9 桜の呪縛
しかし、今回の事件を解決するために普通の人である花丘家の人と依頼者の大岡修三、小野寺先輩といった関係者にも集まってもらった。ただ、竹内千代はまだ怪我が治っていないため、この場にはいない。
彼等のためにあらかじめ小さな結界を張り、社長がここから出ないように釘を刺していた。
「この時間は『魔』に触れるには大変危険なのです。ですから、そこの結界からは出ないようにしてください」
「分かりました。あの……本当に僕もここにいて良いのですか? ほとんど部外者だと思うのですが」
「部外者では決してないし、ここにいてくれると助かる。『彼女』が
渡世の夢渡りの術を受け継いだのは樹だった。彼が千代や小野寺先輩の夢を確認したところ、花丘一樹にそっくりな男性がいたのだ。それを知って社長は危険を承知で事件の関係者に同席してもらうことに決めた。彼自身が事件解決の鍵になっている可能性があるからだ。
来留芽は咲き誇る桜を見上げる。太陽が降りて行くにつれて長く伸びる影が桜の樹の幹にかかった。
そして、非日常が顕在化しやすいその時間がやって来る。
「気を引き締めろ。ここからが本番だ」
この場にいるオールドアのメンバーはそれぞれ力を使いやすい服装で来ていた。例えば社長や細は狩衣、樹は修験者の
それはさておき、ついに来留芽達の目の前で桜が明らかに輝きを持ち始めた。幻想的な光景に、その場にいる全員の視線が集まる。
「桜が……ないている?」
少なくとも、来留芽にはそう思えた。はらはらと薄闇に桜吹雪が舞う様はとても美しいが、同時にどこか哀しさがうかがえる。桜が、『怨霊』と化して百年以上もさまよっている彼女を哀れんでいるような……そのような気がした。物に意識がないとは思わない。人に意識があるように物にも、植物にもきっと思うことがあるはずだ。
桜が、泣いている。
そのとき、突然ドクン……と心臓が跳ねた。同時に意識が闇に沈みかけていくのに気付き焦る。体も自由が効かなかった。傾いて倒れる……その寸前に何とか膝をつき、地面に口づける羽目になる未来だけは避ける。
「……っ、く」
しかし、膝をついた衝撃でも意識を引き戻せない。
――油断した
そう悔いるが、来留芽の意識は次第に遠のいていた。
意識が完全に飲み込まれる前に立て直さないといけない、と唇を噛みしめる。そのすぐ後に誰かが背中を撫でる手を感じ取り、ハッとした。その手に導かれるように沈んでいく自分を引き上げる。
「来留芽、落ち着いて。君は古戸来留芽だよ。他の誰でもない。さぁ……戻って」
樹の声だ。しかし、今の来留芽に返事をする余裕はなかった。来留芽は他の人よりも共感能力が高く、それは霊的なものほど影響を及ぼすからだ。今は黄昏で活性化した何かの想いに引きずられかけていた。とはいえ、ここまで引き込まれかけるのは度重なる油断によるものだろう。
「っ、はぁ、はぁ……も、もう大丈夫。ありがと、樹兄」
強烈だった。予想以上に引きが強く、危うく本当に引き込まれるかと思った。もし引き込まれていたら来留芽は自身の意識を見失い、精神だけ体を離れ、戻ってこられなかったかもしれない。正直に言えば、別にこの命に未練などない。しかし、無関係の人を巻き込んでまで死にたいとは思わないのだ。
震える足を
