9 表裏の日常
***
ただ空を行く、もはや現世に残っている理由さえも分からない幽霊達がなぜ鳥居越学園の競技場へやって来たのか。それを探り、相手と“お話”するために樹は狭間へ潜った。
滅紫の糸は優秀で、つながったものはそう簡単に見失わない。
「さぁて、どこに行くかな~」
樹は鼻歌が飛び出しそうな機嫌の良さで狭間を走っていた。しかし、今回の狭間の景色はとても機嫌良くいられるようなものではなかったりする。見渡す限りの荒れ地に今にも這い出てきそうな白骨の腕が生えており、時折地割れ部分から溶岩が吹き出ては断末魔の叫びのような音が響く。
率直に言って地獄の光景であった。
「ま、狭間は狭間だし。今日はたまたま機嫌が悪い時だったってことだよね~」
幽霊はその狭間の景色が見えているかどうか。それは分からないが、何となく飛ぶ速さがいつもよりも速いようだった。見えていないようでも見えていて、聞こえていないようでも聞いているのだ。だから、無意識でも恐怖するに違いない。それは実に人間らしい心の動きだった。
逆に言えば、怯えるでも無く普通にしていられる樹はどこかがおかしいのに違いない。きっとどこかが狂っている。
「そろそろかな~。でも、この出口だと……学園のすぐ外か~」
自然と開いた狭間の出入り口から、幽霊が現世へ出るのに合わせて樹もこの地獄の風景を背に流した。
先程呟いたとおり、出口はちょうど学園のそばに流れる川縁だった。
「ちょうど、細の結界が敷かれた境界か~……」
この辺りで幽霊は限界を迎えてしまったのか消えてしまう。
果たしてここが幽霊の発生場所もしくは霊道だった場所かどうかは微妙な線だと思いながら樹は周辺を探った。
ゴミがいくつか見つかるが、それらはたいして関係ない。とはいえそのまま捨てておくのは良くないので、なけなしのボランティア精神で拾っておく。
「これ、かな~」
目ぼしいもの、もとい関係していそうなものは二つ。一つはペットボトル詰めにされた烏のバラバラ死体。濃密な呪いの気配がしていた。
「僕が使っていた烏か~……せっかく馴染んできたところなのに可哀想にね」
樹は無造作に蓋を開けると呪いを解放する。烏の死体を媒体にしたおぞましい術が彼を取り囲む。しかし、それは何ら彼を傷付けるものにはならなかった。いや、傷付けることができていなかった。
「おやすみ。だけど、僕は君とちゃんと仕事をするのを楽しみにしていたんだよ……」
そして、ぼそりと樹が真言を唱えると烏の呪はきれいに消えた。それは呪術を仕掛けた者よりも彼の力の方が上回ったという証。
このような卑劣な術を仕掛けるような相手に容赦はいらないだろう。そう思った彼の目には冷徹な光が灯る。もしこの先、その術者と対峙するようなことがあれば容赦はしない。
もう一つ見つかったのは新聞だ。これは都市伝説などについての記事がまとめられたものだった。一面には闇に紛れる怪人の記事が書かれている。あらゆる人の執着しているものへ試練を与えるのだという。
この都市伝説新聞は眉唾物の話がほとんどで真剣に取る必要はさそうだが、とある記事にだけこの新聞のもとの持ち主のものだろう、強い念がこびりついていた。
「ええと……『蓮華原市のとある学校の七不思議! 七つに留まらない謎』か~。もしかしなくても……」
樹はすぐそばにそびえ立つ鳥居越学園の校舎を見上げた。
「はぁ、狙いはこの霊場か~。少し気を付けないとね」
そう小さく呟くと樹はまた狭間を開き、鳥居越学園に戻ることにした。あの場所で見つかるものは他にはないと判断したからだ。
***
閉会式も終わり体育祭の熱気も冷め始めたころ、生徒達の中にはぽつぽつと帰り出す者が現れる。それを見て思い出したかのように生徒会が生徒達に早めに帰るように促していた。
「終わっちゃったね、体育祭」
来留芽も八重、千代としばらく話していた(恵美里は東のところへ行った)が、そろそろ帰ろうかという雰囲気になる。しかし、八重は何とも言えない寂寥感を覚えているようだった。
「けれど、何とか大きな騒動もなくて良かったです。……来留芽さんもそう思いませんか?」
千代はそう言うと来留芽を見て少し困ったような顔をする。言いたいことがあるが言い出せない、そんな感情が覗いていた。
「確かに、大きな騒動はなかったけど」
「――その芽はあった。そうですよね?」
「何のことを言っているのか……」
来留芽はとぼけるが、どうも千代は知っていて話題にしているような気がしていた。大きな騒動の芽、と聞いて来留芽が思い浮かべるのはもちろん狭間の件だ。しかし、あれは霊能者かよほど勘の良い人でなければ見ることもできないはずだった。
訝しげな目で千代を見ていると、後ろから肩を叩かれる。
