第3話 山田肇くんとマラソン健康法

山田肇は長距離走が苦手であったものの春の健康診断で運動不足を解消しなければならないことになった。


彼は与えられた人生をどのような体型で終えようとも構わないし恋人の鈴音さんの手料理が上手になっていく過程に沿っていたいものの、転職したばかりのそれも営業部で人前に出るという体面を考慮して板挟みになっていた。彼は世情に通じていないため知らなかったが、健康の維持は国をあげての取り組みであるらしかった。なにより運が悪いことに、彼の直属の上司である湯川紗江氏は社をあげての健康キャンペーンの発起人に名前を連ねていた。


「悪いけれど、せめて第一印象がデブにならないくらいの体型にはなってほしいのですけれど」という要望もあって、ついに走ることを決めた。

まず、走るにあたって、スポーツウェアを購入しようとしたが、鈴音さんの助言である「肇くんは一月ももたないよ」という本来であれば見くびられていると憤ってもよさそうな内容を、彼は自らの人生を振り返り中高大で部活やサークルを5回も変えたことやアルバイトを17回変更し2度クビになり正社員を1度辞めているということから素直にアドバイスを聞き入れた。しかし、肇は鈴音さんの誕生日プレゼントを購入する金額は用意するという決意だけはまっとうできた。集めたお金で紅玉のネックレスをプレゼントできたことは今でも自負しているところだ。

パジャマがわりにしていた学生時代の体操着と真っ白のインナーで走ることにした。これでは投資が少ないなと感じたため、投げ売りされていたフリーサイズの黒一色のキャップと半額セールをしていたスニーカーを購入した。


音楽を聴きながら走ることに決めたものの、イヤホンでは耳の回りにたまる汗の気配が気持ち悪い上に背後からくる自転車にも気が付かなかったため、小学生たちの暴走する自転車軍団に追突されたため、すぐにやめた。何より、走るためという決意の心が、音楽で揺らぎそうになったのだった。

噂によれば肇の他にもランニングをはじめた社員がいるらしい。同じ営業部からは、発起人の湯川氏のほか、肇と同い年にして一児の父である柳氏などがそうらしい。らしいというのは、彼らと情報交換をするといった友好的な社交関係を結べない肇の怠惰な性格が災いしたためである。しかし、はためにも湯川氏はさておき柳氏は軽量化しているというのが見てとれた。男性にしては長かった――カートコバーンに憧れたと本人が言っているのを聞いたことがあった――髪も日光のお猿さんみたいな長さにまで刈り込んでいた。

鈴音さんと会えばまだつづけているのと半ば励まし半ば嫌味な言葉を貰う。


さて、山田肇は本来であれば怠惰な性格であるが、彼自身も驚いたことにランニングをはじめて2週間が過ぎた。このほど、道路の具合がどのようになっていてどこを走れば楽であるかというランナーとしては重要な知識を実地で学んでいた。想定以上の汗をかき、その汗は心に抱えた懊悩を流しているのかもしれない。


汗まみれのインナーを洗うたびに自分から出たとは思えない水気に驚き雨にうたれたのだろうかと思えるほどだ。そのような生活を続けていると、自分のすむ地域には意外なほどランナーがいることに気がつく。それも高校生などではなく、おそらく肇と同い年くらい、それも男女問わずである。鈴音さんにもこのことを話した。すると彼女は電話ごしに何かの儀式みたいと笑うから、少しばかり苛立った。

しかし翌日走ってみればこれが儀式というのも頷けるかもしれぬと思い直した。頭のなかで何も考えない時間は日常生活で起きえない。ある日、テレビではマラソンが流行していると騒いでいたが、会社命令で走り回っている肇からすればどこか間抜けなニュースであった。祝日のついた連休が近いうちにあることを知り、鈴音さんに一緒に走らないかと誘ったが、彼女は仕事があるとの返事であった。


きたる連休、少し遠出をして若草山のハイキングコースを歩むことにした。老人たちが目立つなかに子連れの夫婦がおり、一人で晴天のなか芝の青い様を見回るのは一層孤独を感じさせた。

今日は歩くからとイヤホンを取り出して、ビリー・ジョエルの曲でも聴こうかと思った。しばらく歩いていると、肩を叩かれ振り向いた。しかし人は誰もいない。おかしいと思ったが再び歩み始めると、今度は先より強く叩かれた。肇はイヤホンを外して振り向くと、雌鹿が偉そうな顔つきで睨んでいた。目がすごく真っ赤である種の兎のような、変な感じであった。

「あんた、ちょっと間抜けっぽいから気を付けた方がええで」

鹿はそう言い残して去っていった。これは幻聴だと言い聞かせて、帰宅した。

後日、笑い話として、鹿に話しかけられたことを鈴音さんに言うと、まぁ肇くんは間抜けというかトンマというかやしなと、一切のフォローがなかった。


湯川氏はランニングを辞めて筋力トレーニングに変えたそうだが、柳氏は所帯持ちであるがゆえにかジム通いなどできるはずがなくランニングを続けているらしい。柳氏から調子はどうだと訪ねられた。彼は1日30分が限界だと笑っていた。

肇はだいたい5時間は走っていると嘘偽りなく答えた。最近の彼は起床して2時間、帰宅後3時間というスケジュールで走っていた。すると柳氏は目を見開いて、まるで陸上で鮫でも発見したかのように驚いた。肇はなんのことかさっぱり分からず、社内で噂が広まっていくことに指をくわえているだけであった。

今日も彼は走っていた。積乱雲が猛威を奮い2メートル先でさえ目視できないような天候であるが、それでも彼は走っていた。肇は、今日は人通りが少ないことに安堵し、いつもより走るスピードを速めた。

ヘッドライトだけが見える車や雑音をすべてかき消す雨音のなか、頭の空白がいつもより立体的になることに快感を覚えていた。ここ数週間は走り終えると毎度、射精していたが、今日ばかりは絡み付く服のせいもあってか走りながら漏れていた。

休日だったため、自宅からすでに5時間は走り続けていたが給水に困ることはなかった。


耳の調子がすこぶる良好で、どこかから彼の走る姿にエールをおくるファンファーレが鳴り響いていた。頭では確実にファンファーレだと、まごうことなき祝福の音だと判断した。雨の横断歩道の向こうにいる人々に、彼は感謝を伝えるために音のなる方へと走った。その瞬間、襟首がひっつかまれ地面に叩き伏せられた。顔中に冷たい雨が降り注いだ。そしてよく知っている、優しい恋人の声が聞こえてきた。でも、四本足なのだ。

「肇くん、トラックに突っ込んでいこうとするのは良くないよ」

ファンファーレは鳴り止み誰かの舌打ちする声が聞こえた。頭の中で目の前の信号はぼやけているがルビーのような輝きであった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る