追憶之章

1 いるはずのない女


 夏らしい暑さに支配されたオフィス街。高いビル同士の隙間に出来た影で一人の男が壁に背を預けながら携帯電話を傾けていた。


「……ああ、井谷か。数日ぶりだな。どうした? 相談したいことがある?」


 電話の相手は彼の部下であった。

 井谷いたに 宗佑しゅうすけ

 有能な部下なのだが、仕事・私生活に対する悩みが深かったらしく、先月自殺未遂を起こした人物だ。どうにか持ち直したようだが、念のため休ませていた。そんな彼からの相談は無視することは出来ない。しかし……


「電話だとな……後で家に行っていいか? 明日でも大丈夫か?」


 残念ながら彼自身に井谷の話を聞く余裕がなかった。時間的にも、精神的にもだ。電話口では苦労して普通の話し方、普通のテンションを保っていた。それが崩れては部下も不安にさせてしまうだろうし、自分も不安な心に押しつぶされてしまう予感があった。


「……ああ、悪いな。今日はこれから用事があってな……いや、謝らなくていい。それじゃあ、また明日」


 それだけ言って通話を切った。そして、こんなオフィス街でも夏を象徴する蝉の鳴き声が響いていたことに気が付く。よほど緊張しているらしい、と自分の状態を嗤う。だが、思い出してしまえばもう体が震えてくる。


 ――独りで悩むのはもう止めだ。あれはどうしたって自分の手に負えない。



 ***



 その依頼が舞い込んできたのは七月の下旬で真夏の暑さに辟易していた昼下がり、会社の皆がだれていた時であった。そんな中に響く呼び鈴の音に、だらしない様相を示していた社員はピシリと固まり、次の瞬間姿を消した逃亡した。残ったのは来留芽一人のみ。額に手を当てて一つ溜息をつくと、玄関へ向かって対応に出る。


「はい。今開けます」

「失礼します。こちらオールドアさんで間違いないですか?」


 やってきたのはまだ若い男性であった。この暑い夏の昼によく出掛ける気になったものだと思う。現に男性はしきりに汗を拭いている。来留芽は男性をオールドアの中に招き入れた。


「はい。オールドアです。どのようなご用件ですか?」

「ええと……その、ここは怪奇現象に詳しいと聞きました。その、はい、怪奇現象の相談です」


 オールドアは骨董の取扱い、何でも相談所という体をなしているが、時折このような相談が来る。社員のほとんどは巫女の血筋だったり、陰陽に明るかったりとその手のことに心得があるからだ。そのため相談を受け、解決することも出来るのだが、もちろん大々的に宣伝はしていない。

“蓮華原には不思議な相談を受け付けている骨董屋がある”そんな噂がごく一部で囁かれていることは来留芽も知っている。しかし、それは本当に知る人ぞ知る情報であり単なる好奇心だけではたどり着けないようになっているのだ。きっと、目の前のこの男性は大変苦労してここを知ったのだろう。


「そうですか。こちらのソファへどうぞ。社長を呼びますので少し席を外させていただきます」


 来留芽は彼をとりあえず第一相談室へ連れてきた。そしてお茶を入れてから社長を呼ぶために一旦部屋を出る。来留芽だけで受けるには今の時期は少々都合が悪かった。だから来留芽以外にも動いてもらうために社長を呼び出すことにしたのだ。本来ならお茶を入れるのも社長を呼びに行くのも全部やらなくてもいいのだが、あいにくとここの社員でそれを頼める人はいなくなってしまった。


「社長。失礼します。“裏”の相談でお客さんが来ました」


 裏とは今相談室で待たせてしまっている男性のように怪奇現象の相談を持って来た人達を示す隠語だ。決して何らかの危険な取引を指しているわけではない。


「そうか。では行かなくてはな。だが、来留芽。なぜ丁寧語なんだ?」


 いつもは来留芽ももう少しくだけた話し方をする。しかし、今日ばかりは他人行儀な態度を取ると決めた。それは当てつけである。


「それでも今だけは叔父姪の関係ではなく、社長と社員の関係の方を尊重したいです。それに、サボり癖があるそこの人達と同じに見られたくありませんし」


 そう、来留芽一人残して逃げた彼等に対しての嫌味なのだ。


「「「あはは……仕事してきます……」」」


 来留芽の言葉を受けて社長室に逃げていた数人が大人しく仕事に戻った。仕事から逃げるために社長室へ行くなど、他の会社では見られないだろう。社長も社長で社員に甘すぎるのだ。


