2 異変の範囲

 

 突然蜘蛛好きになってしまったかのような生徒が全ての学年に現れその割合が七割を超えたころ、天生目東高校の陽明祭は開催まであと四日ほどとなっていた。

 各クラスの演劇の準備は着々と進んでいる。ちなみに、和信と悠里のクラスは「こじらせた仮面の怪人がさえない乙女を変身させるためにつきまとうという誰得なストーリー」の劇を予定している。最初はオペラ座の怪人だとか言っていたというのに、二転三転した結果がこれだった。どうしてこうなったのかは誰にも分からない。


「何か、いろいろと変わった?」

「その一言で済ませられる変化じゃないだろ、これ」


 朝早く、学校にやって来た和信と悠里は校舎内を見て唖然とする。起こっている異常は校舎の入り口を一目見て分かるほど明らかだった。


「これって、蜘蛛の糸だよね」


 すごく薄い蜘蛛の糸があらゆる場所にかかっていたのだ。靴箱の表面にも、傘立てにも。覗ける教室の全てに薄く幕を張るかのように蜘蛛の糸があった。ただ、それらは全て少し力を入れれば裂ける程度の強度しかなく、気付きにくいものだ。しかも蜘蛛の糸によくあるベトベト感もない。一体なぜそのようなものをかけているのか謎だが、窓に蜘蛛の巣の柄ができているのを見ると悪くない気がしてくる不思議。


「とうとう悠里も蜘蛛教の浸食が……」

「え、もしかして蜘蛛の糸見えているの僕だけ?」

「いや、それは見えているけど」


 和信はそう言うと、周囲を見回してから声を潜めた。


「だけどな、悠里。この蜘蛛の糸、全員に見えているように思うか?」

「え? どういうこと?」

「皆ぼんやりしているから分かりにくいけど、どうもこの薄い蜘蛛の糸は見えていないんじゃないかと感じたんだ」


 そう言われて、悠里も周囲を見るようにする。まだ朝も早いので校舎内には生徒が少ない。他の生徒は見える範囲から離れてしまったようだ。だから、廊下の角から靴箱の方を覗いてみる。ちょうど一人、女生徒がやって来たところだった。


「尾本さんか。日直だから早めに来たのかもしれないな」


 二人と同じクラスの少女だ。

 普通の様子の彼女は校舎に一歩入ったところで無気力な様子に変じた。期せずして生徒の意識への異変が起こる範囲が分かってしまった。分かったからと言ってどうにかできるものではないのだが。ただ、今はそれよりも注目すべきものがある。

 ぼんやりと歩いてくる彼女は戸惑うことなく靴を履き替える。おそらくは普段通りに。様子を見ている限りでは蜘蛛の糸に気付いていないようだ。


「もうちょっと追いかけてみよう」

「うん。何か、ストーカーになったようで微妙な気分だけど」

「たまたま方向が一致していた。それだけだ」


 ぼんやりとした調子で歩いている尾本は不思議なことに職員室の近くまで来ると目が覚めたかのようにしっかりとした足取りになる。だが、先程までぼんやりしていた自覚はないようだ。


「あ、職員室の近くは蜘蛛の糸がないね」

「ああ、円状に蜘蛛の糸が途切れているみたいだな。そういえば先生達は誰も蜘蛛教に入信していなかったな」

「入信……でも、確かにそうだ。あれ? だけど、僕達の異変に気付いている感じもなかった」

「いや、出雲路先生は分かっている様子だったぞ」

「その先生以外は?」

「……ないな」


 出雲路先生以外は担任の先生でさえ生徒達の異変に気付いている様子はなかったことを思い出し、和信は顎に手を当てて考え込んだ。それを横目に悠里は職員室を見る。特に用事がないうちはあまり近寄りたくない部屋だ。尾本は日直なので日誌や連絡事項を確認するために来ていたのだろう。


