第88話 外伝『アーリーデイズ』(26)

 何か大切なものを失った気がする悲しい悲しい蛇事件から十数分後――。

 俺たちはまだ歩き続けていた……いい加減俺と美奈は体力の限界だ。肩で息をして汗だくなり、足取りは非常に重い……。


 そして……美奈に関しては――。


「はぁはぁ……くすっ、よ、義孝君の汗美味しそうだなぁ……い、いっぱい汗かいて色っぽいなぁ……食べちゃいたい」


 ただの変態になっていた。

 まあ、変態なのは元々なんだけど……脳の犯され方がやばい。もっと言うと俺との距離もめっちゃ近い。

 何かの間違いで少しつまづいたらキスができそうな距離だ。


 くっ、なんでだ。こいつも結構汗かいてるはずなのに甘い香りがする。てか、お前の方が100倍エロいからな。


「ふふっ、お兄ちゃんと仲良しででござる~~~」


 そしてアヤメは機嫌よさそうに俺の腕に抱きついている。

 可愛い妹が俺に懐いてくれるのは非常に嬉しいのだが……今は正直暑苦しい。


 いやだって……美少女2人に囲まれているとはいえ、今山上ってんだぞ……? さすがにきつい……。


「ふーん、川島って意外とモテるんだね……この世のミラクルを目の当たりにしてる気がするよ」


「お前、サラッと失礼なことを言うんじゃねぇ」


「あはは、ごめんごめん。ほらっ、あの丘を越えたらそろそろつくかから」


 新島が指さす方向を見ると、そのあたりには生い茂っている木々がなく、開けた場所になっているようだった。


 ふぅ、やっとか……はぁ、花ぐらいじゃこの労力はわりにあわない気がする……。


「や、やっとついた……義孝君、着いたらまず休憩しようよ」


 美奈も俺と同じような考えのようだ……そうだよな。ひまわりよりも休みたいよな。正直俺らの中でひまわりへの興味があふれてるのはアヤメぐらいだ。


「わあああ! ひまわりみたいでござる!!!」


「お、おいっ! アヤメ、走ると危ないぞ!」


 俺の腕を放していきなり走り出す。俺は慌ててそれを追いかけようとするが……。


「ま、待って……おいてかないで……」


 美奈が俺の手を引っ張る……その顔は寂しそうでとてもじゃないが、置いていく気にはなれない。くっ、でも、アヤメを1人にするわけにもいかないし……ああ、仕方ない!


「ちょ、ちょっと、義孝君……!?」


 俺は美奈を抱え込んで持ち上げた。

 そしてアヤメの後を追いかける。いわゆるお姫様抱っこというやつだ。

 こ、こいつ思ったよりもずっと軽いな……ちゃんと飯食ってるのか?


「あはは、何だぁ。川島って体力マックスじゃん!」


「火事場の馬鹿力だ。アヤメをひとりにしたくないからな! 美奈我慢しろよ?」


「う、うん……」


 美奈は俺の胸のあたりにおでこを当てて小さい声で呟く。その表情はわからないが普段の美奈にはある余裕がなく、これはこれで可愛い感じがした。


「はぁはぁ……くっ! お、おいアヤメ!」


 俺はアヤメの後を必死に追いかける。

 ただでさえへばり気味でインドアの俺だ。足取りはかなり重く、幼女であるアヤメにさえ引き放されそうになる。

 だが……アヤメは『何か』を目にすると不意に足を止めた。


「やっと、追い付いた。お前ないきなり走るとあぶな――」


 アヤメに追いつき小言を言おうとした瞬間――その光景は俺の視線に映った。

 思考が止まる……それほどの何本……いや、何万本もの、視界に入りきらないほどのひまわりだ。


 1本1本がアヤメの身長よりも大きく140センチはありそうだ……全て満開に咲き誇り、自身の存在を悠然と主張していた。

 それはまさしく……どこまでも果てしなく続くひまわりの海だ。


「な、何だこれ……」


「すごい……なんていうか、天国みたい……」


 俺抱えられている美奈がポツリと呟く……美奈は俺と同じでひまわりに興味などなかったはずだ。アヤメが行きたがったから来ただけだ……。

 だが……今の光景からは目が離せない。


 まるで心が洗われていくようだ……「自分が抱えてる悩みなどちっぽけだ」と、この景色に言われているようだ。


 正直……ひまわり畑など馬鹿にしていた……子供騙しの観光の道具だど……歪んでんな俺。だけど……今はそんな自分を殴りつけたい気分だ。


 この景色は……そんなちゃちなものじゃない……もっと見ていたい。いつまでも見ていたい。そう強く思わせる魅力がある。


「お兄ちゃん! 美奈ちゃん!! ひまわりがいっぱいでござるううう!!! ママが! ママが大好きお花がいっぱいでござる!!!」


 アヤメがひまわりの元に元気よく駆けていく。

 

