操躯之章
1 違和感の在処
「これはやっぱりおかしいよなぁ……」
三井和信はくいっと四角フレームの眼鏡を押し上げると深刻そうにそう呟いた。彼が今いるのは蓮華原市の西側に位置する市立天生目東高校のとある教室が見える位置だ。この教室は記憶が定かであれば山岳部の風景の写真を愛するチームと生き物を愛するチーム用の場所だったはずだ。風景写真はまぁまぁ見所があるが、山岳の生き物はだめだ。蛇や蜥蜴などの爬虫類の他にも蜘蛛やムカデなどの昆虫も山ほど飼育されている異様な空間で、普段は多くの生徒が寄りつきもしない場所となっていた。ところが、今はなぜか列ができている。その多くは彼と同じ一年生だった。
「なぁ
和信は近くにいた友人を捕まえるとそう尋ねる。彼は腕を引っ張られる前まではどこかぼんやりとしたような目をしていたが、和信の方へ振り向くとその気配はさっと消えていた。
「え? 知っていてここにいるんじゃなかったのか。ほら、あれだよあれ新種の蜘蛛発見ってやつ」
「新種の蜘蛛? 聞いたことがないな」
「ああ、そうか。この情報って今はまだ限定的なんだっけ。噂を浚えばたぶん見つかるっしょ」
「でも何でそんなものにこんな列作って……」
「だって、山岳部の奴ら部屋から出したがらないんだもん。だったら行くしかないってわけ」
そんなに見たいものだろうか、と思ったのだが、今の目の前の光景がそれを肯定しているようだ。新種という話題性があるとはいえ、蜘蛛ともなると男ならばともかく女子は
「まぁ、俺は大して興味ないし、良いか」
妙なムーヴメントが起きているが、和信としてはそれに乗る気は起きなかった。正直に言って蜘蛛は好かない。日本の蜘蛛は益虫と言われることも多いが、やけに大きかったり不意に現れたりするので苦手だった。何より巣を張るのが最悪だ。普通に道を歩いていて何か糸のようなものが顔にかかったと思って取ってみれば蜘蛛の糸だったときは殺意が沸く。
「……そんな評価がほとんどだったはずなんだけどな」
休み時間になると教室は途端に人が減る。減った分はあの山岳部生き物係が持っているという新種の蜘蛛を見に行っていると容易に推測できた。
一度見に行った者でも、また見に行こうとする。たった十分しかない休み時間なのに列に並びに行く。
新種の蜘蛛はそんなにも良いものだろうか。
和信は何となく不気味さを感じながら教室を出る。もちろん、蜘蛛見学に……ではない。職員室へ先生を呼びに行くのだ。世界史などは地図といった小道具もあわせて持っていくことがあるので、担当の生徒は必ず御用聞きに向かう。
「あん? 今日は持ってくものはないな。あ、そういや明日から文化祭の準備に入るから今日は小テストをやっておく予定だった」
世界史は
「小テスト……聞いてません」
「そりゃあ、今言ったからな。どいつもこいつも文化祭の前後は浮かれていて授業にならないから目覚ましがてらやるぞ。係なら早く戻って連絡してこい」
抜き打ちテストということだろう。問題は教室に戻っても伝える生徒がほとんどいないことだろうか。誰もかも大きな世界より小さな世界に夢中になっているのだ。
「今回は過去最低の平均点になるかもな……」
和信は溜め息を吐きながら重い足取りで教室へ戻るのだった。
当然のこと、教室にはほとんど人はおらず、連絡も意味をなさなかった。一部の抜き打ちテスト情報を知れた者は悲鳴を上げると教科書にかじりつく。
「ノブー! そういう連絡は早くしてよっ」
「俺もついさっき聞いたばかりだ。普段から真面目にやっていれば良かったんだぞ、悠里」
「くぅぅ……あのおっさん許さないから……っ!」
そして、たいして時間が経たない内に出雲路先生がやって来た。そのころになれば蜘蛛を見に行っていた人達も戻ってきていたが、その多くは無気力に座っているだけだったりする。異様だ。
「おー、このクラスも例に漏れず無気力だな。……この神無月に面倒なことだ」
先生は何事も承知しているかのようだった。そして、異変が異変であるとも認識しているようだ。
それに気が付いて、和信はハッとする。やはり今の天生目東高校はおかしいのだと心の底から思えたからだ。
教科書から顔を上げると、出雲路先生と目が合った。彼はにやりと笑うと手に持っている小テスト用の紙束を左右に振って見せる。そして、パンパンと手を叩いた。
「ほーら、皆大好き小テストだぞー。しゃっきりしろ。俺の授業を腑抜けた調子で受けるのは許さんぞ」
「えっ……嘘だろー!?」
「「「ひー! 何もやってないし!」」」