急に強ばった来留芽に何かを感じたのか樹はかばうように体を反転させてそれと対峙する。その手にはちゃんと数珠が握られており、何の対策もなしに向き合ったわけではないことに少し安堵する。ちらりとそちらを見てから、来留芽は険しい顔を鬼女の姿をした怨霊に向けた。
――この怨霊は危険だ。今が黄昏であることを加味してもその内包する力が強すぎる
しかし、怨霊の正面に立つ樹と来留芽はその力を受け流すのに精一杯だった。特に樹は来留芽をも守りの範囲に入れていることもあり余裕がない。
それを見て取ったのか今度は細が問いかけ、対峙する。
「……君は桜子さんかな?」
しかし、怨霊ははっきりとした言葉を話さず、ただうめくだけだった。
『アァ……ウゥ……』
今日のこの場所は結界を張れるように事前に浄化の儀式をしてある。だから怨霊はいつものように行動することができないのだろう。話に聞いた鬼女ほどの苛烈さが見られないのはそれが理由だ。そして、場を浄化しておいたことは想わぬ副産物をもたらした。
「……苦しいの? もしかして、人としての意識が戻ってきている?」
来留芽は怨霊の様子に違和感を持つ。怨霊はどこか苦しんでいるような、何かに葛藤しているような振る舞いをしていた。浄化された場では怨念といったものの力が削がれるのだろう。すると、今の状態は人としての意識……この場合は桜子の意識と怨念が優位を争っているのだろうか。
『ああぁ……うぅ』
声の質が変わった。般若の面もピシリとヒビが入る。今なら言葉が通じるかもしれないと思い、来留芽は問いかけた。
「あなたは、桜子さん?」
『あ……ああああぁっ……!』
その身悶えはよりいっそう激しくなり、強い妖気が来留芽達に突き刺さる。現実の風となり、桜の花びらを巻き上げた。その勢いに近距離にいた樹、細は一歩後退する。そこで、結界を守っていた社長が動いた。パンパンと柏手を打ち、怨霊の周囲に滲み出ていた闇を吹き飛ばす。
怨霊はそれと同時に動きを止め、一ミリも動かずにそこに佇んだ。そしてその数瞬後、息を吹き返したように動き出し、胸元を押さえて咳き込むと何か呟く。その様子は人間らしさがあり、もしやと期待を込めて様子を見守る。
『……ケホ……わた、しは……私は……桜子。夫は、姉さんは……』
『怨』の心に突き動かされているだけの怨霊ではなく、人としての意識を持ち始めたようだ。この状態なら話を聞いてもらえるだろうか。
「初めまして。桜子さん。あなたの今の状態は理解できていますか」
来留芽と同様に思ったのか、まず細が話しかけた。怨霊……いや、桜子はそちらを向く。
『分らないわ……分からない。私は死んだと思って……』
状況に頭が追い付かない。そんな様子だった。そんな彼女に向けて細は頷いた。
「ええ、それで間違いありません」
『ならどうして私はこんなっ』
「落ち着いて。意識を乗っ取られないように気をつけてくれるかな~。貴女は今、怨霊から自分の意識を取り戻したところなんだよ」
そう言った樹に続いて来留芽も話す。
「あなたがどうしてその状態になったかは詳しくは分らない。でも、あなたが亡くなったときに何かがあったのは間違いないと思う。聞かせて。あなたを鬼にした出来事を。あなたを鬼として縛り付けてきた呪縛を」
『呪縛……私が、死んだときのこと……?』
桜子が小首を傾げる。そして思い出そうとするように目を伏せたそのとき、カッと白い光が走り、一瞬だけ何かの強い悲しみと恨みの記憶が来留芽を揺らした。