「美奈……俺たちも行くか……」


「うん……近くで見てみたい」


「あっ、川島、私はここの責任者の人と話してくるからじっくり楽しんでね」


「あ、ああ……悪いな」


 笑顔で手を振りながら去っていく新島を見送りながら、俺は美奈を下ろすのも忘れて、お暇様抱っこのままアヤメの後を追って行った。

 

 アヤメは呆然とした表情で自分の身長以上のひまわりたちを見上げている。

 

「おっきい……ママが好きな花がいっぱいでござる……ママ……」


「…………」


 アヤメの目に涙がたまっていく……。


 アヤメはずっと我慢をしていた……「ママ」という言葉さえ口にしないようにしていた。


 こいつは表に見える性格以上に寂しがり屋だ。でもそれと同時に年齢以上に真面目でしっかりしている。さらには頭もいい。多分自分の立場、「母親が自分と暮らす気がない」ことも感覚的に理解している……。


 そのうえで「母親に迷惑をかけたくない」という想いが、自分の『本当の気持ち』を押しつぶしていた。


「あ、あれ……アヤメ泣かない……って決めたのに……ママが向えに来てくれるまで泣かないって……」


「…………アヤメちゃん」


 美奈が俺の腕から降りるとアヤメのことをきつく抱きしめた。


 その瞬間、アヤメの目から涙がこぼれる。抑えていた感情が溢れ出すようだ。


「いいんだよ……アヤメちゃんの一度決めたことを最後までしようとするのはいいことだけど……今はいいんだよ……」


「ああ、アヤメ。人間感情をため込むのが一番悪い。たまにはガキみたいに泣いたっていいんだ」


「み、美奈ちゃん……お兄ちゃん、あやめ……あやめは……」


 それはアヤメが一番に望み……だけど、口にすることができなかった言葉――。


「あ、アヤメはママとくらしたい!! ママがあやめのこときらいでも、ぐすん、あやめはあやめは……あやめはママとくらしたいの!!!!!!!!!!」


 ぼろぼろと涙をこぼしながら、アヤメはただ叫ぶ。


 願望、悲しみ、希望、様々な感情を浮かべながら、真っ直ぐに自分の気持ちをーー。


 そしてそんなアヤメを美奈が優しく包み込む。


「よく言えたね…………もう一度言うよ…………もう我慢しなくていいんだよ。だってアヤメちゃんとお母さんはこの世で唯一の「家族」なんだから。そうだよ……家族は……! 家族は揺るがないんだから……!!」


 美奈はアヤメを抱きしめながら耳元でささやく。

 「家族は揺るがない」その言葉はまるで美奈自身にもいい聞かせているようにも感じた。


 そしてーーその言葉は力を持ち……確かな結果となって現れる。


『アヤメ……!!!!!』


「えっ……ママ……」


 ここにいるはずのない母親が……アヤメの元に駆け寄ってくる……。がむしゃらに体面も気にせずに必死に走ってくる。


 美奈はそれを確認すると……ゆっくりとアヤメを離して微笑みかけた。


「アヤメちゃん……ママに……家族言いたいことを言うんだよ。私も頑張るから……」


「え……ママ……ママああああ、うあああああああああんんん。ママ。ママあああ」


 アヤメが母親に力いっぱい抱きつく―――


「わああああああああんん! やだ、はなれるなんていやだよおおお。いっしょ! いっしょがいいいよおおお」


「うん……! ごめんなさい……ごめんなさい……」


「うっわああああああああああああああああああああああああ」


 ひまわり畑にアヤメのあふれ出した感情の声が響き渡る。今までため込んでいたものが流れ出ていくように……長い時間アヤメは泣き続けた。

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