に疑問符を浮かべる。見る間に青ざめていくような様子は何かとても重大な問題に行き当たってしまった絶望が醸し出されていた。見ている方も不安になっていくので正直止めてもらいたいと思ったが、思考が混乱していそうな先生に言っても聞こえそうにない。


「……ヨシ、とりあえず三井」

「はい、何でしょうか」

「その厄介な蜘蛛の巣の範囲から出ろ。ちょっと話を聞かせてもらうぞ」

「はぁ、良いですけど。実は、このあとすぐに悠里と例の蜘蛛を確認しに行くつもりなんです」

「はぁ? 馬鹿じゃないのか。何の備えもなしに元凶に近付いて無事でいられるはずがないだろう。それとも何か。お前は俺よりも強い霊能者だとでも言うのか」


 まだ混乱が残っているのか、蜘蛛の範囲から外れた和信の肩をがしりと掴む。


「悠里というのは坂田だったな。奴もまだ正気なんだな?」

「はい。俺のクラスではもう俺と悠里くらいで」

「こっちは全校生徒がとっくにそうなっていると思っていたんだ。何でお前と坂田なんだろうな……」


 急遽合流場所を変えて、和信と悠里は出雲路によって生徒指導室へ詰め込まれる。今は生徒指導の先生が使っていないから好きに占領して良いのだという。


「――で、やっぱり二人とも蜘蛛の影響を受けてねぇな」

「……ってことは出雲路先生は学校の状況に気付いていたんだ」

「俺一人の力じゃ職員連中しか守れなかったけどな」

「教師として生徒を気にかけるべきじゃ……?」


 悠里がそう疑問を呈すと出雲路は痛いところを突かれたといった顔になる。当の生徒からそう言われてしまったのだから相当深く刺さったことだろう。


「生徒だと偏らせるわけにはいかないからな。それこそ千人近くを守る必要がある。そこまでカバーできるほど俺は力が強くねぇんだ。せめて騒ぎにならないように踏ん張るのが精一杯だった。……言い訳でしかないがな」


 それより、と出雲路は和信と悠里がなぜ正気でいられたかの疑問を解きにかかった。常にないほど鋭い視線を向けられて二人に緊張が走る。


「言っておくけど、出雲路センセ、ボク達は一般人だから」

「そこは分かっている。しかし、だとしたらどうしてお前達だけが平気でピンピンしているのか分からないわけだ。この際、悪いことは言わないししないから正直に話してくれ……そうだな、裏側と聞いて何を指しているか分かるか?」

「裏側、ですか」


 何と言えば良いのか分からず、和信と悠里は顔を見合わせる。裏側とは、間違いなくルイや秀が関わったあちら側のことだろう。


「何となく分かります。実在する幽霊やあやかしに対応している世界ですよね」

「おぅ……知っているじゃねぇか。まぁ、力がどうとか言って疑問にも思っていなかった辺り、そうだろうとは思ったが……しっかし、どこつながりだ?」

「つながり?」


 額に手を当て天井を仰いだ出雲路は溜め息を吐いて質問を続ける。しかし、きょとんとした顔の悠里を見て少し言葉を詰まらせた後、考えながら伝わる形を模索する。


「あー、こちら側についてある程度口止めされているだろう。それをした組織……あー、人物でも良いか……それを教えてもらえるか」

「組織というと、オールドアでしょうか。人物というと古戸さんですね」

「オールドア。なるほど、渡世のところのか……! そういえばあそこは比較的呪術師が強かったな。ひょっとしてお前達、オールドアのところの呪符か護符なんかを使っているか?」

「「使っています」」

「そ・れ・だ!」


 ビシッと人差し指を突き付けて出雲路の心のもやが晴れた。しかしそれも一瞬のこと、すぐに改めて考えなくてはならない事項で心の元気が萎んでしまう。孤軍奮闘せずに済む可能性には喜びたいが、オールドアと連携するには彼の所属が影を落とすことになるからだ。

 出雲路余一、蓮華原市立天生目東高校世界史の教師にして日本霊能者協会裏関係総合本部所属のしがない霊能者の一人である。

 ちなみにオールドアと本部の関係は、あまり良くない。


「どうしたものか……あ、今も呪符か護符を持っているか?」

「はい。これです」

「京極印だなぁ……効果は抜群だろうよ、コレは。これで効かなければもう体質レベルで問題があると言えるくらいだ」

「へぇ、結構すごかったんだ」

「ルイには感謝するべきだな」


 意外に思った二人は互いに目を合わせるとそう言って頷きあった。出雲路はそんな二人に京極印のすごさを語りつつ、言葉を押し出す。


「二人とも。頼みがあるんだが――」



 ***


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