「あ、戻って来た」

「ん? ……ああ、普通の様子だな」

「うん。でも蜘蛛の巣の範囲に入ると……」

「また無気力になったな。糸が切っ掛けになっているのか? いや、あくまでも範囲の目安になるだけかもしれない」

「でもたぶん、見えてないよね」


 そのまま二人は尾本の後をつけるように教室へと向かう。おそらく普通の生徒に蜘蛛の糸は見えていないのだろうと結論づけながら。

 そんな二人をさらに後方から冷静な瞳が見ていることには気付いていなかった。



 ***



 本番まで残すことあと数日。この頃になると出し物を演劇に決めたクラスは通しの練習を行うことが増えてくる。和信と悠里のクラスもまた決められた時間に本番で使う舞台を使って通し練習をしていた。舞台はまるで神社の舞殿のような豪華な作りになっており、初めて見たときは和信と悠里は互いに顔を見合わせてしまったものだ。蜘蛛教徒達の本気を見た気分だった。


「しかも、意外に蜘蛛の糸がびっしり張られているな」

「やっぱりおかしいよね。……あちら側の何かがいるのかも」

「そうか! 確かにそうとしか考えられないな」


 二人が話しているのを無言でじっと見つめてくる生徒達。その気配に気が付き、目を向けた二人はびくりと肩を跳ね上げる。言葉を話さなくとも良く分かる。その瞳が雄弁に語っていたからだ。


「「ごめん、手伝います」」


 ちなみに、二転三転して決まった劇……こじらせた仮面の怪人がさえない乙女を変身させるためにつきまとうという誰得なストーリー……の冒頭部分はこんな感じだ。



 ☆★☆★



「ああ――私の顔は焼け爛れ、元の形など見る影もない」


 怪人には凄惨な過去があった。


「だが、そんな私でも良いと彼女は言ってくれたのだ」

「私の仮面生活を支えてくれたのは彼女で間違いない」

「それなのに、彼女は私の元を去ってしまった!」

「なぜだ、なぜなんだ! そう問うた私に彼女は言った」


「あなたのそばに綺麗な女性が集まったから――」


 その去り際の美しさよ。思わず見惚れて呆けてしまった。美しいというのなら、彼女こそがそうである。


「だが心の美しい彼女は、自分の顔に劣等感を持っていたのだ」

「私の周りに綺麗な女性がいるとして、それが何だと言うのだ」

「彼女に及ぶ女性などいない――」

「だが、彼女の劣等感は強かった」

「確かに少しばかり目は小さいかもしれない」

「確かに少しばかり鼻は低いかもしれない」

「それが何だと言うのだ! 愛嬌のある顔ではないか」

「ああ、愛しのマルグリット! 私は君を諦められぬ」


 かくなる上は――


「そこで私はふと思いついた」

「容姿が気になるというのならば私が彼女を美しくすれば良いのだ」

「化粧水、ファンデーション」

「アイブロウ、アイシャドウ、アイライナー」

「頬紅、そして口紅……まるで呪文のようだ」

「だが私でもそろえようと思えばそろえられる」

「そしてどれだけ醜い顔でも美しく装えると分かれば……」

「――彼女は私の元に戻ってくれるかもしれない」

「幸い、醜い顔は……仮面を外せばほら、ここにある」


 ――ここから彼の転落劇が始まる――



 ☆★☆★



 自分達のクラスの演劇を見て、和信と悠里は何とも言えない微妙な表情になっていた。舞台の上では最近の無気力状態が嘘のように生き生きとそれぞれの役割をこなしているので見応えのあるものにはなっている。ただし、ストーリーが問題なのだろう。怪人の思考回路が分からなくて辛い。というか、脚本を描いた生徒の頭がおかしいのか。該当者は数人いる。


「うちのクラスは本当にこれで良いのか?」

「でも、今さら変えられないし」

「それはそうなんだが……そうなんだよな……」


 二回目はより深刻そうな声音で呟く和信。諦めて受け入れるには彼の中の何かが徹底抗戦を叫んでいるらしい。ちなみに、この“何か”は今の天生目東高校で起こっている蜘蛛関係の異変に対しても向けられていた。


