第5話 山田肇くんと天使のような少年

山田肇が単車で坂道を下っていると、一人少年を囲って歩く男子小学生の集団が脇道から現れた。もうすこし坂道の勾配が強ければ、もしスマホに着信がはいって振動しなければ、この集団に追突するところだっただろう。タイヤの回転を無理やり止め、身体を放り投げるように倒れた。カーブミラーに単車が激突していた。


悲惨なほどの流血と全身の打撲と散々であるものの、小学生たちは無傷であった。

身体を起こして大丈夫かと聞けば、目尻や口角を歪ませ憤懣やるかたないといった顔の少年が中央にいた。ついさっきまでは彼の存在をもし漫画で表現するならば薔薇の咲き誇る演出が施される、天からの祝福をうけたような出で立ちであった。惨事のなかでも印象に残るほどであった。肇は、その変貌に言葉を失いかけた。


しかし、である。学生時代から今に至るまで自己弁護をする能力に恵まれなかった彼でさえ「なんだよ、そっちも飛び出してきたじゃないか」と指摘した。脇道には一時停止線も引いていた。

集団は、中心にいる美少年の憤怒に当てられたのか、全員の目付きが熱源から燃え広がるように険しくなっていく。ずたぼろの身体でこれ以上のトラブルはごめんだと、もう帰るように言った。彼らの不完全燃焼をおこしていた憎悪に鼻先が痛んだ。救急車をよびながら見た彼らの他愛なく戯れる後ろ姿を見送った。先程の着信が、恋人の鈴音さんからであった。非常に珍しいため、肇は驚いたものの、すぐに電話をかけた。救急車が到着するまで泣き言を話し続けた。


あれほど一人の少年を中心にした友情が芽生えているということが、孤独の幼少期を思い出すきっかけとなり歯がゆかった。確かにあの少年の顔は整っていた。あれほどの顔を持っていればたとえカラスのような声でもアイドル歌手として大成しそうだ。客観的になれば俳優としても成功する顔だが、彼の趣味ともいえる映画に関するものだから認めたくはなかった。

鈴音さんはクスクスとしながら彼の話を聞いた。

「たしかに俳優には美形が多い。でも、それ以上に観客の頭に残る仕事をするかどうかが重要なんであって」肇は熱弁を重ねた。

「肇くん、自分の妄想に苛立ってるのに気づいてる?」

肇は赤面して手元のグラスに入っていた麦茶を飲み干した。「それ、私の」と鈴音さんが言うと、飲み下そうとしていた水分のほとんどが気管の方に流れ込み、噎せて逆流したものを吐き出した。「嘘だけど」と鈴音さんは笑った。今日の鈴音さんは機嫌が悪いと判断した。

「あの日、まだ帰らないでっていったのにちゃっちゃと帰っちゃったバツを受けたのかも」

「ごめん。でもバイトがあってさ。それより、あの男の子がいくら可愛かったとして、目の前でボロボロになっているやつに向ける視線ではないでしょ」

「その子の将来なんて考えてなくていいじゃない。あの子はひどい子、それで終わり終わり」

「ふん、どうせあれほど整いすぎた顔なんか、ほとんどモンスターと変わんないよ」

「嫉妬、かな? 肇くんにしては珍しい」

肇は、自分の心中をしめているのが嫉妬と説明できれば、どれほど楽かと思った。風呂に入るたびあの顔を思い出しては腹が立ち、鈴音さんが完全な味方でないことに腹が立つ。


その夜は悪夢のようなものをみた。鈴音さんが、あの少年の首もとにショールのように手をまわして微笑んでいた。うふふ、あはは、などという効果音のようなものとともにワイヤーアクション然とした動きで目の前から遠ざかっていたのだ。目を覚まし、夢の内容にさめざめと泣いた。


足の捻挫もひどかったが医者には無理しない程度に運動をするように言われていた。肇は少し姑息な考えがうかんだ。この満身創痍の身から、どうか運動に付き合ってくれないかと頼めば、優しい鈴音さんが断るだろうかと。いや、そんなはずがない。あるはずがない。彼の人生で、これほどまで安パイなことは初めてであった。