「……あいつらのことは放っておこう。本気を出せば有能なんだがな。この夏の暑さじゃやる気にならないんだろう」

「条件は皆同じだと思うけど」


 社長と二人で第一相談室に向かう。そこは階段を下りてすぐの部屋なので、そう時間を掛けることなく本日の客のところへ行くことが出来る。


「こんにちは。私がオールドアの社長の渡世守です。怪奇現象のご相談だとか」

「はい。私は碓氷うすいしょうと申します。よろしくお願いします」


 碓井翔と名乗った依頼人は社長のヤクザ顔に動揺しなかった。大変珍しい事態だと来留芽は内心で驚く。ただ、彼が非常に追い詰められているからという可能性もあった。余裕のない者は得てして色々なものを見落としがちだ。


「まぁ、気を楽にしてください。ああ、これは姪の古戸来留芽です。社員の中で一番対応できる幅が広いのでこういった相談には付き添わせています」

「そうですか。随分と若いので驚きました。初めの対応もしっかりしていたし、いい姪御さんですね」

「いや、ありがとうございます。……早速ですが、詳しい話を聞いてもよろしいですか?」

「はい。事の初めはやはり祖母が入院した為かと思っているのですが……」



 ――あれは、六月の末のことでした。


「ばあちゃん! ちゃんと寝てないと。お医者さんにも安静にしているように言われてんだって」

「……翔。私はどれくらいこうして寝ていたのかね。おじいちゃんの仏壇の水を替えないと」

「ばあちゃんが寝てたのは二日だな。仏壇は……どうだろ。母さんがばあちゃん家に行ってれば替えてくれたと思うけど」

たまきがそんな気を回すかね。やっぱり私が行かなきゃ。仏様を放っておいちゃバチが当たるよ。庭の梅だって水をやらにゃ枯れちまう」

「梅なんて放っておいても大丈夫だろうに。でもばあちゃん。倒れて頭打って病院に送られたんだ。もう歳が歳だからしばらくは病院に留め置かれるって」


 祖母は家で足を踏み外して倒れ、頭も打ち、気を失っていたのです。どう考えても体にガタがきているでしょう。孫としては一人で過ごす家に戻られるより医者もいる病院にいて欲しかったのです。


「なら翔が行っておくれ。若いんだから出来るだろ?」

「え〜。あ、でもばあちゃん家の方が会社に近いか。駐車場はどっか借りるとすれば……うん、分かった。俺が暫くばあちゃん家を見ておくから。だからばあちゃんは大人しくしてて」

「仕方ないねぇ。翔がそこまでしてくれるなら私は大人しくしてるよ」


 その日から祖母の家で寝起きする生活になりました。七月の始めには毎日仏壇の水を替えて、梅の様子を見て、会社に行くという生活サイクルが出来上がっていました。

 その七月の始めのことです。ある夜、妙に寝苦しくて夜中に目が覚めたことがあります。何か水でも飲もうと起き出し、台所へ向かったのですが微かにゴトゴトと物音がしていることに気付いたのです。それは台所ではありませんでした。その音は……不思議なことに、仏壇のある和室から聞こえていたのです。

 ゾッとしました。家には自分以外いるはずがなかったからです。祖母だって間違いなく病院にいました。でも、音は普段祖母が私室としている和室から聞こえていた。

 普通、今の時分はこういうときは泥棒とか、そういうのを心配しますよね。でも、その時俺はそういったことに考えがいっていませんでした。その理由は、おそらく小さいときから祖母にこう言われていたからでしょう。


『翔、家の仏様にはねぇ、おじいちゃんの形見が置いてあるんだよ。いつも翔のことを見守ってくれるからねぇ』


 音はきっとそのおじいちゃんの形見が出している。何の根拠もありませんでしたが俺はそう思いました。しかし、万が一を考えてそっと覗くだけにしました。俺はそこに信じられない光景を見たのです。


かけるさん、ねぇ、あなた。あなたの名前をもらった孫、私達の孫……しょうは立派に育ったよ。あなたにそっくりの社交的な性格で……私は誇らしいよ。他にもたくさん話したいことがあるんだ。楽しみにしていておくれな。私もじき、そちらに向かうからね』


 信じられませんでした。祖母が居たことももちろんそうですが、祖父のもとへ向かうって……死を、覚悟しているということですよ。それが本当にショックで、その日はほとんど眠れませんでした。

