プラスティックメンタ―_書き下ろし

 喫茶店、というところに行こうと提案したのは、あいつが私の元を去ってからしばらく経った日のことだった。

 古びた建物、傾いた入口ドア、死にかけの木材の匂いのする場所。彼が一度は行ってみたいと言っていた場所であったが、私は終ぞ「不衛生だ」と主張して行かなかった場所だ。

 「どうしたんですか。あんな場所など不衛生だと……」

 「管理されていなかったからだ。二週間前、メンタを一台あそこへ住ませた」

 「手入れをしたから大丈夫だ、ということですか」

 彼の言うことは最もだった。正直、今でもあんな場所に行きたいなどとは思っていない。メンタ程度の機能では十全の衛生管理ができるのだか怪しいところであるし、メンタの元になった人物――彼ではなく、今私の後ろに立っている私よりいくらか歳若い男――の衛生に関する意識は職業柄保証されているはずであるが、メンタとして行動している自我の根底がおおらかな人物であるかは私には分からない。

 もし彼がおおらかな根の人物であれば、その彼の手入れした環境に私が安心できるのだか、どうだか。


 「先日、ブラックボックスから拾い上げたデータの話をしたい」

 主任は人嫌いがひどくなりましたね、と、彼は笑う。君に言われるとは思っていなかった、と、私は溜息を吐く。

 「嫌悪しているのではなく、情報の管理には慎重になるべきと考えるようになっただけだ」

 「大丈夫ですよ、誰も聞いてなんていません」

 そういう問題ではないのだ、と、あの日の暴動疑惑を取り上げて言う。面倒事を避けるためだと理解してくれたのだろうか。そんな風に考えるのもきっと、私の変化なのだろうと自覚した。巻き煙草を燻したい気分だ。

 彼は私に対して「はいはい」と言って、先に歩き出す。研究者が外へ出ているとなるといい気持ちにならない労働者もいるようだからと、衣服を替えるように指摘した。「衣服などない」と言うと、彼はまた笑って言う。

「それじゃあ、ジャケットを脱ぐだけでもいいと思います」


ジャケットを脱いでみると、すこし寒かった。

基本的に研究者も労働者もいつも同じ格好をしているものだから、空調もそれに合わせて設定されている。エリアごとのそれを個人の都合に合わせて変化させることなど禁則であるし、そもそもアラートに関して手を加える権限すらない人間に、国家を維持するシステムをどうこうする権限はない。

寒い、と文句を言うと、彼は少し待っていろと言ってどこかへ行って、帰ってくる。手には曖昧な色をした服らしきものを持っている。このできごとは、手記に加筆しておくべきだろうか。

「薄手ですけど、これ」

彼の持ってきた曖昧な色の布は、ジャケットのように軽く羽織る洋服だった。ジャケットよりも柔らかい素材でできていて薄そうで、羽織ったところであまり変わらないような気もしたが受け取っておく。

「おまえ、育ちが良いんだな」

「そうでもありません。古いものが、状態のいいまま残っていたから使っている、というだけで」

「細菌、害虫、害獣と呼ばれていた類のものもない。状態がいいのは当然のことかもしれないが、それにしても」

「信じられないのなら、そういうことにしておいてください」


 そういうことにしておく、というのは、信じる、ということと同義ではないのだろうかと思ったが、口には出さずに秘めておいた。きっとその言葉には彼なりの配慮というものがあるのだろう。あいつが今の私を見たら、何と言うのだろうか。人間は変わるものだという論旨をほのめかし、私を笑うだろうか。それとも、私があいつの思う通りの変遷を経ていることを、だと思った、とでも喜ぶのだろうか。

 「主任から聞いた限りのお話ですが、そこから判断するにその労働者は、そういった支配欲じみたものを見せる人ではないのだろうと思います。思慮深く、冷静で、優しいのでしょう」

 疑問を口にしたつもりはなかったし、最近は秘めておくこともできるようになったと勝手に思っていたが、目の前の彼はあいつがいつかの以前にしていたように穏やかに、そして今メンタがしているように薄く微笑んで言う。

 「似ているな」

 私のその言葉が届いたのかどうかは、分からない。彼は私が手に持ったままだった布を手に取り、私の肩に羽織らせた。さ、行きますよ、と、私が彼を付き合わせているのだというにも関わらず言った。もしかすると、彼もあの場所と、あの場所で、何十年か前まで人間が口にしていたものを同じに口にすることに、興味があったのだろうか。

 「……あの場所のことは知っているのか」

 「喫茶店、ですよね。植物の実を乾燥させ、粉砕して、水を使って抽出した飲料とか、葉を同様にしたものとか」

 「飲用、食用の遺物が多くある場所だ。侵入は禁忌ではなく、利用もまた禁忌ではないが、誰も触れなかった」

 「と、されている場所ですね」

 彼はその端的なことばで、私とあいつの若かりし頃を知っているのだと仄めかす。

 「伝説になっているんですよ。隣まで知れ渡っているかもしれないくらい、〇号では当然のこととして」

 頬を撫ぜる風がようく整えられた清浄なものから徐々に埃じみた香りを紛れさせたものになってゆくのに、私は当時のことを思い出す。伝説というほど昔の話ではないが、そもそもの人間の寿命と、プラント管轄内の人間の入れ替わりがほとんどないこと、それから、研究者、労働者問わず役割を得た人間が学位に戻ることがないというシステムが、限られた空間において、知人ではなくなった人間を架空の存在に昇華するのだろう。


 「伝説というほど、大それたことはしていないさ」

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