叩きつけられたかのようなそれを懸命に抑え込み、落ち着いたところでおそるおそる目を開くと周囲の景色が変わっていた。桜子が思い出し、その情景を妖気が再現しているようだ。来留芽の力も少しだけ作用しているかもしれない。実際、その光景は来留芽を起点として広がっていたのだから。
「これは……彼女の記憶?」
まるで映画の中に入っているようだった。景色に気をとられているうちに、誰かの視点で景色が動いていく。これはおそらく、桜子の視点だ。
遠目に一人の女と待ち合わせていたのだろう男が見えた。女が男の首に腕を回し何事かささやいた後に二人して微笑む。その様子は
桜子はその情景に衝撃を受けたようで、一瞬視界が真っ赤に染まった。そして一歩よろめいた後に、認めたくないと語る背を向けて走り去る。
「あっ……くっ」
普段よりも激しい負担がかかったからか、途中で下駄の鼻緒が切れてしまう。しかし、彼女は誰の助けも求めようとしなかった。一番手を差し伸べてもらいたい人には裏切られているのだ。他人の優しさは今の彼女にとって毒だった。
涙を堪えて草履を掴むと足が切れるのにも構わず走る。その胸の内にどうしようもない絶望と悔しさと悲しさと孤独感が広がってゆく。それが混じり合い、心が暗く塗りつぶされていった。
周囲は桜子を残して次第に闇に消えていってしまう。
「……男の人の方は……花丘くんにそっくりだった……」
呆然として来留芽は呟いた。恐らく最初の彼が桜子の夫、忠次なのだろう。話には聞いていたが、まさかここまで生き写しだとは思っていなかった。
場面は移る。もやもやとした闇をまといながら、新たな形が現れる。
今度は桜子の家だろう。ここに帰ってきて彼女は手当たり次第に物を壊し回っていた。彼女の気持ちも伝わってくる。
――私達は確かに政略結婚だった。けれど、そこに愛が芽生えていたと信じていた。嫡男を生んで。四苦八苦しながら育てて。あの人も私達の子だと可愛がってくれていた。それなのに……それなのにどうして他の女のところへ行くの? 私との生活に飽きてしまったの? 私を愛してはいなかったというの。
……もうここにはいられない。このままじゃ息子にまで手を挙げてしまうかもしれない。あの子だけは傷つけたくない。どうすれば……
そのとき、焦りが急速に遠のいた。いや、焦りだけではない。その他様々に渦巻いていた気持ちも萎んでしまう。そして広がるのは諦めの気持ちだった。
来留芽はその変化を徐々に色褪せていく景色という形で目にしていた。視線を向けた先からまるで現実を失っていくように世界が灰色に塗り替えられていく。これが絶望という気持ちの動きなのだろうか。
――そうね……もう、私は必要ないのでしょう。あの人に他の女の影を感じながら惨めさを噛みしめて生きるならば……いっそ、一番幸せな記憶だけを抱いて死にましょう
また、場面が変わる。
その場所は来留芽も知っていた。小さめの山の中腹に咲いている、あの夜桜の下だ。その幹に掌を当てて上を向いた。視界が滲み、涙が頬を伝ってゆく。
――ここで、初めてあの人と口付けを交わしたわ。あの人が私を好きになってくれていると知って嬉しかった。この場所で私はあの人と恋に落ちたの
その言葉を聞いたその時、突然視点が変わった。色彩も戻ったが、今度は全てを見下ろすような形だ。一体誰の記憶だろう……少し高い位置から見下ろすかのような視点だ。
――まさか、夜桜……?
