第2話 山田肇くんと黒歴史の人物画
山田肇の絵は美術の教師から優れた作品であると評されるほどであった。何より観察力があるから、構図のバランスなどに気を付ければより良くなるとのことであった。絵の腕前には少なからず自負するところがあり夏休みの思い出と題した志摩の海岸の風景画で小学校高学年部門で銀賞を得た。
さて山田肇くんには恋人の鈴音さんがいる。彼女を絵の題材にするというのは、極めて自然な流れであり、彼も何か意義を挟む理由はなかった。なかったけれども、鈴音さんを描く理由も、同様になかった。友人である、敷屋でもよかったのだ。
彼のこうじた姑息な手段として、完成された作品は彼女の絵であるものの、下絵は彼の脳内でざわめき続ける阿鼻叫喚の地獄絵であった。亡者の顔には嫌いなクラスメイトをあてはめた。
地獄変を読んで、野蛮人が芸術を建前にする犯罪に鼻白む思いをしたため、嫌味としての作品を仕上げたのである。このそれなりに気品のある絵の下には鉛筆で描かれた地獄があるのだ。その作為に彼は震えるような喜びを感じていたものの、数年の時を経てみればなんのことはなく、地獄というものを現世に描こうとする魂胆が馬鹿馬鹿しいと思っていた。ちなみに、鈴音さんは肇の絵を描いたものの筆洗いの水を溢してしまったため、現存していない。
鈴音さんが部屋の大掃除をしていたら懐かしい絵が出てきたからと写真が送られてきた。そして、懐かしい恥ずかしいと曖昧に揺れる居心地の悪さを覚えた。しかし、妙な点があることに気がついてその写真を拡大した。彼は下に地獄絵を描いたから、その対比として鈴音さんの絵はミュシャの作品のように柔らかな微笑みの顔にしたはずである。それがどういうことか、異様に見開かれた目と歪な型の歯を覗かせる口で、誰かを哄笑しているような顔であった。自分の腕が到底、著名な絵描きに及ばないことは分かっていた―正直に告白すれば、若気のいたりか訓練もせずに越えてやろうとしていた―とはいえ、このような顔を描いていないことは断定できた。
メッセージが届いていた。肇くんって、うちがこんなに怖い顔やとおもってたん(笑)と朗らかなものであった。ごめんなさいと返したが、彼は自分の見に覚えのない絵の出現に怖気がした。
そしてひとつ、思い当たることがあった。それは、あの下絵である。地獄絵めいたものを描いてしまったがゆえに、実力のない自分は、その下絵に意識が引っ張られてしまったのではないかというものだ。意図通りになっていない駄作を仕上げたのにも関わらず、完成した勢いのまま、提出したのだろう。自惚れによる盲目であった。
とはいえ、ここまで意図しない表情を描いていたら、彩色のときなどに気がつきそうではある。
何はともあれ、恋人に向けて描いた絵に、変な嫌がらせを仕込んだことがよくないと反省した。お詫びがしたいと、鈴音さんが欲しがっていたルブタンあたりの財布でもプレゼントすることに決めた。
後日、ショッピングを口実に鈴音さんと休日を過ごした。もちろん、そのあとは彼女の家に上がり込み、セックスがしたいと思っていた。
鈴音さんも忙しない肇に呆れつつ、部屋にあげた。そして、あの絵を箪笥から出した。懐かしいでしょと笑いながら。彼女が紅茶を淹れるからとキッチンに行ったすきに、その絵を太陽の光に透かして下絵をのぞきみた。すると地獄絵が確かに描かれておりその煮え立った竃のなかには五人ほど浸かっていた。それらすべて、顔が仔細に描かれていた。それらが僕に呼び掛けるのだ。お前もはやく来いよ、と。そして、鈴音さんの顔が真っ赤にかわる。それは、彼女の口が目一杯開かれたからだ。向こうから怨嗟の声がきこえる。腐敗した肉の匂いや血の匂いが立ち込める。今にも彼を飲み込もうとした。絵の中に、彼を永遠に閉じ込めようとした。そして、絵を突き破り熱湯が頭から降り注いだのである。
「ごめんごめっ、わぁ」と鈴音さんは謝りつづけた。淹れたての紅茶をのせたお盆を肇くんにぶちまけてしまったのだ。 鈴音さんの絵は紅茶で破けてしまい、無惨な姿となった。
捨てる前にみた、その最後の顔はとても悔しそうであった。
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