第6話 山田肇くんと歪な家族
山田肇にとって叔父の志井司からは天と湖面の月のような距離をおきたい存在であった。それには山田家の親族も同意してくれるであろう。
そのような司が結婚をしたのは3年ほど前である。母の生家をたずねると必ずいた男が、これでどこか遠くの場所に行くわけだが、肇は自分になにか都合の良いことが起こるとは思えなかった。そして案じていたことが起こった。彼の仕事の都合という避けがたい理由により、山田家からそう遠くないところに越してきたのである。手頃な値段の賃貸を借りたらしく、司とその母子の写真が印刷されたハガキがきた。社交辞令なのか、遊びに来てくださいというメッセージもついていた。母は純くん――司の子供のわりに可愛いとのことだ――に会いたいらしい。一人っ子の肇にはこれほど年の離れた子供を見る機会がなかったため、自分も会ってみたいと考えてしまった。
司はあたかも趣味人であるかのように振る舞う無邪気な人であり、馬鹿という意味でナイーブな人であった。彼は学生時代から素行が悪かったそうだ。
肇が小学生のころである。夏休みに帰省した際に一人でゲームをしていると自分の部屋に来るように言った。することもなかったため、なんの気構えもなく入った。まだ昼間だというのにカーテンをしていた。湿気のにおいがひどく感じられた。それはクロークに貼られたポスターの印象のせいであった。心の底から怯えていそうな外国の美女の周囲が血の色で彩られている、いわゆるスラッシャー映画のポスターだった。
司が再生した映画のタイトルは覚えていない。しかし、汚い格好の男たちが人を食べていた。これも後からわかったが、ゾンビ映画であった。肇は恐怖のあまり泣いてしまった。その様子を彼は何枚もデジカメで撮影した。
母と二人で志井家に訪れた。油であげたような肌の色をして中年の男性相応の太りかたをしているが、頬のあたりは痩せこけている。不思議な体格であった。そして写真では分からなかったが、奥さんの巴子氏は旦那よりもはるかに高い背丈であった。自分より背の大きな女性にあまり会ったことがなかった。ゆえに、彼女の足下にいる息子の純が小粒のように思えた。昼間であるが、司はウイスキーを多量に飲んでいた。玄関からアルコールの匂いがひどかったがリビングで陽気な笑い声をあげる彼のそばでタバコでも吸おうものなら引火してしまい部屋に漂う気化したアルコールにより燃え広がるような気さえした。
司の母は呆気にとられつつも、きつく注意をした。巴子さんが困っているではないかとつめより、彼女の顔を見上げ弟が申し訳ないと言った。
昼食に行きましょうと母が提案した。女性二人があれこれと提案するものの、どっぷりと酩酊している司がすべてに難色を示して、しまいには三人で行ってこいと怒りはじめた。
「司。あんたそろそろいい加減にしなさい。いつもそんなんじゃないやろな、巴子さんや純くんがしんどいやろ」
「もういいですよお義姉さん」
司はタブレットに目を落として音楽を流しはじめた。ところでと肇は考えた。三人とは、なんのことだと。一人数に入れそこねているのではないかと。そして司はタバコに火をつけて燃える先端を肇の鼻先に突きつけた。お前には話があるから残っとけ、とのことだった。先行する巴子さんの後ろに純と母が手を繋いで出ていくのを苦々しく眺めてしまった。
肇と司を残して昼食に行った。そして司は躓きそうな足取りでトイレに入り、嗚咽を繰り返した。
戻ってきた司は、肇の顔をまじまじとみた。まだ童貞か、と笑いながら聞いた。テーブルの上のウイスキーを顔にかけてやろうかと苛立ったのは瞬間だけであった。肇は答えなかった。
「巴子、あいつ勝手にポロっと産んじゃってさ。俺は嫌だって言っててんで? まして男なんか産んでさ。あいつは喜んでたけど」
「……お二人の事情は知りませんが」
「そういや俺さ、めっちゃウケそうな小説のネタを思い付いてて、それで書こうとしてたのにあいつらのせいでおじゃん。暇なんか作りようがなくなった」
司は歯噛みして二人を罵る。
「ジャックザリッパーみたいに女だけを狙う殺人が相次ぐ。殺され方は腹を抉られる惨いもの。それの犯人は誰だって女刑事が探していくけど犯人は見つからない。この辺は考えるのがめんどいな。オチというか勘所は決まってて、犯人はその女とセックスした男たち。実は、精子が着床を拒否して母体ごと殺すっていうものでした。そしてそれは男たちの望んだ進化であった、と」
聞いていて不愉快な気分を隠せない。
何より、彼は作品を作ろうという理由で肇に話しているわけではなく、肇がホラーのようなものが嫌いだと知っていて話し続けるのである。
