つたえたいのは
横銭 正宗
第1話
声が聞こえる。
懐かしい声だ、誰の声かはわからないけど。
俺はその声の方へ歩いていく。
すると、その声は離れていく。俺は追いすがるように走っていく。
何故だかはわからない。
ただこの声を聴けるのはこれっきりな気がして、必死に走った。
それでも声は離れていく。
縺れる足を無理やりに前に出して、ひたすらに追っていく。
それでも声は離れていく。
俺は叫ぶ。
待ってくれ。待って。置いていかないで。
俺を一人にしないでくれ。
ピピピピッ。ピピピピッ。
目が覚める。俺の手は空を仰ぐように伸ばされていて、寝間着のシャツはじっとりと濡れていた。
夢…か。
昔味わったような、現実味のある夢。
何の思い出と勘違っているんだろう。よくわからないままで、ベッドから這い出る。
気持ちのいい目覚めでもなかったのに、妙に頭が冴えている。
いつもは時間がかかる朝の身支度を10分ほどで終えられたので、久しぶりに朝飯を食べることにする。ベーコンエッグ。絶対に失敗しない、唯一の料理。
食べ終えて歯を磨くと、出発にちょうどいい時間になっていた。
外に出ると、春らしいやわらかな陽射しがアスファルトに降り注いでいる。
…季節は進んでいく。戻りたいと願っても、叶うことはない。帰りたい過去と同じような風が吹くたびに、心は肌寒さを訴えてくる。
でも、そうやって時間が進むごとにわかってくるものもある。
親が言っていたこと、先生が言っていたことは、どれだけ正しかったか、とか。
すり減らしてきた青春が、どれだけ大事だったか、とか。
そういうものって大概、気づいた時には遅いんだけど。
そしてそんな失敗をしたからこそ、あんなに忠告してくれたんだろうなあ、って思ったりもして。
ともかくあの頃はもう来ない。
小さかった頃の、大事な何かがあったような春にも、もう戻れやしないのだ。
バス停に着くと、ちょうどバスが停車していた。30分に1本来るか来ないかのバス。
しかも時間も大雑把で、今日はかなり早め。余裕をもって家を出てよかったと、朝の自分に感謝する。
ガラガラのバスの、前のほうの座席に座る。
揺られるがまま、進んでいく。
ほとんど田んぼしかない風景。朝早くから、おじいちゃんやおばあちゃんが農作業に精を出す。
対して俺は、何をやってるんだ。
親の金で通わせてもらってる大学で、人生経験を積んでいるわけでも、勉学に励むわけでもなく。
他人に流され、ただ適当に日々を浪費する。言い訳を重ね、無駄遣いを重ね、しなくてもいい無理を重ね。
こんなんでいいのか。日々浮かんでくる焦りや、自分に対する怒り。
しかしその問いに答えを出せないままで、気づけば成人していた。
高校を卒業し、独学でプログラミングを学び、ベンチャー企業を起ち上げた友達。
病気の親御さんのために、夢を捨てて働き始めた友達。
そして、才能も目標もなくだらだらと日々を過ごす俺。
ただ、悲観している時間はない。
通う大学の最寄りのバス停に、いつの間にか到着していた。
俺は急いでバスを出る。
講義に間に合うように、俺は講義室へ向かった。
講義が終わる。比較的長期に渡る欠席のせいで内容がわからずぽけーっとしている俺に、知り合いが話しかけてきた。
「どうしたんだよ。元気なさそうだぜ」
一人にしてくれ。そういう意味も込めて、俺は手をひらひらと振る。
「どうせゲームだろ、お前、単位取れてるのかよ」
俺のしぐさが気に入らなかったのか、まだ言葉をかけてくる。
「夢だよ、夢」
俺が正直に言うと、信じられないといった顔をされる。
「乙女か!!」
確かに女々しくはある。夢の内容を話したら、もっと笑われることだろう。
「声がでけえよ、静かにしてくれ」
そう言うと、知り合いは笑顔で俺の側を離れ、大声で挨拶をする。
「じゃーな、乙女クン!!」
元気な奴だ。あいつはいいな、幸せそうで。
講義をすべて終え、家への帰り道。
今日は本屋に寄りたかったので、電車に乗ることにする。
駅前の、個人で営む小さな本屋。ただ取り揃えはピカ一で、行っては紙袋の紐がちぎれそうになるほど買い込んでしまう。
「いらっしゃい。ゆっくりしてってね」
きれいな白髪の店主さんは、今日も落ち着いた声。
人の好さそうな笑顔で、レジの後ろに佇んでいる。
俺はぺこりとお辞儀をして、目当ての本を探す。
花見桜先生の新著。夢でしか会えない二人の話。
その桜色の表紙に触れると、自然に笑みがこぼれる。
『ほんとは会えなかったとしても、あなたは私を探してくれますか?』
裏表紙のあらすじには、そんな文言が書いてあった。
探してくれますか。
そういえば、あの子は何て言ってたっけ。
夢の中の懐かしい声は、何て言ってたんだっけ。
「面白かったよ、その本」
びくっと肩を震わせる。声のほうを見れば、店主さんがすぐ近くに来ていた。
「特に主人公が決断をするシーンは、若さに溢れててうらやましかったね」
この年では、もう選ぶことなんて何もないからね。
笑いながら、でも明確に自分の人生を悔いているように見えた。
「…買うかい?その本」
店主さんは俺に目を戻す。
