6 露天風呂に覗きに鴉
「……ふぅ」
とある旅館の窓際で来留芽は頬杖をついて溜め息を吐き、暗い夜を眺めていた。昼間の捜索は結局何の成果もなかったからだ。あの狭間につながるものも、そもそもあれが発生した事由もさっぱり分からなかった。
今出来るのは細の無事を祈ること。そして、彼からの合流の合図を見逃さないことだ。
窓の外へ焦点を合わせていた視線をふと窓が映す自分自身に合わせてみる。見返す瞳は何の感情も窺わせない。酷くつまらない顔をしている。せっかく休暇――仕事も予定されているが――にやって来たというのに普段よりも楽しめないとは思わなかったという不服の気持ちが現れているようだ。
「来留芽ちゃん」
コトリ、とビールをテーブルに置いて巴が向かい側の椅子に座った。服装こそ普通のものだが、部屋の露天風呂で温まってきたからかずいぶんと気の抜けた雰囲気だった。
名前を呼ばれた来留芽は窓から視線を外す。
「何?」
「んーと、細からはまだ何も来ない?」
「来ない」
「困ったねぇ」
そう言いながら巴はビールをあおる。彼女は全く心配をしていない様子で笑っていた。それを呆れたように見てから来留芽は視線を逸らしてまた暗い夜を見つめる作業に戻る。酒を飲む巴に言うことはない。ワクに何を言おうとも意味はないからだ。
そのとき、部屋の扉からノックの音が聞こえてきた。巴は名残惜しげにビールの入ったコップを見たあと、それを静かに置くと酔いの見えない足取りで部屋の扉へと向かう。来留芽も座ったままではどうかと思い、立ち上がると巴を追いかけた。
「はいはーい。あ、社長」
ノックしていたのは社長だった。後ろに薫を従えている。その薫は部屋の奥を覗き込むつもりか、ぐねぐねと気持ち悪い動きをしていた。巴の冷ややかな視線がそれを穿つと同時に社長の拳がその脳天に落ちる。
「いづっ!?」
「この馬鹿は放っておくとして……巴、他の女性陣も戻っているか?」
「いや、翡翠と恵美里がまだだけど。何かあったの?」
「ああ……私と薫が聞いてきた依頼の内容で少しな……」
社長が言葉を濁してそう言ったところ、巴は浮かべていた笑顔をスッと消すと顔を顰めた。
「社長がそこまで言うほど厄介な案件だったってことか。うわぁ……めんど……」
額に手を当てて空を仰ぎつつも堂々とそう言ってみせた巴を社長は片眉を上げて見つめ、何かに納得したように頷く。
「……なるほど、酒を飲んでいたのか。メッキが剥がれているぞ、巴」
「知ってるって。――取り繕う必要があるならば可能ですよ、社長」
瞬時に仕事モードになった巴を見て呆れたように社長と薫は首を振る。いや、実際に呆れているのだ。それは細が行方不明になっているというこの状況で前後不覚になりかねない飲酒することにでもあったし、ワクたる巴ならば問題ないと思えてしまうことに対してでもあったかもしれない。
そんな二人を少し離れた柱に寄りかかって見ていた来留芽も頭を振ると会話に混ざった。
「酒飲みを咎めても無駄。それより、話の流れからして……会議をするってこと? 場所は?」
「ああ。とりあえず私達の方の部屋で行おうかと考えている。翡翠と恵美里が戻ってきたら隣の部屋へ来てもらいたい」
「分かった」
一体どんな話が飛び出してくるのか。巴ではないが、あの社長が持ち帰ってきたというだけで少し憂鬱な気分になる。半日にして終了した休暇にも――多少自業自得の感じはあれど――思うところがあった来留芽は重い溜め息を吐いた。
「ちょっと私もお風呂入ってくる」
「うんうん。しっかり温まってリフレッシュしておいた方が後々楽だよ」
そんな巴の勧めもあったので来留芽は部屋の露天風呂に入ることにした。
部屋に露天風呂が付いていると最初に聞いたときは何て贅沢なと驚いたものだが、今思えばそれは巴のためであり、不測の事態で多少忙しくなってものんびり出来るようにという考えがあったのだろう。尤も、いくら社長といえどもその“不測の事態”が現実になるとは思っていなかっただろうが。
