9 そして辿り着き


 地下へはそんなに距離はなかったと思う。しかし、抵抗することも出来ないまま全員の意識が落ちていたようだ。


「いてて……」


 最初に目を覚ましたのは樹だった。自分の腹の上に乗っている重い物を振り払おうとして……ふと、それが何かに気付く。細の頭だった。無表情になって遠慮無く落とす。ゴン! といい音がしたが、まだ目が覚めるまでいかなかったらしい。そちらの方を大して心配せずに、樹はのそりと身体を起こした。


「ここは……」


 そう呟いて周りを見回す。どうしてか完全な暗闇ではなかったが(実はこの屋敷全体に言えることでもあるが)、それでも暗いという印象を持つ部屋だった。ここは地下なのだろう。


『目が、覚めましたか?』

「アッ!」


 かけられた声に反応してその方向を見た。そして驚く。木で出来た太い格子の向こうには、数年前に見て、今もなお忘れられないほどの美貌がそこにあった。そして、その傍らには一人の男性の影も。


「もしかしなくても……無色忍葉サマ?」


 無色忍葉は恐ろしいほど美しく、儚げな女性だった。男であろうと女であろうと見惚れてしまうだろう。だが、そこまでだ。樹には見惚れる以上の……好きだとか、そういった感情は沸き上がってこなかった。


「……青波が、いたからだったんだよね~」


 害意の欠片も見えない彼等を一応意識の端に捉えながらも樹は独りごちる。

 紫波家のあの冬の離れへ初めて行ったときは柚姫とのツーショットしか見なかったが、それ以降に様子見に行ったら、彼女のそばにはたいてい青波がいたのだ。あの柚姫ならば世話係を付けようとするだろう。それに選ばれたのが青波だったのだろうと思っていた。


「貴女のそばにいるときの青波の顔は、僕にとっては昔を思い出させるものだったんだよ。それを見て、『ああ、人らしく恋しているんだな』と安心していたんだ」


 邸にいたときの彼らしくない様子とは違って人らしさがあった。忍葉に向ける青波の表情は優しく、はっきりとした感情が出ていた。二人の様子を数度見てから樹はあの離れへ行くことを止めたが――流石に恋人の逢瀬に邪魔するのは気が引けたので――、二人が穏やかな時間を過ごしていることを願っていた。

 そんな気持ちを察しているのかどうか、忍葉は樹の方を悲しげに見ていた。


『それなら、今の私達を見て――』

「ああ、実に残念だよ。逃げた僕が言えることじゃないかもしれないけど」


 本当に、紫波家の魔の手から逃げ出した樹の言えることではない。恐らく彼等は出来うる限りの抵抗をしてきたはずだからだ。それでも、樹にとって今の状況はショックだった。

 そんな樹の心情に気付いているのかどうか。忍葉は言葉を紡ぐ。


『……紫波柚姫は狡猾な女でした。静希を、人形へと堕としたのです』


 二人の視線がここまで一言も話さないまま忍葉のそばにいた影へと向いた。ふわり……と光が彼を照らした。背の高い男だ。かつて、樹と共に修行していたときの輝きはその目にはない。そして、かつてその身に満ちていた霊力もほとんど存在していない。まるで死者を見ているように感じた。


「本当に青波なんだね?」


 信じたくない、と言うように樹が呟く。


『ええ。間違いなく』

「感情はまったくないの? 記憶は?」


 人形にされた者は許されない限り感情も記憶も持たない。そこにあるのはただ命令を遂行しようという意思のみである。

 ――それはもう、青波という人間ではないのではないか?