「ほぅ……お前たちの不真面目さはしかとこの耳で聞いたからな?」
「「「あっ……」」」
途端にいつものざわめきを取り戻す教室。非日常から突然日常へと連れ戻されたかのような変化に和信は眉間に指をかける。おそらく似たような感覚を受けたであろう悠里の方を見てみれば目を白黒とさせていた。
「仕方ねぇなぁ……五分やろう。詰め込めるだけ詰め込んどけ。恨むならちゃんと連絡を聞いていなかった自分を恨むんだな! 聞いていれば十分は余裕があったのになぁ?」
「「「ヒィー!」」」
もはや誰も先生の挑発的な言葉に反応する余裕はなさそうだった。その中で比較的落ち着いている和信を見て、先生はぱちりと一つウインクする。
ひょっとして何かを知っているのだろうか。だとしたら、彼は何者だろう。分からないのは少し不安だが、いざというときに頼りにできそうな大人が校内にいるのは気が楽ではある。
このとき、和信はこの高校でさらなる異変が起こることを予感していたのだ。
***
坂田悠里は立ち竦んでいた。目の前にあるのは最近になって噂として大きく広まりだした蜘蛛を見るための行列だ(たぶん)。山岳部生き物係の教室は校舎の一階にある。そこからの列がひどく長くて一階は通れなくなっていたのだ。
「うわぁ……」
今はちょうど文化祭準備期間であり、授業は少しばかり早く終わる。その代わり、休み時間が短くなるのだ。そのため、多くの人の目的地が一致しトイレなどは混み合う。つまり、行列はそこまで珍しいわけじゃない。
けれど、今回は行列になっている場所が珍しい。山岳部の部室など普段は寄りつきもしないものだ。
「新種の蜘蛛が……」
「……蜘蛛さま……」
行列から聞こえる声に耳を傾ければ彼等の目的も知ることができる。悠里は何となく拾った単語に溜め息を吐く。
「まだ新種の蜘蛛ブームが続いていたんだ。すぐになくなると思っていたんだけどな」
人間の生理現象に勝る蜘蛛見たさというものがあるらしい。悠里には想像もつかないことだが。作られている列を見ていくと先日とは異なり上級生までいる。そんなに見ようとするほど珍しいのか。これだけの人気を見ていると悠里もついつい見たくなってしまうかもしれない。とはいえ、貴重な十分間の休憩時間を割く気にはなれなかった。
「みんな、変わったなぁ」
購買は普段なら昼休憩までにほとんど売り切れてしまう。それなのに、この日は幻の焼きそばパンが五つも残っていたのだ。幻が幻じゃなくなっている。それはとても異常なことだと思う。美味しいパンがたくさん手に入って嬉しいけど。その嬉しさを共有できる友人がほとんどいなくなってしまった。
「ノブ、お土産」
「ありがとう。というか幻のクリームパンか。よく買えたな」
「幻シリーズはどれも残ってたから」
「幻が幻じゃなくなっているのか。異常だな」
「それ僕も思った」
異常の恩恵を受けて買えた美味しいパンをじっと見つめながら二人はそう話していた。幻シリーズは限定三十個という需要に見合わぬ過小供給しかないのですぐに売れてしまうパンだ。その中でも特に売れ行きが良いのは焼きそばパンとクリームパンという、総菜パンと菓子パンのトップだったりする。
「蜘蛛フィーバーの裏でこんなに美味しい思いができるとは思わなかった。ね、ノブ」
「誰だって思わないだろ。でも、流石に少しおかしすぎる、か?」
今やもう休み時間に教室に残る生徒は二人を除いていない。普段なら数人くらいは屯している水道の近くや屋上も人影はない。生徒のほとんどが新種の蜘蛛に夢中になってしまっているのだ。先生は流石にその波には乗っていないが、大多数がそんな様子なのでおかしいのはむしろ自分達ではないかと思ってしまいそうだ。そんなはずはないのに、この空間にいるとどうしてもそう思ってしまう。いや、思わされてしまう。
「しかも――今年の陽明祭は新種の蜘蛛にささげる演目、で占められているときた」
「一周回ってばかばかしくならない?」
「それを言ったら俺達はぼこぼこにされるな」
「立和名とか何か傾倒しているし、絶対過激派」
これはやはり妙な流れの中にいるぞ、という結論を二人で出したところでチャイムが鳴り出す。その途端にぞろぞろと他の生徒が戻ってきた。彼等は一様にぼんやりとした様子で、意識がどこかへ行ってしまっているようだ。
けれど、この状態は校内にいるときだけだったりする。放課後に門から外へ出てしまえばみんな夢から覚めたような目になっていくのだ。だから、外向きには変わらない日常を過ごしているように見える。
変わったのは誰なのか?
