山田くん一大事

古新野 ま~ち

第1話 山田肇くんと図書館に消えた恋人

山田肇は大学生であるものの趣味というものが見つけられずにいた。何かと趣味を聞かれる機会も多いため「読書です」と答えるようにしていた。特技の欄には絵を描くことと書いていた。


ゼミの先輩である石崎博氏はそのような受け答えでは誰の印象にも残らないだろと心配したのかクルーグマンやスティグリッツといった比較的不真面目な学生である肇でも名前の知っている経済学者の名前をあげて、彼らの本が好きだといえばいいとアドバイスをした。どうしてドラッカーとか名のしれた人物ではダメなのかを聞いたら、その辺は相手が知っている可能性が高くて狼狽えることになるからだと経験談を語ってくれた。 そして彼らの本なら日本語で割りと手軽に読めると推していた。

しかし山田肇は読書のような知的な作業をすると太腿や股関が異常なほど痒くなりしまいには脳みそが鼻から漏れてしまう錯覚にとらわれる。Show me to way to the easy book とアラバマソングの出来の悪い替え歌を口ずさんでいると、頭の出来の良い恋人の鈴音さんが講義ノートを差し出した。一生懸命に読みこんだ。図説があったりと、まるで自分のために書いてくれたのかと勘違いしそうになった。『小学生からの経済学』とでも銘打って同人誌などで販売できるクオリティだった。

ならば、少しは自分も絵を描いてみようか。最近の風潮とは合致しないが、いとうのいぢの絵を模写し続けた中学時代や昔に受賞した水彩画コンクールの腕前を発揮できるかもしれない。

鈴音さんにそのことを話すと、面倒だからヤダとのことだった。言われてみれば面倒であることに気がついた。

「とりあえず、勉強した方がいいんでしょ」

「鈴音さんは頭がいいから分かんないだろうけど、本を読むのってしんどいし内容が頭に残らないんだよね」

肇は赤面しながら呟いた。


後日、石崎氏と顔を合わせたため本の感想を聞かれた。読み終えているところだけでもいいからと催促するものだから、彼女の講義ノートを思い出して「税金を貧しい人が重い負担になるかけ方はよくないと思いました」と小学生以下でも言えそうな感想を言った。


石崎氏は呆れた顔をしていたが、優しい口調で「税負担なら自分の実生活と結びつけやすいだろうから、そこから考えてみるのはありかもね。参考文献とかを当てにして探すといいよ」と言った。肇はとりあえず頭に浮かんだ言葉を羅列してメモをとり、適宜矢印などのチャートを用いて鈴音さんに見てもらおうと決意した。

そうと決まれば、彼はすぐに電話をかけた。でない。今日暇かな? とメッセージを送った。すると今すぐ図書館に来てほしいなとメッセージが返ってきた。


今すぐというゆとりのない内容に首をかしげたが、言われるがまま図書館に行った。大学図書館には漫画がないから立ち寄ることは試験前の自習くらいであった。各テーブルを見て回ったが鈴音さんの姿は見当たらなかった。しかしメッセージには図書館とあるから、どの辺りにいるのかをきいた。すると一時間以上、返事がなかった。


その日は鈴音さんと会うことができなかった。肇のバイトの時間が迫っていたため、先に帰ると連絡をしてそのまま帰宅した。それらにも一切の音沙汰がなかった。

彼は翌日、彼女の家に行こうとした。鈴音さんが電話にも出ないからだ。そして、彼がインターホンを押すと、彼女の母親である美晴氏が飛び出してきた。彼の顔を見るなり落胆の表情になった。

彼女は薄暗い笑顔を作り、肇くんが来たってことはそっちにいたわけじゃないんやなと彼に確認と独り言の間のようなうわ言を呟いて彼を家にあげた。

昨日から彼女と連絡がとれなくなった、と目一杯の心痛を声だけで示していた。肇は家にいると思ってやってきたことと、昨日の昼までは連絡がとれていたことを告げて、辞去した。

そして、まず大学図書館に行った。すると人っ子ひとりもいない。しかし書架の上を鷹のような力強さと典雅さを兼ね備えた飛翔をしている者がいた。恋人の鈴音さんである。

「ずいぶん予定より時間がかかっちゃったけど、もうすぐだから」

「いや、すごく心配したんだから」

鈴音さんは山田に微笑んでから、図書館に響き渡るほどの大きな声で演説をはじめた。

「最後に、ここに集う叡知の欠片たちよ、私は皆に問いたい。皆は人間が好きか。皆は世界を愛しているか」

本たちは答えない。彼らは沈黙をつづけていた。肇には当然のことだとしか思えなかった。しかし山田肇はまだ知らないことだが、書物は引用や参考文献やその他で繋がっている運命共同体なのである。

「鈴音さん、本に何を言ってるんですか」しかし鈴音さんは演説をやめない。

「この世界には知恵の神の祝福を受けたものとそうでないものにわかたれる。書物に愛されなかったもの、書物を愛さなかったもの、書物に裏切られたもの、書物を裏切ったもの。あまたの人が書物の前で朽ち果てた。あまたの人が書物の後ろで悶える生涯を終えた。それでも私は書物を愛している」

鈴音さんは肇をみつめた。

「貴方たちの力を早急に借りたい。ここにいる山田肇という青年は、書物に愛されなかったものの一人である。能動的に読めない彼が受動的な読書しかしてこなかった彼が、貴方たちの力を借りようとしているのである。どうか、彼に力をかしてはくれないか」

鈴音さんは涙を浮かべそうな顔をしていた。山田肇もつられて泣きそうになったが、冷静になってみると、彼女の目的が理解できた。最悪の想像が彼を身震いさせ本能的な勘で自分の身が危ぶまれることに気がついた。

「さぁ大いなる書物たちよ。自らの本領をまっとうしていただきたい。我らおろかな衆生に過去の巨人たちの叡知の欠片を分け与えてくれたまえ」

すると書物たちが嵐のなかの森のようなざわめきをあげはじめた。文字が列を組んで飛び違いはじめた。書物から抜け出した文字が宙にまう。それらすべて、山田肇の耳や目や口や肛門といった身体に空いている穴という穴にもぐりこんだのだ。耳と目で音楽や絵画の知識が流れ込む。図説された芸術様式が脳の中の伽藍を勢いよく潰して上書きしはじめる。鼻のなかに古代や世界大戦やISのテロといったあらゆる人類の戦争の匂いが立ち込めて、口の中に文学が詰め込まれる。甘酸っぱい谷崎潤一郎全集や顎が痛むほどのプルーストやしつこい味付けのジェイムズジョイスや夏目漱石などを飲み込み、肛門に飛び込むのはしっかり統率のとれて鋭くとがった科学の文字である。いま、彼の大腸を満たしているのは天体物理学である。


「これで勉強できるでしょ」鈴音さんはとても清々しい笑顔を浮かべた。山田肇の身体を、全世界の書物の内容たちが覆い被さり彼の内側に浸透しようとしていた。鈴音さんは気が付かなかったが、それはなぶり殺しに近いなにかであった。山田肇はすでに気を失っており、書物の内容は身体のどこにも残らなかった。


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