場所は山田肇にとって親しみ深い、もとい、幼少期から何度か来たことのある若草山にした。奈良といえば鹿である。鹿を指差すだけで会話に困らないから素晴らしい。

「もう蝶が飛ぶ季節なんですね、この前まで寒かったのに、最近は暑い時期が延びすぎている気がするよね」

鈴音さんはぼんやりと雲の流れを見つめていた。自分に関心がないというのだろうか。

まぁそうだろうさ、自分は怪我を理由にデートに誘うような男であり、鈴音さんのような聡明な人にはその手口を見透かされているに違いない。いや自分はあらゆる生命に見透かされているのではないだろうか。神の遣いの鹿だけでなく屋根の上で“フモッタハッホゥ”と鳴く鳩にも草の間を跳ねるショウリョウバッタにもそれを食べるカマキリとその腹に巣食うハリガネムシにも、自分のことは見透かされているに違いない。

「蝶って自分がとぶところを決めているらしいね」と鈴音さんが口を開いた。

「えっと、蝶道でしたっけ」

「そう、色々と面白いでしょ。肇くん、喋り疲れてるみたいだし、そろそろ休まない?」


足は大丈夫と鈴音さんが聞いた。座るのに問題はなかった。

「そういえば、あの男の子のことはもう怒ってないの?」

「べつに最初から怒ってない……といえば嘘になるのかな、でも、怒ってないと言ったほうがカッコいい気がするような」

「肇くん、カエルの子供ってなんだと思う?」

オタマジャクシだと答えた。

「じゃあ、私の子供ってなんだと思う?」

肇は異様なほど心臓が高ぶった。鈴音さんの子供とは……?

「僕の、子供?」

「答えは人間、なんのためにカエルのクイズをしたの」

肇は息を引き取りそうな恥ずかしさに襲われた。この発言だけで彼女が遠のいていくような気がした。その身体にあの少年を抱き締めながら。

「じゃあ、蝶の子供は?」

「……幼虫」

「幼虫の次は?」

「サナギ、そして成虫になる」肇は答えた。

「タマゴヤドリバチって知ってる?」

「卵とか幼虫とかにつく虫でしょ。たしか」

「そう、寄生虫。色々いるみたいよ。たとえばカタツムリにつく虫もいて、わざと鳥に食べられようと宿主を操るとか。鳥のフンにまざって生存圏を拡大させようとしてみたり」

彼女はなんの話をしているのだろうか。

「例の少年がどう考えていたかは、知らない。でも、私が肇くんを利用させるはずがない」

「鈴音ちゃん、いったいどういうこと? さっぱり分からないんだけど」

「言ったじゃない。わざと宿主を殺すように仕向けるものもいるって」

「あの子達がそうだっていうのか。オカルトだよオカルト。なんのためにそんなことするんだ。人間にとりついて、亡者でも食べるっていうの? そんな異能バトル漫画みたいな」

肇は、頭のいい恋人に担がれているのだと知りつつも、会話ができるならそれでいいと思った。そんな適当な会話の作り方も、自分とは雲泥の差である。

「あるいは、サナギのように蝶になりたかったのかも。単車との衝突は、彼らの強固な身体を突き破るために必要な衝撃だった」

「今度は集団自殺だとでもいうのか。すごい考え方をするよ、鈴音さんは。でも、それくらいで」

「小学生くらいなら、簡単に吹き飛んでしまうかもしれない。少なくとも、無事ではないかな」

そして鈴音さんは人差し指を突き立てた。

「それか、彼は単に肇くんの前方不注意に腹が立った」

いずれにせよ、と鈴音さんは立ち上がって僕に手を差し出した。彼は痛みで情けない面になった。

「肇くんが怪我だけですんでよかった」と彼女はスマホで肇のたるんだ笑顔を撮影した。


それから後日のこと、肇は徒歩で坂道を下っていた。彼の横を車が通りすぎていった。その先は、あの脇道だ。カーブミラーには、あの少年にとても似ている異形なほどの美形の男を中心に男女問わず群れをなしているのが映っていた。肇は大声で叫んだ。男は満面の笑みで歩を進めている。それが悔しいくらい美しかった。


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