「今日はありがとう! そしてお疲れさま。青組の皆のおかげで優勝できた。ただ、君達も早めに帰るようにね」
「はい、会長」
「あはは。こうして話しかけて回っているんだけど皆会長呼びだね。何でだろう」
それはおそらく、生徒会としての仕事をしているからでは。
来留芽達は皆してそう思ったのだが、何となく言うのを躊躇って微妙な笑みを浮かべるに留まった。今日の会長は団長であることをずいぶんと楽しんでいる様子だったからだ。
「とりあえず、名残惜しい気持ちは僕も分かる。だけど、命に代えるほどじゃない。完全に暗くなる前に帰るんだ。いいね?」
大人しく頷いた来留芽達はそのまま荷物を持った。あそこまで言われてしまったら移動しないとならないだろう。歩きながら、来留芽は千代に先程の言葉の真意を尋ねる。
「実は――あぁ、ちょうど合流できました。静希さん!」
千代が呼びかけた相手は競技場の通路の壁に寄りかかっていた。名前が呼ばれたことに気が付いて顔を上げると軽く手を上げている。その顔には見覚えがあった。
「青波静希……?」
「そうですよ。そして私は生前に無色忍葉だったのです」
「え……」
あまりに唐突で衝撃的な告白に、来留芽の思考が停止する。生前に無色忍葉だった……つまり、千代は前世の記憶があるということだ。
「夢で忍葉を追体験して今や完全に見鬼の力が目覚めてしまいました。清水のお屋敷のものが最後の鍵だったようですね」
「え……本当に?」
来留芽は戸惑うしかない。
よりによって彼女だとは。しかも、どうやら清水家の忍者屋敷での記憶もあるようだ。
「ふふ。近いうちにお知らせしたいと思っていたんですよ」
「ち、千代、流石に腕を組むのは……っ」
「だめですか?」
「いや……まぁ、人目がなければ」
千代がするりと腕を絡ませ、青波は狼狽えた様子で赤くなる。甘えた様子の千代も、人間味のある青波も初めて目にした。
ここには目を逸らしたくなるほどの甘い空気が作られている。清水の屋敷で見た二人の間には恋人らしい空気はあまりなかった。互いを思う気持ちはあれども未来を共にすることに対しては諦めていたのだろう。
「わ、ぁ……いつの間に?」
八重は二人の様子を見て両頬に手を当てて目を輝かせていた。千代と彼が寄り添っているのを見て嬉しそうだ。彼女は千代がかつて無色忍葉だった話を知っていたのだろうか。
「本当に、つい先日のことです。何となく追いかけた先に彼がいたんです。実は、再会した場所は来留芽さんのオールドアだったんですよ」
「初めて聞くけど。……誰かが知ってて黙っているってこと?」
「それは樹だろう。千代と再会できたとき、近くにいたのはあいつだ」
何とか平静を取り戻したらしい青波が報告を怠った主犯の名前を告白した。なるほど、樹であれば面白半分に黙っていることもしそうだ。呆れた来留芽は額に手を当てると深く溜め息を吐いた。
「あ、いた来留芽ちゃん!」
「おー、お嬢、こんなとこにいたのか」
そのとき、来留芽の後ろから声がして振り向いた。巴と薫だ。社長もいる。社長の頭にはなぜか滅紫が置かれていた。細の代わりだろうか。教師である彼は生徒が完全に帰るまで、場合によっては帰っても仕事があったりするのだ。
「巴姉に薫兄、それに社長も。勢揃いだね」
「樹はいないけどね。実は連絡があって探していたんだ」
「連絡?」
「そこの青波っつったか……そいつも関係している。白うねりの件だってよ」
来留芽は思わず青波の方を向く。いつの間にやら先程までの甘ったるい空気は消えていた。青波も公の話し方になる。
「樹には借りを作っていましたからね。ちょうど良いので借りを返そうかと思いまして。……千代の邪魔をさせるわけにもいきませんでしたし」
絶対に後半が本音だろう。樹の友人であるならば多少の貸借りはそのままにしておいても大した問題はない、というような図太い神経の持ち主でなければありえない。借り云々はおそらく取って付けた理由だ。
「あれ? これって私が聞いちゃまずい話題にならない? ねぇ、来留芽ちゃん、千代、私は先に帰るね! お疲れさま-!」
この場に集まった面々を見て察してしまった八重は一人先に帰っていった。流石は組対抗リレーに選ばれるだけのことはある脚力ですぐ見えなくなってしまう。その後ろ姿へ手を振った。
「さて、それでは競技中の狭間の件でしたね」
「あのさ、その前に一つ良い?」
「何でしょうか」
「あんたの腕に貼り付いている子は良いの?」
「あ……」
巴の指摘に、青波は千代を見て小さく口を開いた。あまりにも自然に側にいるものだから特に問題に感じていなかったのだろう。
「だめですか?」
「あ……う……」
千代が関わると途端にポンコツ化する青波を見てどう思ったのか、社長は溜め息を吐くと彼の肩をポンと叩いた。
「君が責任を取れるのならば一緒にいても構わない」
