3 線引きの必要性
いつものように学園へ行き、平和的な学生生活を送っていた来留芽。体育祭での不穏な動きもまだ表面化しておらず、のんびりとしている実感があったのだが、どうやらそれも今日までだったらしい。
「古戸さん、ちょっと話があるんだ。時間もらえる?」
少し困ったような笑みを浮かべて小声でそう話しかけてきた穂坂に、来留芽は厄介事の気配を感じた。そして、平穏はここまでだったかという諦めを胸に立ち上がる。
しかし、平穏ではない非日常こそが来留芽の日常なのだ。
「どこに行けば良い?」
「屋上。できれば、誰にも聞かれたくないんだ」
「やっぱり、こちら側の話……」
「うん。悪いな」
「別に。隠していて悪化してしまうよりはずっと良い」
来留芽がそう言うと、穂坂は少し視線を彷徨かせた。おや、と思って片方の眉を上げる。ひょっとして、もう既に悪化してしまった状況だったりするのだろうか。
「とりあえず、行こう」
今はちょうど帰りのホームルームを終えたところだ。部活のある生徒は部活のところへ、ない生徒はさっさと帰るか適当に教室に残る。そんな風に好き好きに過ごす生徒の間を通り抜けて来留芽と穂坂の二人は屋上に出た。夕日に照らされてオレンジ色に染まるその空間には落下防止のフェンスの影が見えるばかり。どうやら今は誰もいないようだ。珍しいと思いながら、来留芽は扉に人払いの呪符を仕掛けた。
「これでしばらくは誰もここまで来ないと思う。盗み聞きの心配も無い」
「古戸さん、慣れてるね」
「慣れているというか、慣れざるを得なかった。裏側のことをうっかり知ってしまった人がまた騒動に巻き込まれないように忘れさせるにも人目を避ける必要があるし」
「そうだったんだ……じゃあ、結構マズいのか」
来留芽の言葉の何が気になったのか、穂坂の表情が強ばっていた。彼は話すのを躊躇うかのように口を開いては閉じることを繰り返し、なかなか言葉が出てこないようだ。別に、悪化している状況を知らされたとしても怒ることはないというのに。
「とりあえず話して。判断はこちらでするから」
そう促せば、ようやく話す覚悟を決めたらしい。ごくりと唾を飲み込むと穂坂は時系列でまとめられた依頼の話をし始めた。
異変が起こっている場所は天生目東高校だという。鳥居越学園のある中央区からすると西に位置する高校。幸い、オールドアの守備範囲内にある。もちろん、依頼があればどのような地域だろうとも向かうが。守備範囲内というのは急ぎの場合であっても向かえるという意味だ。
「異変の内容は生徒が無気力になっていくこと、校内の至る所に蜘蛛の巣がかかっていることなどね……蜘蛛の巣もちろん、普通のかかり方じゃない?」
来留芽は斜め下を睨んで顎に手を当て、考え込む。その鋭い様子に穂坂は少したじろいでいた。
「ああ、うん。ノブとユーリが言うには全体に満遍なく……床も壁も天井も、机の上さえもあったって。たった一晩での変化だ。おかしいだろ?」
「確かに、超常的な力が働いた可能性は高い。断言はまだできないけど」
そこで穂坂は不思議そうな顔になる。彼にとっては明らかな異常だというのに来留芽は“その可能性がある”程度の認識で話していたからだ。よもや信用されていない、つまり嘘でもついていると思われているのだろうかと不満に思ったのだ。
それを察した来留芽は顔を上げると穂坂としっかり目をあわせて言葉を付け足す。
「実際に見てみないと」
その言葉には納得したかのように穂坂が頷く。しかし、先程までよりも困ったような、追い詰められたかのように唇を噛んでいた。
「そっか。だけど、そんなに余裕はないかもしれないんだ」
「なぜ?」
「実は、文化祭が今週の土曜日で、あと二日しか猶予がない。文化祭になってしまえば一般の人も大勢来るんだ」
来留芽は小さく息を飲む。どうりで、穂坂が最初に躊躇ったわけだ。人目を避けるのが基本の裏側だというのに天生目東高校の件は解決できなかった場合、表側に知られてしまう恐れが大きい。
「なるほど……」
穂坂はまるで断罪を恐れる者のように強く目を瞑っていた。
事態が大きく悪化するまで来留芽に相談できなかった……その罪悪感もあるのだろう。
「穂坂くんは、少しこちら側に立ちすぎ」
「え?」
「大丈夫。“一般の人が大勢”というならこちらが自主的に、何としてでも解決する。平穏を維持する――それが、私達の使命だから」