「しけた面やな。俺の巴子でも抱いてみるか? あれ、もしかしてチンコ固くなった?」
肇は母に連絡を入れ、先に家に帰ることにした。
彼の家の前に鈴音さんがいた。彼女は肇の恋人である。突然の訪問に戸惑いつつも、先ほどの司の発言を反芻してしまった。「まだ童貞か」と言ったときの彼の顔が頭によぎった。
「肇くん、しんどそうな顔してるけど、なにかあった?」
「えっと、嫌いな親戚に会いに行ったら、やっぱり嫌いだったっていうか」
すると鈴音さんは、じゃあ今回は無理そうやなと一人で納得したように手をふって帰ってしまった。もしかしたら、彼女からのディナーの誘いだったのかもしれないと思えば、膝から崩れ落ちるほどの落胆であった。
数時間後、帰宅した母は怯えきっていた。何があったのかとたずねた。
巴子は純の好きなハンバーガーでいいかと聞いたらしい。母に異論はなかった。じゃあハンバーガーならとスマホで検索して、近くにあるところはショッピングモールのなかの店あった。ここにしようと提案した。
すると、巴子さんは母の頬を強く殴ったらしい。ショッピングモールなんか人の多いところ、この子になにかあったらどうするのと。そしてハンドバッグを振りかざし、母の背中に打ち付ける。何度も繰り返した。街中であったため、屈強な大学生集団が通りかかったため、巴子さんが取り押さえられた。すると、純くんを連れて逃げ去ったらしい。幼い甥は泣きそうな顔で自分の母を眺めていたそうだ。
後日、電話ごしに慌てる母がいた。聞けば志井宅が火事になったらしい。三人とも重傷だった。夫妻が口論から発展した取っ組み合いのすえ、火のついたままであったタバコを落としたそうだ。病院に運ばれるときまで、お互いを罵りあっていたそうだ。
肇は恋人の鈴音さんにこのことを話した。いやな人たちとはいえ、心配になると。鈴音さんは深くため息をついた。結局、巴子さんとセックスしたの? と聞かれたため、首がとれそうなほど否定した。
「そう、また」
「またって、おじさんのこと話したことあったっけ」
「司氏が妻に手をあげて逮捕されたときとか、奥さんが純ちゃんに強すぎる折檻をして入院をさせたときとか。いろいろあるけど、あの家族は毎回破綻してしまうなぁ。純ちゃんが可哀想やから協力してたけど」
「まってよ、さすがに彼らもそこまでのことはしていないはずだよ。それに純ちゃんって。彼は男の子だから純くんだよ」
「うん、だから今回は奥さんの好みに合わせたし大丈夫かなと思ってさ。でもダメやったみたいやし、これでおしまいにしたいかなと思ったわけ」
鈴音さんは時折、おかしなことを言うところが知的でかつ可愛らしかったが、今回ばかりは本当に何を言っているのか、肇には分からなかった。そして、鈴音さんは、頑張ってねと肇に囁いて帰ってしまった。
「お兄ちゃん、今日もあそんでくれる?」頬に唇が当てられた。さらさらとした髪が鼻の頭にふれて、自身のくしゃみで目を覚ました。起き上がると、満面の笑みを浮かべる妹がいた。まだ三歳だから、抱き上げることも容易であった。
「純、起きたばっかのお兄ちゃんに甘えちゃかわいそうやろ」母が妹の手を握ってリビングに連れていくのを、ほほえましく眺めた。肇は、何度もみた光景であるからなのか、以前にも似たものを見た気がした。
肇の布団のなかに潜り込んできたのは、ずいぶんと年の離れた妹の純であった。肇も彼女のことが大好きだからこのような甘えたがりでも寛容な心をもって接することにしていた。兄として、頼りないところがあるかもしれないが、彼女が成人するまで自身の稼ぎからどれだけ使っても構わないと思っていた。それくらい可愛い妹である。
今日は鈴音さんが家に遊びに来る日であった。身だしなみを整えて、昼食は、何度も練習した肇の手料理で、かつ、妹が好きな食べ物のハンバーガーである。
正午の少し前に、鈴音さんがやってきた。痛いほどのたうつ心臓をおさえて玄関をあけた。笑顔の素敵な恋人が立っていた。何か、天上人に感謝を捧げたくなるような、そんな美しさでもあった。
「奥にいるのが、妹さん? 元気そうならいいんだけど」と鈴音さん。肇は少し不思議に思ったが、妹は今日に限らずいつも元気すぎると言った。
「そう、ならよかった」鈴音さんは純の頭を撫でた。撫でられてふにゃふにゃの笑顔を浮かべていたが、突然、はっと驚いた顔をして、そして、涙を流してありがとうと言った。そして鈴音さんの脚にしがみついておいおいと激しく涙を流す純を見つめる、肇と彼の母には、なにがなんだかさっぱり分からなかった。
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