「責任っ!?」
「見鬼の力を持ってしまったのだろう? こちら側の魑魅魍魎から守り切れるというのなら同席すると良い」
「あ、はい、責任ってそっちの。はい、もちろん千代を守れます」
他に何の責任を考えたのか、真っ赤になった青波だが、続く社長の言葉に冷静さを取り戻していた。
「では、体育祭の最後の方での話から――」
体育祭の間で狭間を開き、手を出そうとしていたのは白うねりで間違いなかったらしい。最後に狭間を縫い止めた際に彼は白うねり自体を捕らえていた。彼はこれでも紫波家の力を学び、使ってきた男。あやかしを捕らえることには慣れていたのだ。
「一先ずは簡単な連絡だけですが。白うねり自体は私の方で待機させてあるのでいつでも取り出せますよ。ただし、機嫌は最悪なのできちんと話ができるかどうかは分かりません」
「そうだな……では、オールドアへ来ることは可能か?」
「はい。今日中に伺いましょうか」
「ああ、早い方が良い」
「ではそのように」
そして、その日の夜にオールドアで白うねり事件の解決のための明かりが灯る。この場所には社長、細、樹、巴、薫、来留芽、翡翠、恵美里、そして青波がいた。流石に千代は家に帰したそうだ。必要以上にこちらへ踏み込む必要はない。
「では、白うねりを出しましょうか」
青波は無造作に呪符を取り出すと持ち込んだ籠に入れ、白うねりを呼び出した。白うねりは自分がいた場所が一瞬分からなかったのか固まっていたが、窮屈な籠に入れられ人間に見下ろされていることに気付き、威嚇の声を出しながらガッシャンガッシャンと籠にぶつかり揺らす。
「意外におっかねぇ」
「しかるべき処置をしていないものを近付けると腐食させられてしまいます。例え金属であっても」
とても会話できるような感じはしなかった。見た目は
「じゃあ、これの子どもかもしれないのを取り出そうか~」
樹が保護していた糸くず玉を取り出す。おそらくは白うねりの幼体だろうそれはなぜかハムスター用のケージに入っていた。そして回し車のところでころころとしている。順応性が高いとみるか、状況を分かっていないとみるか。
『ギィィイイイ……吾子を返せ!』
「あ、やっぱりこれ白うねりの幼体なんだ~」
『吾子、吾子もなぜのんびり遊んでいるっ。人間は我等の敵だと言ったであろうに』
樹がケージの中を見せると白うねりは愕然としたような様子になる。どことなく躾に苦労する母親という印象を持つ。もっとも、その躾は人間を敵視するという内容だが。
「少しは話をする気になりましたか?」
横合いから青波が覗き込み、淡々とそう言った。この間、来留芽達は何も話すなと言われている。
『脅すつもりか、卑劣な人間め』
「大人しく応じてくれないのであれば。しかし、これを見れば手酷い扱いはされていないと分かるのでは?」
『ギギィ……ふむ、吾子の寛ぎぶりを見れば一考の余地はありそうだ』
白うねりは子どもを見ると少し落ち着いた様子を見せる。意思疎通はできそうだ。
「僕達の質問に答えてくれたら子どもは返すよ~」
『ふん、答えられるものなら答えよう』
「では、まず、なぜあの場所に狭間を開こうとしたのか?」
『もちろん、吾子を取り戻すためだ――』
質問による白うねりの答えをまとめると、経緯としてはこうなる。あの糸くずはどうやら何者かによって現世へ飛ばされてしまったのだという。ただ、母うねりが子どもを見失った瞬間にこう聞こえたそうだ。『――命に代えても欲しくば追いかけてみせよ』と。
「なるほどね~。それで、追いかけた先があそこだったってことか」
『いかにも。二、三年も同じ事があったから印を付けていて正解だった』
「二、三年前も?」
『ああ、あれは吾子の不注意が原因よ。しかし、少し場所は違っていたかもしれぬな……。さぁ、話したのだから返せ』
樹と青波はちらりと視線を交わす。そして、互いに聞きたいことがなくなったことを確かめると白うねりを解放することにした。
「手荒な真似をしてすまない」
『ふん……あぁ、吾子をさらった奴は浮世側に行ったやもしれぬ。用心することだ』
幼体を体に取り込んだ母うねりは去り際にそのようなことを言い捨てていった。親切心を出したわけではないだろう。そこは妖界の中層に住まうあやかしで、実に不穏さを感じさせる言葉だった。まず間違いなくその言葉を受けた人間が対応に東奔西走するように仕向けたのだろう。
「ちょっとまずいかもね~」
実のところ、不穏な気配が蓮華原市に薄く広がっていたのだ。それはおそらく、まだ芽も出ていない騒動の種。
いくつもの溜め息が重なり、その夜は更けていった。
体育祭之事Fin.
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