蓮池にて_書き下ろし

あの日降った花の名前は、曼珠沙華でした。

それを知ったのは、ここの紙束の群れの中にあった、あの花と同じ色の背表紙に惹かれて手に取った、わたしと、貴方の出会った日のことです。

この街へ出てきて、人々がみんな、何の迷いも不満もなく生きているのを見て、

わたしは<水槽>という言葉を思い出しました。

あの彼はもしかしたら、この街から来たのかもしれない。それが初めて、他のわたしを自覚した瞬間でした。



「サム、古本屋に行ってくれ。荷は多くない。」

荷の少ない、楽な配送はみんな先輩たちの仕事だったので、わたしは疑問に思いました。

同時に、何か先輩たちの嫌がる理由があるんだろうな、ということを察して、正直、ここへ来るのが嫌でした。

古本屋、というのも初めて知った概念でしたし、どうやらそういう呼び名らしい、ということしか、オーナーの表情からは読み取れませんでした。

歴史のティーチャが、昔にあったできごとに名前をつけて呼んでいた時のような表情をしていたからです。

「地図をください、まったく、どこにあるのだか見当もつきません」

わたしがそう言うのに、オーナーは笑って、行けばわかるとだけ言いました。

荷物は蒸留水と、生理食塩水、それから経口摂取用のタブレットです。

それまでにわたしが持った荷物の中でも驚くほど軽くて、いったい何が入っているんだろうかと訝りもしました。

「次の配送は、」

こんな軽い荷ならばすぐに運んでしまって、戻って来いと言われるのだろうと心配したわたしに、オーナーは大笑いをしていました。

「ないよ。戻って来れたら褒めてやる。ここを出て右へ進んで、そこから真っすぐ。」


そうして店を出たわたしはオーナーの言う通りに扉からすぐ右へ出て、真っすぐ前を見て歩く人たちの中で、わたしひとりがきょろきょろとしているのを

居心地悪く思いながら、真っすぐ歩きました。見ればわかる、と言われたものですから、見逃してはならないと緊張したのでしょう。

誰もが一点、真っすぐ先を見つめて、それだのに誰も肩をぶつけたり、転んだり、躓いたりせず、しかもずっと同じ速度で歩いている光景には、まだ慣れません。

けれどその時は今よりも一層慣れずに、気味の悪さすら感じていました。

なるほど、これは確かに、水槽の中を行き来するものたちにも見える。そんな風に考えて気を紛らわせながら、

いったいその記憶は誰のものだろう、とも考えていました。


「……すみません、古書店というのは、」

わたしがそう声を発したのは、ふわふわと人の間を縫って軽快に歩く少女がいたからです。

何かに背中を押されるように、または、何かにずっと引っ張られているかのように歩く人々に声を掛けるなど思いもつきませんでしたが、

それはきっと、歩みを止めることに申し訳なさがあったからだろうと思いました。

「あっちの方にあるわ。あなた、古書店のことを知らないのに、古書店に行きたかったの?」

少女はさもおかしそうに、くすくすと笑いました。

その表情は、ゆりの笑うのと同じだ、と、わたしはぼんやりと、わたしの中の少女のことを想いました。


ゆりを知る彼女とは違って、わたしは一人でした。

頼るべき誰かもなく、ずっと一人だったのだという記憶が、その時、ふっと思い出されたのです。

今、その時のことを思い出すと、一○一号室という言葉が脳裏をよぎりますが、それが何のことだかは分かりません。

うっすらと、ぼんやりと、たしか、わたしが初めて目を覚ました場所だという曖昧な感覚があるばかりです。

その初めての記憶、一○一号室で、わたしは一人でした。


それから、その少女は「もう大丈夫でしょう」と言ってどこかへひらひらと歩いてゆきました。

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