来留芽はお湯に浸かると、ふぅ……と息を吐いて空を見上げた。星が明るく瞬いている。今日は花火がなく、外は随分と静かで不意に鳥が羽ばたく音も微かに聞こえた。夜なのに鳥か……と少し不思議に思ったが、影は見えなかったので別の何かかもしれない。
こんな日はあやかしが悪さをしていないか調べるついでに夜の散歩としゃれ込みたいところなのだが。そんな思いが来留芽の口からこぼれ落ちる。
「月が綺麗。……絶好の夜の巡回日和」
『……ワーカーホリックか』
「誰っ!」
入浴中という無防備な状態を晒している状況だった。そこに降りてきたツッコミに来留芽はタオルを引き寄せると顔を険しくして辺りを窺う。しかし、人の気配はない。恐らく、見える・声が聞こえる位置に居るはずなのだ。樹か、薫か、その他の不審者か……まさか社長という線はないはずだが。
『あー……来留芽、俺だ』
また聞こえてきた声に少し冷静になる。その声音を来留芽は知っていたからだ。
「まさか、細兄……? どこに、というか、覗き……」
じわじわと恥ずかしさを覚えて顔が熱くなる。これはお風呂に入っているからだと自分に言い聞かせるが、落ち着けるはずがなかった。
『悪い。少し式神に意識を移していてな。タイミング悪く入浴中に戻ってしまったようだ。ああ、すぐに来留芽が見えない位置に移動したから心配はしないでくれ』
そういえば、細が式神に意識を移すことが出来るものを開発していたことを思い出す。ただ意識がそちらにいく以上、本体は大変無防備になるから近くに自分の体を守ってくれる人もしくはものがいない限りは使わないと言っていた。
彼は今どこにいるのか。狭間に消えたということは狭間にいるのか、それともそこを抜けて妖界にいるのか。はたまた別の入口を見つけて現世へ戻って来ているのか。
「……大丈夫なの」
『うーん……結構危険な状態だったりする……とりあえず、来留芽。手間を掛けさせて悪いが急いで着替えて社長と相談出来るようにしてくれないか?』
「分かった」
細が危険な状態だという言うのならそうなのだろう。急いで動く必要がありそうだ。そう判断した来留芽はザバリとお湯から上がって急いで着替える。恐らく入浴中の状態を細に見られたことは小さな事として頭の隅に追いやった。
「~~っ!! かんがえない、考えないことにするっ」
そうして慌てて部屋に戻ってきた来留芽を迎えた巴、翡翠、恵美里は少し驚いた顔をする。湯上がりで血色が良いのは当然のことだが、慌てた様子が珍しかったのだ。
「ど……どうしたの……来留芽ちゃん……」
「ちょっと、非常事態が起こったみたい。翡翠と恵美里も戻って来ていたんだ。ちょうど良かった。巴姉、急いで社長の所に向かわないと」
「分かった。細から何か連絡でもあった?」
ぴったり正解を当ててきた巴に頷く。
「細兄の式神が来てる」
またも行うことになったオールドア会議。来留芽達が集まったのは旅館の一室、それなりに広い部屋だった。月下の間という名前のその部屋は社長以下男性陣が泊まる部屋だ。しかし、そこも七人と一羽という数になると流石に狭く感じるかもしれない。
「……」
「……」
車座を組んでいようとも中心となる人物は分かる。社長だ。彼と一羽を中心に部屋の中は無音で満たされていた。
社長が対峙しているのはこの場で異彩を放っている一羽の鴉だ。そして、会議は細の意識を有した鴉の式神がどのようにコンタクトを取ったのかという点で止まってしまっていた。
「黙っていても話が進まないから、とりあえず細兄に状況の説明をしてもらったら? 弁解は本体に戻った後で」
オールドアの女性陣が隣の部屋へ向かったのは来留芽が風呂で細の式神の存在に気付いてすぐのことだった。細の式神は鴉の形をしており、来留芽はそれを胸に抱いて向かったのだ。当然出迎えた樹や薫は不思議な顔をした。それを押しやって早速会議をしようと来留芽達は部屋に踏み込んだところ、鴉が細のものだということを社長にあっさり看破され、最初に鴉が説明を求められることになったのだ。
