A Vous Aussi_35.139._02
この街は、きっと病気だ。
ネオンに照らされ、エイデンの顔はよく見えなかった。こんな夜中まで彼が起きているときは大抵が土塊のような顔お色をしている、とその時のことを思い出しながら、そうだとしても起きている、歩いているということは何かあるのだろうと判断し、アイビーは、ただエイデンの横顔を見下ろしていた。きっとエイデンだって、こんな無茶苦茶に身体を酷使するようなことは本意ではないはずなのだ。病気の街にあてられて、彼だって病気になってしまったのだ。
夢遊病だかなんだかいう、夢を見ながら散歩を始めてしまうようなそんな、現実から目を逸らす病の一種。
「死んでいないだけだ、と言ったよ」
アイビーの頭がその病に関してある程度の納得、妥協点を見出したタイミングで、割れた音の残滓が響く景色の中で、いやに静かに、エイデンは言った。友人たちの中で一人だけ休日のパーティに誘われなかった、と悲しんでいる小さな子供のように淋しそうな声色のように思えた。
「ここにいる人々はみんな、死んでいないだけなんだそうだ。ぼくは彼らが立派に生き延びたと思ったが、彼らは心臓が動いているだけでは、生きていると見做さないらしい。」
本当にそう思っているのだとしたら、このご時世、そんな前時代の富裕層のようなストイックさを抱えた人間がまだ生き延びていることについて、お得意の論文のひとつも欠けばよいのではなかろうか。そんなことこそ考えたが、結局、アイビーの中に明確になった感想は端的だ。
「なに、そんなこと?」
どうでもいいことだ。けれど悲しいかな、言わんとすることはアイビーにも理解できた。生きているのではなく、死んでいないだけ。人間としての理性や尊厳や願望、あって然るべきものが既にない。あの密林で何度も見た光景だった。
空腹に耐えかね、鉛中毒の人肉を口に運んで死んだ者がいた。ありもしない銃声を聞き、駆け出して戻らなかった者がいた。遠くで炸裂した閃光弾の眩さに常夜灯にたかる虫のように惹かれ、翌朝そこで肉塊になっていた者がいた。
彼らは、理性とは何かと考え続け、余計なエネルギーを消耗して腹を空かせた。尊厳とは、と、仲間を助けること、義憤や責任感に似たそれに駆られて現実を見失った。楽になりたい、そう言って死んだ。
己の境遇を自覚した者から、死んだ。
それは、あの密林の中にいた頃から。そしてそこを出た後も、アイビーがずっと、視線を逸らし続けてきた記憶だった。病気なのは自分の方だったのかもしれない、そんな風に冷静に自分を見る自分がいる。<彼>が自分を生かした。
「もう誰も、おんなじようなモノでしょ」
「そう。そのはずだよね」
ヒトよりも大きなハメダマが、ネオンの一部を隠す。陰になったそこでようやく見えたエイデンは、その口角を上げていた。何がそんなに面白いのか。なんてことを聞くのは、踏み込んではいけないところへ踏み込んでしまう、愚かな行為だと思えた。うっかり踏み込めば戻れなくなるような、密林の湿地帯で口を開けている、底なしの沼のような。
「けれど僕らは違ったらしい。違って見えたらしい」
今度は、何が言いたいのだか、分からなかった。エイデンは依然静かに、指の隙間から石ころを転げ落とすように言葉を重ねる。何度か見た、彼曰くの、アップデートの光景。今までは野生動物の排泄物だとか、ハメダマの生態だとか、そういった下らないことをきっかけに始まっていた儀式。アイビーは初めて、この儀式に"儀式"たりうる気味悪さを感じた。彼の言葉は止まらず、勢いや熱量があるわけでもないのに止め難い、そんなありさまで紡がれ続ける。
「彼らは死んでいないだけだけれど、僕らは生きている、の、だという。そしてあの繭の中に残っていた食糧は、十人が十日、生きていけるくらいだそうだ。もちろん上等なものはない。ブロック剤、缶詰、瓶詰め、パウチが主だといったけれど。……それを、彼は僕の愛車に全て積み込んだのだとさ」
自分たちが思うように生きられないならば、これ以上生き延びてしまう理由をなくして、死んでしまおうという魂胆だろうか。それとも、ただ死んでいないだけ、というそれだけで生き続けることに疲れてしまったのだろうか。そして自分たちの代わりに生かす人間として、どこの馬の骨とも知れぬが「生きている」アイビーとエイデンを選んだのだろうか。
哀れな男たちだ、と、アイビーは意図してその心を冷ややかに保った。不平、不満、理想、幻想、それらはとっくに過去のものだ。娯楽のあった時代を忘れられないでいる、思想をしてなお生きていられた時代に、しがみついている。それが哀れだったし、それが彼らの気質故というよりは、ここがまだ国であった頃からの根深いもののように思えたの が尚更。
「内戦も経験していなかった。ちょっとしたデモもなかった。あったのは一方的なテロだけで、それだって天変地異の前にかき消されていった。誰もが争い事のすべてを他人事だと思って、生きていた。そういうことでしょうね」
「そうだね。僕は彼らのことをそう断言しきれないけれど、その要因は無視できない」
結局、エイデンは過去に観測したことのないサイズのハメダマにも一切の興味を示さず、手の中の炭酸飲料も蓋を開けることなく、「繭に戻ろう」と言った。彼の目的はきっと、彼の中でのアップデートを完了させることだけだったのだろう。後で「あの時あたしよりデカいハメダマいたわよ」と教えてやったら、どんな顔をするだろうか。
そんなことを考えながら、頷いた。もとよりアイビーの旅には当てがない。あの密林で死ぬことだけが嫌で、彼について出た旅だ。死に場所を探す、というのが最も近いかもしれなかったが、まだ死にたくもない。だから少なくとも現状、こと行き先に関しては、アイビーに決定権はないのだ。
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