来留芽は真剣な目で穂坂を見据える。本来なら、彼はこちら側に関わるべきではない。今回のように無駄に不安になってしまうことが多くなるからだ。しかし、見鬼の力が発現してしまった以上、関わらざるを得なくなったのかもしれない。
彼等がその上で不安なく過ごせるようにするのは来留芽の仕事だ。
「それに、二日しかないと言うけど、こちらからすればまだ二日もある。そんな認識もできる。だから、心配はいらない」
「そっか。良かった……」
強ばった顔を少し緩めて穂坂はそう呟いていた。素直に言葉を受け取ってくれる辺り、それなりに来留芽のことは信用してもらえているのだろう。
「でも、もう少し詳しい内容を聞かせてもらえる?」
「それはもちろん」
それから、天生目東高校の異変について細々とした確認をする。しかし、穂坂は実際に見てきたわけではないため、分からないこともいくつかあった。例えば、問題の蜘蛛の育成状況、生徒達の無気力状態の間の記憶など。
「……もしもし、ノブ? 今ちょっと古戸さんと話をしたところなんだけど、おれが聞いてないところを確認されてさ……あ、調べられる? でも、無理はしないで良いって。ああ、報告は夜にオールドアで」
通話を切った穂坂は来留芽に笑いかける。
「少しだけなら見て来れるらしいよ。無茶はするなと言ったから細かいところは難しいかもしれないけど」
「充分。穂坂くんもこのままオールドアに来る?」
「あ、一緒してもいいの? 古戸さん、他にも仕事があるんじゃ」
「大丈夫。これ以上に優先する仕事はないし」
STINAのメンバーは夜に合流することになったらしい。オールドアへの来客予定はそれ以外入っていないので大丈夫だろう。とりあえず、穂坂からの話を聞いて、天生目東高校の蜘蛛はあやかしである可能性が高いと判断している。そのため、来留芽や細などの陰陽術師系統を得意とする者が中心になって対応するのが良さそうだ。その旨を式神に記して細のところへ送った。
「今のは? 鳥の形してた」
「式神。ちょっとした用事を言いつけるのに重宝してる」
「へぇ、そうなんだ。すごいね」
とても興味を持った様子で穂坂は式神について細々としたことまで尋ねてくる。少しは気分が上向きになったようだ。せっかくなので人の耳に注意しつつ話せる範囲で式神のことを語った。
彼には護符を渡しているのでそれとの違いを明確にし、迂闊に触れないように釘をさすという目的もある。
「式神は大きく分けて二つの種類がある。さっき使ったような命のないものとあやかしを使役したもの。どちらもメリットとデメリットがあるけど、仮にその手のものを見たときに気を付けなくてはならないのは後者の方」
「後者……あやかしを使役? とかいうやつ?」
「そう。そちらの方は自分で考えた攻撃ができるから危険」
何でもないことのように来留芽はそう言ったが、それが意味することに気付いた穂坂は目を丸くした。攻撃だ何だと簡単に言えるということは、そうした物騒な状況に身を置くことに慣れているからだ。普通に学生生活を送っているかのように見える十五、六の少女がそうだということは、考えれば分かるはずなのに思い至らなかった。それがなぜかとてもいけないことのように思えて自分を恥じて少し俯く。
「古戸さん。今さらだけど危ない依頼を持ち込んでごめんね」
「別に。まだそこまで危ないものと決まったわけでもないし」
「そうかな……ところで、他に気を付けた方が良いものってある?」
「穂坂くん達は幽霊に取り憑かれやすいみたいだから事故現場は特に気を付けて。他は、明らかに違和感のある人やものには近付かないこと。分からない振りを徹底すればたいていは何とかなる」
彼等が最初に裏側と接触したのは六月のこと。作曲家の静谷光久が穂坂に取り憑いたことが発端だった。おそらくはそのときに見鬼の呪符を貸したことが後に見鬼の力を発現させてしまう原因となったのだろう。それが露見してからは来留芽が度々指導のようなものを行った。そのときに彼らの場合は幽霊が取り憑きやすい傾向にあると分かったのだ。
ヒュルルと吹く風に寒さを感じて首をすくめたところ、隣を歩いていた穂坂が少し下がったところで立ち止まっていることに気が付く。
「違和感……あれとか?」
「え?」