 けれども翌日に祖母の元へ行ってもそんな気配はありませんでした。それを見て少し安心しましたが、その辺りから家で異変が続くようになったのです。

 いるはずのない祖母を家で見かけた日の三日後くらいでしょうか。またも俺は夜中に目が覚めてしまいました。何も聞こえない、何も聞かないと思いながら寝室を出ていくと、今度は比較的早くに音が聞こえてきたのです。しかし、これがおかしなことでして。ゴトゴトという音ではなく、ズル……ズル……と何かを引きずる音だったのです。

 おかしいな? と思いましたよ。しかもそれは仏壇の部屋とは離れた所から聞こえてきたのですから。俺は階段の角からそっと覗きました。そこで見えたのは……知らない女が身体を引き摺って這っている様子だったのです。たぶん、知らない女のはずです。髪の長い女でしたが、頭から血が流れていたようで廊下にベットリと付いていました。顔を見る勇気はありませんでした。恐ろしくて恐ろしくて俺は慌てて寝室へ戻り、無理矢理寝ました。

 翌日になって女性が徘徊していたあたりを見ると、夜中には確かにあった血の跡は綺麗さっぱり消えていました。よもや夢だったのだろうかと最初は思い込もうとしましたが……。

 次の日もやはり女は現れて、今度はより俺の寝室に近いところを徘徊していたようです。というのも、朝起きたら俺の寝室の周辺に長い髪の毛が散らばっていたからでして。我が家には悪戯をするような人はいませんし、散らばっていた紙は黒く、長い髪でした。俺の母は天パで黒髪ロングとは似ても似つかぬ髪質ですから……あるはずがないでしょう。

 恐ろしくなって、夜は家に行かなくなりました。祖母との約束があるので一日に一回は家の様子を見に行きますが、やはり夜は無理ですね。本当は昼も妙な感じがすることがあるので長い時間は滞在しません。

 今、夜はホテルで過ごしています。そちらには女が出ることはないので、やはり家が関係しているのだとは思います。しかし、女が現れた頃から祖母の体調が思わしくなく……関係があるのかは分かりませんが、やはり詳しいことは専門の人に頼んだ方がいいと知り合いにここを勧められたのです。それでこちらへ相談しに来ました。



 話しているうちに恐怖がよみがえったのか、碓氷は視線をさ迷わせ、どっと出た汗を拭いている。


「……分かりました。お婆様のためにも早期解決が必要の様ですね。そうですね……数日その家を調査しましょう。そうだ、泊まり込んでもよろしいですか?」


 直ぐ様泊まり込み調査を行う方向へ話を持っていった社長の判断、その早さに驚いて思わず目を向けてしまった。ここまで早く決断したということは、碓井の話を聞いて早急に解決しなくてはならないものを読み取ったということになる。

 来留芽は学業優先を許されているとはいえ、こうして話を聞いた以上動くことになるだろう。そう思ってつい溜め息を吐いてしまった。人使いの荒い社長である。


「……泊まり込みも別に構いません。見られて困るものはとうに持ち出しているので……しかし、その、大丈夫でしょうか?」


 彼はそわそわとして意味も無く部屋のあちらこちらに視線を向けていた。まるで何かが襲ってくることを警戒しているかのように。


「ああ、大丈夫ですよ。素人じゃないのですから。それに、今回は私もサポートするので社員に危険はありませんよ。連絡を取れるようにしたいので電話番号か滞在先を教えてもらってもよろしいですか? それと、家の鍵のスペアがあれば貸していただきたいのですが」


 社長は万能で、幽霊にもあやかしにもその力を認められている。その社長が支援してくれるなら最悪の展開は回避できる確率が高くなる。本当にどうしようもないときは社長に丸投げすれば良い。それはオールドアの共通認識である。

 もっとも、来留芽達社員からすると社長に頼るのはしゃくに障ることでもある。裏の世界は子どもの頃からずっと危険とともにすぐ傍にあったものなのだ。当然対処法は知っているし、最年少の来留芽でさえも十年以上のキャリアがある。

 培われたプライドは決して低いものではなかった。

 ふと意識を目の前に座る碓井に戻すと彼は懐から名刺ケースを取り出し……手を滑らせていた。来留芽は足元へ転がってきたそれを持ち上げ、そっとテーブルに置く。


「ああ、ありがとう。今いるのは町ホテル……矢田町ホテルの315室です。もしそこにいなければここの携帯に掛けてもらえれば。鍵は、これを使ってください」


 碓氷は名刺の裏に書いた携帯番号を指差した。そして、鞄から鍵を取り出してあっさりとこちらに渡してきた。家の方は見られて困るものはもうないと言っているから問題は無いのだろう。用意周到なことである。

 あとはこちらで誰が担当するか決めるだけだ。


「……どうかよろしくお願いします」


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