 その最悪の想像に、しかし忍葉は微笑みを浮かべて首を振った。


『これでも、だいぶ感情を取り戻したのですよ。私と普通に会話できる程度には常識を思い出しています。記憶も、少しばかりは』

「そっか~……」


 少し安心したように樹がため息とともに呟いた。


『ただ……』


 そう続いた忍葉の言葉に樹は瞬時に身構えた。“ただ”、と付くからには何か不穏な言葉が来ると思ったからだ。


『……完全に記憶を取り戻すには力が足りません。私もまた人形……彼を取り戻すための力はこの身に備わっていないのです』

「そっか~……」


 樹はまた同じ言葉を呟いた。その中には複雑な気持ちが込められていた。


『私は彼が記憶を取り戻すのを見届けなくてはなりません。私のせいで彼は……』

「いや、それは違うと思うけどね~。青波だって伊達に紫波柚姫の側にいたわけじゃない。案外狡猾だよ、彼もね。……ま、僕がどうこう出来るものでもなさそうだね」


 忍葉の言葉を遮った樹は最後の部分だけは口の中に溶かすように呟いた。だから二人には聞こえなかっただろう。


『静希が狡猾、ですか?』


 忍葉は樹が言った“狡猾”という言葉に首を傾げていた。だが、問題はそこでは無い。疑問は一旦横に置いて本題を告げる。


『……とりあえず、私は清流筆紋を必要としています。ですが、清流筆紋を使うには無色の血が必要になります』


 忍葉の視線は樹を通り越した向こうに向いていた。それを追って背後を見れば倒れていた面々が体を起こしていた。


「噂はもしかして……アンタが手を回したのね?」


 尋ねているような言葉ではあったが、茜は答えを求めていなかった。確信があったからだ。そもそも清流筆紋の行使は無色の秘奥で、外に知られるはずのないことだった。紫波柚姫のように欲深い霊能者に狙われるからだ。噂になったことがおかしかった。


『ええ、そうですね』

「それで、アタシや暁、夕凪の血を使うわけ?」

『いいえ。残念ながら貴方方の血を使うわけにはいきません……今はまだ』


 予想と違って忍葉は茜達の血を使うことを拒否した。


「それは、良かったのかな? ……いや、違うね」


 暁がそう呟いた。「良かった」という言葉はすぐさま撤回していた。茜や暁、夕凪は利用されずに済むかもしれない。しかし、まだもう一人無色の血を引く者がいるではないか。彼女を……妹を……巴を狙っているのか。そこまで考えた暁の顔は険しくなっていた。それは、同様の考えまで思い至った全員が浮かべた表情だ。


『……ええ、そうですね』


 警戒を一身に受けても忍葉は平然としていた。いろいろと覚悟をしていたのだろう。


「まいったなぁ。巴を傷付けるようなら許さない、とか言いたいが……」

「出られそうに……ない、です」


 夕凪が苦い顔をして頭をかき、恵美里は格子に近付いて少しだけそれを揺する。だが、びくともしない。


『皆様、少し勘違いをなさっているのではないでしょうか? 私は彼女を傷付けるようなことはしません』


 首を傾けて忍葉はそう言った。その拍子にまたさらり、と髪が揺れる。


「ふぅん……それじゃあ、巴に一体何を求めるのかな~?」

『清流筆紋の管理使用方法の継承、そして実際に使ってもらうことですね』


 事も無げに言われたその言葉に、それはそうだろうな、とその場にいたメンバーは思った。厳密には人ではない忍葉では紋を使うことが出来ないのだろう。だから、現代を生きる無色家の血を引く者を頼ることにしたのだろうということは簡単に察することができた。


