蓮池にて_閑話
――なるほど。
目の前の男は、例の固そうなペン先とは逆の、透明度のないくすんだ軸で顎をさすりながら、笑った。きっと彼は、今に至るまで半信半疑のままだったのだ。
ひとりの人間が、複数人の記憶を持っている、だなんて、きっと当事者でなければ私だって信用しなかった。半信半疑とはいえ、
半分信じてくれていたことが私にはありがたくもあり、迷惑でもあるのだけれど、それは置いておいて。
閑話
男はまた、笑う。
「君が持ってきた荷物の中に、タブレットと水があったろう。それを出して。そう、休憩としよう。」
君がこうして語り聞かせてくれることを、嬉しく思うよ。だなんて、また笑う。
笑うためには、エネルギーが必要だ。私にはそんなことに使うだけのエネルギーはなかったし、
それだけのエネルギーを生み出すために何かを口にすることも、正直、少々面倒な作業に思える。
男はそれを見透かしたように、にんまりと、口角を吊り上げる。
なるほど、こういう笑い方ならば、顔面の筋肉の動きは最小限で済む。なんて私が考えていることも、恐らくはお見通しなのだろう。
使うためのエネルギーをわざわざ補給するよりは、男の言う通りに振る舞った方が、癪ではあるけれど合理的だ。――この、「癪ではある」というのが厄介なだけで。
「君はね、ほら、今時珍しい人間なんだから。
そのことを今一つ理解できていないようだけれど、ぼくにとってはね、君がその希少価値を大切にしていないのは、見ていてとてももどかしい。」
記憶の同期も取らず、生体として食物を摂取しなければならない不完全さも捨てず、
そしてネットワークにも所属していない私の、ただ外から来たものであるからというだけの希少さを、そんなにも大切にしたいのだろうか。
なんて、疑問を抱きながら。それでも私は、私に意味を見出した男のためにタブレットをかみ砕き、水を咽喉に流し込む。
なんなら、コミュニティの内側に所属しておきながら私と似たようなフィジカルを保って生きている彼のほうが、よっぽど珍しいんじゃないだろうか。
「そう、それでいい。君はここにいる限り、自分を、君の思う必要以上に大切にすること。
そうでなければ、きっと三日と生きられないのだからね。」
「希少価値のため、ですか。」
あまりいい気持ではありません、と、小さく付け加えてみる。
伝えるべきではないとも思ったし、多少とはいえ言葉を発するのにもエネルギーは必要になってくる。人間関係、という意味でも、効率という意味でも推奨されない
私の中のどれかの私が、言いたかったことなのだろうか。そんな風に考えながら男の様子を観察する。
「……そういうことにしておいてもいいよ、君がそう思いたいなら。」
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