「あ、はい」
俺は財布を取り出し、本をもってレジに向かう店主さんに着いていく。
家に帰り、カバーをしてもらったその本を読み始める。
その本の内容はまるで、夢に見た景色のようだった。
強烈なデジャブ。むしろ、俺の経験とのダブり。
読み進めても読み進めても、一つの新鮮味もない。
考えてることも、今までの軌跡も、そのすべてに共通点があって、気持ち悪ささえ覚える。
しかし一つだけ違うことがあった。夢の中で主人公は、確かに懐かしい声を持つ人と会えているのだ。幼少期に、ただ一度だけ遊んだことのある少女。
主人公と少女は、他愛ない話をする。
そして別れの際に、決まって寂しそうにする。
主人公はそんな少女を撫で、明日も来るからと伝える。
しかし少女の夢を見始めて五日目、異変が起こる。
主人公は、少女の夢を見れなくなった。
そこからは、全く少女の夢を見れないままで、時は進んでいった。
就活の時期であったこともあり、主人公は段々と少女のことを忘れていった。
そんなある日、主人公は卒業旅行に誘われる。
行き先は海か山か、もう夏は終わったし山だろう、そういう話し合いの末、主人公たちはある山に向かうことになった。
友達に運転をしてもらい、後部座席で眺める景色。その中に、見覚えのある山小屋があった。
少女と話した夢の記憶がフラッシュバックする。
そして最後の日、少女が別れ際に言った言葉を、主人公は思い出した―――。
俺は本を閉じ、目を瞑る。
会わなければならない。
思い出の中のあの子に、会わなければならない。
その日も夢を見た。
声は、昨日の俺と同じことを言っていた。
おいていかないで。ひとりにしないで。
俺はそんな少女に向けて言う。
「俺はお前を一人にしない!!」
離れていく声が、ぴたりと立ち止まる。
「…ほんと?」
やっと姿を見せる少女。その見た目は俺と遊んだあの日と変わらなかった。
俺と少女は他愛もない話をする。
時は過ぎていく。起きる時間になる。行かなくちゃ、と伝えると、少女は寂しそうな顔をする。
俺は少女の頭を撫で、明日も来ると伝えた。
そんなこんなで三日が過ぎた。四日目。小説の中では、最終日。
また起きる時間になる。少女は、俺の予想通りの言葉をくれた。
ほんとは会えなかったとしても、あなたは私を探してくれますか?
俺はその問いに、もちろんだと答える。
俺の下さなきゃいけない決断の正体を、他でもなく俺だけが知っている。
目が覚める。ほんとは今日、予定なんかなかった。
ただ、あの子を救ってやらなきゃいけなかった。
なくしていた記憶が戻ってきて、俺の心のつかえがとれたような気がした。
俺は昔住んでいた町の、学校のすぐ近くにある小さな山に立ち入った。
他校の女の子が、山小屋の前にいた。
声をかけると、親と喧嘩したんだと言っていた。
俺は仲直りしなよと言って、座り込んだ少女の隣に座った。
やがて日も暮れ、他愛ない話を交わした俺たちは、明日遊ぶ約束までしていた。
仲直りして戻って来いと伝えた。
少女は笑ってうんと言った。
帰りが逆だったので、俺と少女はその場で解散した。…それがいけなかったのだ。
少女は帰り道、崖から滑落して死んだ。
仲直りすることも、俺と遊ぶことも叶わないまま、死んでしまった。
俺は信じなかった。
信じずに次の日山に入り、同じように滑落して、記憶を失った。
それが、この十数年の、ぽっかりあいた穴の正体だった。
そして俺がしなきゃいけない決断は、ここで少女を解放してやることだった。
「久しぶり」
後ろから声をかけられる。
「ああ、久しぶり」
振り向いて、そう返す。あの日と変わらない、少女の姿。
「いきなり夢に出てごめんね」
少女は本当に申し訳なさそうに言う。
「でもね、そろそろあなたを解放しなきゃって、そう思ったの」
違うんだ。縛っていたのは、君を離すまいとした俺で。
「だから、今ここでお別れしよう」
早すぎる。君とはまだ、いつかしか過ごしてない。
明日も来るって約束したじゃないか。
「あなたのことを縛った十数年を、私はここに置いていきます。だからあなたも私を―」
続きは、言わせない。
「あの時。君を一人で帰して悪かった」
少女は否定しようとする。しかしそれには耳を貸さず、俺は続ける。
「君の死を受け止められなくて、次の日山に入って。それから俺は、君を縛り付けた」
少女は、必死に否定する。
「だから、君が俺を置いて行ってくれ。そのうち追いついたら、また遊ぼう」
俺は手を差し出す。指切りだ。
「泣かないって…決めてたのに。ひどいよ」
少女は泣きながら、俺と指切りを交わす。
「さようならじゃない。また明日だ」
俺は、笑う。少女も、笑う。
「うんっ」
少女の姿が薄れていき、やがて見えなくなる。
俺はその場所に、踵を返す。
取り返せるかはわからない空白の時間を、取り返すために。
まずは卒業旅行に誘ってくれるような友達を作ることにした。
つたえたいのは 横銭 正宗 @aoi8686
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