「というか、俺達もSTINAとしてこの舞殿型舞台で歌うんだよな」


 一月ほど前だっただろうか。STINAのことを知る校長先生から打診を受けたのだ。せっかくだからということでそれを受けていた。もちろん、サプライズゲストとして向かうため、普通の生徒達に知られないように事前の下見はしない。その代わり、この高校の生徒である和信と悠里が見ておくことになっていた。


「でも、ちょっと嫌な感じ」

「それよりも、ルイや秀に現状を話さないと」

「そういえば、忘れてた」


 二人は顔を見合わせる。どうやら少しばかり影響があったのかもしれない。これは相談も急いだ方が良さそうだぞ、と双方とも情けない表情になった。



 ***



「……というのが俺達の高校の現状なんだ」


 事務所での打ち合わせの際に和信と悠里からそう打ち明けられて、ルイと秀は頭を抱えた。よりによって本番の三日前に知るその事実には頭が痛くなる。


「それは結構な異変なんじゃない?」

「おれとしてももう少し早くに相談して欲しかったな」

「「あ、やっぱり?」」


 何となく相談すべきだと思っていても口に出せなかったのはおそらく二人もまた学校の異常に影響されていたからに違いない。本番直前になっての相談に申し訳ない気持ちもそうだが、それ以上に相談できたことへの安堵があった。


「とりあえず分かっていることをまとめてくれるか」

「ああ」「うん」


 天生目東高校の異変について分かっていること。

 まず、その発端としては山岳部生き物係が持ち込んだ新種の蜘蛛だと考えられる。その物珍しさに生徒が食いついてからおかしな変化が起こるようになったのだ。

 それは、例えば異様に無気力な状態の生徒が増えたこと。

 それは、例えば蜘蛛を神格化しているかのような言動。

 それは、例えば校内のあらゆる場所に蜘蛛の糸が張られていること。


「挙げようと思えばきりがない」

「たぶん、他にも気付けるはずなのに認識していなかったことがもっとあるかも」


 思考の誘導もあったかもしれない。


「そういえば、あくまでも“校内”なんだね?」

「ああ、今日見た限りでは校内だけだった。ただ、一歩でも入れば生徒は無気力になる」

「先生とかは?」

「先生自身は生徒が無気力な様子に気付いている先生と気にしていないような先生がいる。そういえば、職員室は何ともなかったな」

「蜘蛛の糸もそこだけ避けているみたいだった」

「安全地帯だったのかもしれないな。もしかしたら古戸さんの側の人がいたのかも。おれの学校では京極先生がそうみたいだし」


 早いうちにその人を見つけて頼ることができれば今のどうしようもない異変は避けることができたかもしれない。だがそれは、過去を変えたいと願うもの。今は必要のない考えだ。


「それと、言いにくいんだが、俺達が歌う予定のステージは蜘蛛に捧げるのだからということですごく神社の舞台っぽい」

「しかも蜘蛛の糸がびっしり」


 それを聞いて、まだどこか他人事な様子だったルイと秀の二人は真剣な顔になる。口元も笑みの形を見せなくなった。趣味の悪いステージで歌う羽目になるかもしれないと思えば笑ってはいられないのだ。


「和信、悠里、その蜘蛛の糸は当日に全部払ってしまうことはできない?」

「無理だろ」

「全体的にかかっていたから……」


 自己解決(実行は二人)を考えてみても、残念ながら難しい様子。本当に取りきれないほどの蜘蛛の糸があるのだろう。


「やっぱ、まず間違いなくボク達で何とかできるものじゃないよね」

「だろうなぁ。話だけでも良く分かるよ。明日辺り古戸さんに話してみる。だけど、依頼料はどうなるかなぁ」

「お友達価格でも適用してくれたら良いのにね」


 秀とルイはこの件を裏側に持ち込むことにしたようだ。彼等もそちら側を覗くのはこれで何度目になるか。本来ならあまり良くないことだが、そろそろ頼るのにも躊躇いがなくなっていた。


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