そのときに無言の圧力があったのだろうか。鴉は来留芽の入浴中に行き合ってしまったのだと懺悔するように言ってしまった。
――荒れるのは、当然
来留芽は溜め息を吐いて首を振る。社長達の反応は推して知るべし。鴉には今も突き刺さりそうな視線が方々から向けられていた。しかし、露天風呂でのことを言われると来留芽も冷静でいられなくなるので正直に言えば話題を逸らしたいところだったりする。
「……とりあえず、鴉……じゃない、細。海で狭間を見つけてそのまま調査に向かったと言うことは聞いている。その後のことから話してもらおうか」
『分かった』
そして、鴉は口を開いた。昼間、何があったのか。そして、なぜこの状態になっているのかの説明がされる。
***
――あの海水浴場でのことだ
恵美里の泳ぎ指導をしていた途中で細は何かに呼ばれた気がした。だが、周りを見回しても人は……恵美里と来留芽くらいだったし、呼び声はその二人のどちらとも違う感じだった。
だから、不審に思って水中を確認してみようとちらりと二人を確認してから水中に潜る。
(おかしいところは何もないか……? いや、あそこだけ妙な色に見えるな。これは、狭間か)
細は真っ先に不自然に暗い海域があることに気付いていた。来留芽と違ったのは、彼は即座にそれが狭間であると見抜いたことだろう。
そちらをじっと見て考え込む。一応、細はいくつか呪符などを持ってきているがそれで十分かどうかは判断し切れていなかった。
(どうするか……この場所は些か一般人が居る場所に近すぎるだろう。万が一これを放っておいたことで人が傷付いてしまったら困ったことになる)
だが、躊躇ったのは一瞬のことだった。細は今一度息継ぎをすると深く潜っていく。
奇妙な海域に触れないように気を付けながら泳ぎつつその大きさを測ろうとする。狭間は海底まで広がっているような大きなものではなかった。直径二メートルの球型だ。だが、どうも海流に関係なく動くらしい。困ったことだ。これでは放置して消えるのを待つという手は使えそうにない。
『――……けて……』
(何だ?)
声が聞こえた気がして細はその場で止まって周りを見回した。人の姿は近くにない。あやかしもいない。残る可能性は狭間の向こうからの呼び声だ。
(まさか――)
『――たす……けて……!』
ハッと目を開く。確かに助けを呼ぶ声が聞こえた。切羽詰まったような女性の声だ。その必死な声音に助けに行かねば、という気持ちが強く沸き上がる。
細は目の前に広がる狭間の入口を見つめた。今回も躊躇ったのは一瞬のことで、彼はポケットから二つの呪符を取り出すと霊力を込めた。
一つは小さな白いイルカの形になり、もう一つはその紋様が左上腕に浮かび上がる。
「キュッ!」
式神のイルカはテンション高く、渦を作ろうとするかのように周りをぐるぐると回り出す。余程嬉しいのか。嬉しいのだろうな、普段あまり使ってやれないから……と思いながら細は託す伝言の内容を考えていた。
(えーと……「来留芽、恵美里。悪いが一緒に戻れなくなった。気付いていると思うが、不自然な海域は狭間だ。お前達は近寄らないように。それと、防波堤がいなくなるから早めに樹達の所へ向かってくれ。俺のことは気にしなくて良い。夜に合流しよう」……これで良いか)
ささっと言葉を決めると高速で泳ぐイルカの胴をガシッと掴み、伝言を込め、調整する。
(頼んだぞ)
「キュッ!」
敬礼するようにヒレを動かしたイルカを放った細は意を決し狭間に飛び込む。
その体はすぐ暗がりに飲み込まれるかのように消えていった。
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