穂坂が視線で指し示した方を振り返る。通りの向こうに黒が滲んだような人影があった。着物を着ており、髪型はところどころ解れているが団子にまとめてあるようだ。背筋はしっかり伸びているが、何となく初老の女性だと感じた。そして霊能者だということも。また、直感的にあれは危険なものだと判断する。
来留芽は周囲を見回した。今二人が歩いているのは普通の通りだ。ただ、いつもとは違うのはこの夕方に他の誰の姿もないこと。普段ならこの通りは買い物客で賑わっているというのに。
「人通りがない……」
「え、あ、そういえばそうだ。もしかして、ヤバいやつ?」
来留芽達は非日常に取り込まれていた。それに気付けなかったということにぞっとする。穂坂という普通の人を連れているというのにこの体たらく、この先は一層気を引き締めなくてはならないだろう。
「オールドアに着きさえすれば何とかできる。けど……」
「まずいって、何あれすっげぇ早いじゃんっ!」
「っ! 走って!」
来留芽達が気付いたことに気付かれたのか、老女がおそろしい勢いで近付いてきていた。二人は慌てて踵を返すと本気で走る。幸いと言うべきか現在地からオールドアはそこまで離れていない。
できることならばあの老女を引き離してしまいたいところだ。しかし、それは難しそうだった。穂坂の安全を確保しつつ行うのは厳しい。
ただ、オールドアのある通りは奥まったところであり、そこにたどり着くまでに少しばかり分かりにくい道を通ればできるかもしれない。とはいえ、曲がるところを間違えると袋小路に追い込まれる羽目になってしまうのだが……慣れていれば問題ない。
「次の角を右! 二つ先を左、次を左……」
来留芽は細かく曲がる先を指定する。そうしながら密かに確認するのはそこに仕掛けられてある術の形跡だ。
「だぁーっ! 面倒な!」
「振り切るためだから。それに、この道は一つ間違えると行き止まりになってしまう」
「きついな」
「そういう条件で組んであるから……諦めて受け入れて」
妙に入り組んだ道を駆ける。ここは、あえてそうなるように誘導している道だった。もちろん意味はあって、間違えずに道を進みオールドアへたどり着けば強力な結界が張られ、敵対している相手が掃き出されるのだ。そのため、何度か曲がる方向を指示しつつ背後へ呪を飛ばして老女を牽制した。これで敵対しているという条件が付される。
『オ……ノ……レ……』
彼女は普通の霊能者にしてはおぞましい気配をまとっていた。おそらく、正気ではないのだろう。確かな殺意を持って追いかけてくるが、その瞳にある底の見えぬ怒りは来留芽を通り越した何かに向けられているようだった。
生きた怨霊とも言えそうなその存在……強い負の心を積極的に他の者に向けるそれを来留芽達は祟りものと呼んでいる。
『邪魔ヲ……スルナッ』
ゴウッと風を伴い、強い術が放たれる。来留芽はひらりと横に避けた。先程までいた場所にそれが散っていくのを横目で見る。霊力とも妖力ともつかない、曖昧でありながら悪意を確かに含むものだった。それは祟りものの特徴で、呪詛のようなものを力として使っているのだ。
「追いつかれては困る。――留雷、足止めにはなるはず」
『ギャァ!』
「穂坂くん、次を左! 走り抜けて飛び込む!」
ようやくオールドアが見える位置にやって来た。扉を潜るときにふっと何か膜のようなものを通り抜けた感覚を受ける。そこで振り返って見れば、あの老女の姿はもう見えなかった。
「はぁ、何とか逃げられた……」
穂坂は膝に手を当てて前屈みになって息を整えていた。一方の来留芽も壁に背中を押し当てて力を抜き、息を吐いた。一先ず、危険は去ったようだ。
ついでに鳥の鳴き声や虫の音など自然の音も戻って来た。逃げているときは気付かなかったが予兆はあったのかもしれない。気付けなくては意味がないわけだが。
「とりあえず、奥へ。オールドアの中であれば安全だから」
「そうであることを信じるよ。あ、そういえば後からノブ達も来るけど大丈夫?」
「たぶん大丈夫。私達の術にかかっていたからマークはしているし。異変に気付いたオールドアの誰かが追いかけていると思う」
だから今、オールドアに来留芽と穂坂を除いて人の気配はしない。
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