そのことに驚きつつも来留芽は下で起こっていることに集中する。
***
桜子が泣き崩れている。すると、そこに二人の人影がやって来た。
「哀れね。桜子」
女の声がした。月明かりに浮かび上がったその姿は、妖しげな夜の化身でもあるかのようにとても艶やかだった。桜子は彼女の姿に見覚えがなかったようで、警戒を滲ませつつ睨み付ける。名前を呼ばれたことはもちろんだが、それ以上に第一声からして味方とは思えなかったからだろう。
「桜子ちゃん、あんな男やめて僕と結婚しよう。君が手に入るなら、何でもするし、してあげる」
もう一人もそう言いながら月明かりの元に姿を現した。こちらの方は知っていたようで、桜子は驚いた表情になる。彼は桜子に異様に執着していた、一番上の姉が嫁いだ家の三男坊だ。そこまで認識したところで女が嘲笑を浮かべながら告げる。
「哀れな桜子。あなたの夫は簡単に私になびいたわ。今度誰にも贈ったことのない服をくれるそうよ。彼が考えた物なのですって! ふふっ。あなたよりも私の方が愛されていたみたいね? ああ――何て愉しい。あなたは……こんなところへ来て死ぬつもりだったの? だったら彼はもらっても良いわよね。
あ、でも死なれちゃ困るわ。あなたには近くで私と彼が幸せになる様を見てもらわなくちゃ。そのためにその男と結婚するというのは名案だと思わない? 彼の家と呉服店は交流があるそうだし。今ならその男の拘束癖も良い方に作用しそうね」
聞くに堪えない、忠次の浮気を明示するような言葉の羅列に桜子の体が震える。
「どうして……私だってあの人を愛していたのに」
「ああ、愛? そんなもの抱いていたの。愛しているから、愛を返せと言いたかったのかしら。そりゃあ、飽きられるはずよ。愛なんて要らないのよ。どうせ、快楽を得られればそれでいいの。男も、女もね」
その衝撃はどれほどのものだったか。桜子の体がふらりと傾き、一歩下がる。信じられない言葉を聞いた気がした。この女性は忠次を愛していないと言っているのだ。それなのに奪っていくのか。
「ああそれと、どうも気付いていないみたいだから言うけど、私の名前は咲子。あなたの双子の姉よ。私が身を落としている間によくも幸せを独り占めしてくれたわね。あなたもどん底の不幸を味わうが良いわ」
双子の、姉。どん底に落ちたのは自業自得なのに、逆恨みで幸せが壊されたというの。そんなのって……と引いていた感情が揺り戻ってくる。
桜子は下を向いて震えていた。そして、その口が言葉を発さないまま動いた。
――ゆ る さ な い
幸か不幸か、自殺を決意していた桜子の手には包丁があった。うつむいていた顔をゆっくりと上げて、ここを去ろうと背を向けた咲子を、怒りのこもったほの暗い炎が揺らめく瞳で睨み付ける。そして、包丁の先を向けて駆けた。殺意を宿したその切っ先はあっさりとその背に沈んで行く。しかし、一度では死なない。それに、怒りが収まることもなかった。だからだろう。桜子は逃げようとする咲子に何度も刃を突き立てていた。
「ひぃっ」
視界の端で男が悲鳴を上げて逃げていったのが見えた。しかし、桜子はそちらを向くことはない。彼女の意識は咲子を殺すことにしかないようだった。
そして、咲子がやっと動かなくなったところで包丁を引き抜き、一歩、また一歩と後ずさる。物言わぬ、見るに堪えない血だまりが出来上がっていた。
――ああ、人を殺してしまった
手に、その感触が痺れとなって残っている。だが、咲子を殺したことに罪悪感は沸かなかった。
「あ……あははっ! あははははっ」
気が狂ったかのように笑いながら彼女はそのまま自分の体に包丁を埋める。どうせ、人を殺してしまった以上、死ぬことになるのだ。
そして笑い声も絶え、ただ静かな闇の中、カラン……と包丁が地面に転がり、彼女の体も崩れ落ちた。
はらはらと桜の花が散って行く。
その下で、流れていく血を感じながら桜子は思った。
――せめて最後は夫といたかったわ……
桜子の目から涙が一筋落ちる。それきり、彼女が動くことはなかった。
二人の
桜子の未練・夫への執着、咲子の抱いていた恨み・憎しみ・嫉妬はそれに力を与えてしまう。
もやが形を取る。血の染みが花のように綻ぶ着物を着た女性の姿だ。右手には包丁を、左手には怒りを表す般若の面を持っている。そして、ゆっくりと左手が持ち上がり、面は顔に付けられた。
『……様……我が、恨み……』
人の思いは時に人を喰らうあやかしを喰らい返してしまう。
このときに今、来留芽達が問題としている怨霊が生まれたのだ。
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