「まぁ、僕等はどうしようもないみたいだね。で、本当に巴に危険はないのかな?」

『少しはあるでしょう。けれど、無色の血を引いていれば問題ないはずです』

「そこが不安なんだよな」


 だが、こう捕らえられている状態では何もできない。


「そういえば、細、式を残していたよね? あれで警告できない?」

「今やってる……というか、やっていた」

「……過去形?」


 ポツリと恵美里が突っ込んだ。細はそれに苦笑を返す。


「たった今潰されたんだ。鬼みたいな奴に」

「……そんなのいたっけ?」


 疑問符を浮かべたのは茜だった。暁に夕凪も首を傾げている。ある意味屋敷を知り尽くしている彼等が知らないということはかなりのイレギュラーな存在だということだろうか。


『私達も知りません。そうですよね、静希』

「私はこの屋敷の者ではないので確かなことは言えませんが」


 忍葉と青波も知らないと言う。


「それは不味いな……どうも来留芽達と交戦中のようなんだが」


 細は片目を瞑っていた。そちらの視界を式と共有していたのだ。その目には先程まであの“浄の内”に駆け込んできた巴チームとそれを追いかけてきたのであろう鬼の姿が映っていた。だが、もうそれも見えない。式が自爆してしまったからだ。少しの間は何とかして目を飛ばせないかと試行錯誤していたが、無理だと判断した。


「まぁ、あの三人なら大丈夫だと思うけどね~」


 三人の実力はよく知っている。裏での仕事をもう数年以上やっている彼等は刻々と変わる状況にもついていくことが出来る。

 だが、信じて待つしかないことが少しもどかしかった。



 ***



 一方で、来留芽達は割と平穏に道を進んでいた。回転する壁の向こうへと行けば、そこには頭を押さえた薫と、その少し先にふわふわと浮かんでいる鬼火がいたのだ。鬼火は来留芽達を先導するかのようにスゥ~っと先へ動いたのでその後を追うことにした。

 そして今、階段を降りている。罠も何もないようだが、時折パキッと心臓に悪い音を立てる階段だった。


「どこまで行くんだろうね」

「さぁね。この先に清水の半月紋があればいいけど」


 ……どうだろうか。鬼火から聞こえた歌の最後は“清流筆紋そこにあり”だった。案外半月紋ではなく完全な清流筆紋が手に入ったりするかもしれない。

 少しして緑の鬼火はフワッと止まった。同時に来留芽達はその足元の感触から階段の一番下にやって来たのだと悟る。


「……で、次は確か“無色の祝詞を詠みあげよ”だったっけ」

「巴。この壁の所に文字があるみたいだぜ」

「そうか。それが無色の祝詞かな」


 巴は薫が指し示した場所に近寄った。鬼火の光がうっすらとそれを照らしていた。暗さに慣れた目ならその明かりで十分読むことが出来る。巴はスッと指で文字を追って一通り見てから詠み上げた。


「……よろずのやまいわざわいをもはらいたまへきよめたまへともうすことをしみずのりゅうじんにきこしめせとかしこみかしこみもうす……」


 そう詠み終えた時だった、鬼火が壁に飛び込み、文字がコォォ……と青い光を放ったのは。それはすぐに消えてしまったが、何事かが起こっているのは間違いなかった。巴は文字の上に手をそっと置いて少し押した。壁がガコンと沈む。沈んだのはちょうど一般家屋の扉くらいの大きさだ。巴は力を入れて押してみるが予想と違ってびくともしなかった。


「……引き戸か、これ」


 押してだめなら引いてみろとはよく言ったものだ。実際に従ってみれば意外とうまくいく。最初のように回転するのかと思ってしばらく奮闘していたのが馬鹿らしい。

 ……ともかく、これで先へと行けるようになった。しかし、今回は鬼火の案内はないようだ。壁に飛び込んだ後、何の動きも見せていないからだ。

 ――ならば、この先が戦いの場か

 三人は深呼吸して意識を切り替えた。


「行こっか」


 そして、三人はやって来た。忍葉と青波、囚われた茜チーム、双子チームがいる空間へと。


『ようこそ、継承者よ。ここまで正面から辿り着けた貴女を歓迎しましょう』


 小さい鬼火……蛍火のようなものがふわふわと浮き、ぼんやりとした光で満ちているようなその部屋の奥で忍葉が微笑んでそう言った。その目は巴だけを見据えていた。


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