変わっていないものは何なのか?
「分からない……」
日が落ちて下校時刻がやって来ると校舎の電気は全て消され、眠りに入る。そんな様子を悠里は振り返って見た。夜の校舎は閉じた世界だ。だから、誰も蜘蛛に惑わされない。
「どうした、悠里」
「ううん、何でもない」
夜道を歩きながら二人は現状の確認をする。これは、文化祭の準備期間に入ってから行うようになったものだった。もし、おかしくなってしまったら互いに止められるようにと。
「よし、それならいつものように異変の列挙といくか」
「うん」
「まぁ、もはや日常的な光景になってしまったが、一番は山岳部生き物係の教室への行列か」
「今日は上級生もいたよ。それなりの割合で」
「そうか。これから増えるんだろうな……」
増えたらどうなるのか。それはまだ分からないが、あまり良くないことであるのは何となく感じていた。
「あとは、無気力になっているやつ」
「そうだな。あらゆる情熱が蜘蛛にしか向かなくなっているような感じだ」
「それでいて、文化祭の準備はわりと積極的だけど」
「それはやっぱり蜘蛛に捧げるとかいう謳い文句があるからだろ。蜘蛛が関わらないもの、特に今日のパンとかははっきりしている」
二人とも親しい立和名などは、蜘蛛のことが起こる前は幻のあんパンを手に入れることに鼻息を巻いていた。それが今は見向きもしない。今なら買えると言っても動かなかったのだ。
「それと、追加で。何か噂話の中で“蜘蛛さま”って言われてたりしてた」
「敬称をつけているのか? うわぁ……まずいだろ、それ」
「あ、やっぱり?」
頭を抱えた和信の横で悠里はへらりと笑う。
「何か妙に宗教じみてきてないか?」
「名付けるなら、新種の蜘蛛教かな」
「語呂が悪いな。でも、そのまま言うならそれしかない」
二人で話しながら、通りすがりに白い日傘をさしたおばあさんと会釈した。これは、日常。
「おい、悠里……あれは」
「夜に日傘って不思議な人だよね」
「まぁ、そうだな。うん、気付いていないなら良いのか?」
和信は驚愕したような目を悠里に向ける。そして、もごもごと口の中で呟いていた。なぜか、頭を抱えながらだ。ひょっとしてさらなる問題に気付いたのだろうか。
「ノブ、どうかした?」
「お前、気付いていないのか? さっきの婆さんはたぶん……ほら、幽霊だろ」
「え……?」
悠里は思わず後ろを振り向く。しかし、あの白い日傘は見えなかった。ただ角を曲がっただけだと思いたいところだが……確かに、日傘を差すのはおかしいのだ。今は夜なのだから。
「ないないない。ないと思いたい」
「どうだろうな。悠里、お前あの婆さんの足は見たか?」
冷たい手で背中を触られたかのようにぞ~っとした悠里は慌てて視線を前に向けると早足で歩き始めた。
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