第2話
自動症。複雑で一見すると合目的な行動を本人の自覚や意識なしに行ってしまう症状。側頭葉てんかん患者などによくみられる、いわゆる脳の障害。
自分の状態に病名を付けられることで安堵するのは現代人の特徴らしい。精神病院行脚をしてそれなりに自分が納得できる響きを求めるのだという。響き、と言うのは何の冗談でもなく、本当に響きの問題らしい。適度に重そうで格好良さそうであまり日常生活で聞き慣れない、そういう特別のラベルが欲しくて東奔西走を繰り返す。自殺ネズミよりも頭が悪い。精神医学は当たり前の事に病名をつけてしまった、なんて言われるぐらい、今の人々は腐った病み方をしている。
僕はそんなに馬鹿じゃないし、縋るものを欲しがっているわけでもないと思っている。だけど現状に一番合っているのはこの言葉で、それ以外が見付からない。だったらそれを受け容れておくべきなんだろう、重い医学書を腕で支えながらぼんやりと僕は小さな文字の列を追っていく。
僕にてんかんの気は無い。今までにこんな状態になった事はないし、それに階段から落ちた時に一通り脳に関する検査は受けた。その上で異常無しと判断されたのだから、信用するべきだろう。でも治療法はてんかんに則したものばかりだ。他に何か原因や治療法は書いてないのか、探してみたけれど途中で腕が痛くなって面倒臭くなった。医学書を放り投げて、僕は部屋の真ん中で大の字になる。
部屋の中にいる分には平気だけれど、どうやら――外に出ると、無意識に危険な行動を取ってしまうらしい。僕はそれを確信していた。階段から落ちたのも事故じゃなく、僕はきっと自分から死にたがったのだろう。歩道橋の上に居たことも、石段から落ちかけたことも、赤信号を無視して渡りそうになったことも、何もかも。
僕の意識としては何も死にたい理由なんてない。だから自分を守るためには、こうやって部屋に閉じ篭っているしかないんだ。こういうのも引き篭もりって言うのかな、と、寝返りを打つ。ワンルームだから台所の冷蔵庫がすぐに見えた。あの中身が空っぽになったのは昨日の事なのだけれど、買い物に出掛けることも出来ない。胃は既に空腹を訴えることを諦めていた。僕は眼を閉じる。
死にたがる、なんて、馬鹿な病気。
僕は狂ってしまったのか。
僕は狂ってなんかない。
でも、死にたがって身体が動く。
なんて馬鹿げて不気味な状態なんだろう。
口からは吐息が零れ、胸は呼吸のたびに上下して、僕が生命維持活動を行っているのだと伝える。不随意運動というやつだ、瞬きや内臓の活動なんかに代表される自分の意識の及ばないところで行われる運動。
これと同じように僕は死にたがる。ぼんやりと脚を踏み出す時に僕の意識は何一つ働いていない、僕は何一つ意識などしていない。だけどこの身体が押し出される、遠くに行きたがる。そんなものが非随意に行われるなんて、本当にゾッとしないとしか思えない。
本当に狂っているとしか思えない。
呼吸のように。
鼓動のように。
死にたがるなんて。
だるい身体を再度転がして僕は背中を丸めてみる。ほんの少し胎児のような姿勢だと思った。それは自衛のポーズなのだと誰かが何かの本で言っていた気がする、子供は母親の腹の中でもその意思に毒されるのを嫌って自分を守っている。生まれる前から自分を守る自己防衛本能というものが、確かに存在するはずなのに――どうしてだか、今の僕にはそれが欠けてしまっていた。
夕日が眼を照らす。カーテンを閉めるのも億劫で、僕は眼を閉じた。家から一歩も出ない三日目は、そうやって終わるはずだった。
「き、てやッ起きてや、なぁあ!? 起きて、生きてんねやろ? 起きてやぁッ!」
どこか遠くから呼ばれる声が聞こえた気がして、僕は薄っすらと目を開けた。誰かが呼んでる気がしたけれど、それは錯覚だろう。だって僕の部屋には僕以外誰も居ない。誰かと一緒に暮らしていたら、少なくとも空になった冷蔵庫を補充してもらえたかもしれないけれど――でもそれだけだ、その程度の価値しかない。だからきっと呼んでる声なんて錯覚以外の何でもないんだと、僕は薄く開けた目をもう一度閉じようとする。だけど再度耳元で呼ばれる声で覚醒を促され、意識は引き摺りだされてしまう。
「起きて、なぁ起きて、何ッ何やっとんの!? なんでこないなっとんの、なあ、受けへん冗談なんて最悪やで、起きて――」
このイントネーションは。
僕は渾身の力を込めて、眼を開ける。
僕の顔を覗き込んで必死の形相をしている奴が、視界を覆う。
逆光の所為で暗い顔が、ドングリ型の眼が。
ぱく、と僕は口唇を動かした。
「なんや、なあ、何ッ」
僕は告げる。
「……腹減った」
コンビニ弁当は美味かった、空腹は最大の調味料だという言葉は偉大だ、沢庵和尚は正しかった。そんな事を適当に思考しながら、僕は一口だけ残した弁当のトレイに割り箸を乗せる。梅干は嫌いだ、赤く色の移ったご飯も苦手だ。人間好き嫌いはどうやってあるんだ、と言うわけでグッバイ。それを見た奴はその一口を食べ、お百姓さんの汗と涙に応える。うまうま、ふぅっと一息吐いたところで、奴に睨まれる。
「どーなってんねや、これ。冷蔵庫空っぽやし、優等生の無断欠席で先生方は混乱中やし。キミ、電話にも出てへんねやろ?」
「あー……携帯壊したんだっけ」
階段から落ちた時に粉砕してたの忘れてた。ちなみに電話は引いてない、必要無いから。現代人はかくも合理的なものなのだ。や、不合理非合理も嫌と言うほどに併せ持っているのだとは思うけれど。
奴はへにょへにょ、と脱力する。
「め、メル出しても全然返ってこんから、本気心配してんのに……ッ」
「元々僕筆不精って言うかメル不精だし。あ、ちなみに冷蔵庫は空っぽじゃないよ。三ヶ月前に実家から送られた佃煮が入ってたかも」
「捨てたわそんなもん変色してたから」
「だろうな」
「っとまあ初っ端の軽いコントは此処までにしようや、なあ、ほんまにどないしたん? ちゅーかどーなってんねや、キミ」
ずずい、と膝を進めてきた奴から等距離だけ遠ざかる。僕は仕方なく、手近に放り出してあった医学書を手に取った。この数日ですっかり開き癖がついてしまったページは簡単に現れる、無言でそれを奴に指し示す。
「自動症? なんや、キミてんかん持ちやってん? あれは危ないで、いきなりバッタリ倒れたり。受身取れんから顔面直撃鼻血池地獄」
「違うんだけどね」
「せやったら何?」
「違うんだけど、それみたい」
「……って?」
僕は息を呑み、そして、奴に、告げる。
「死にたがる自動症みたいなんだよね」
ドングリ型の眼が凍って瞠目し、僕を見た。
†
「ういーす、定期便来たでー?」
「んー」
既に慣れてしまった声に適当に答え、僕は先日コピーした奴のノートから顔を上げる。遣ることもないからとりあえず勉強だ、復帰した時に授業内容に付いて行けないのも無様で格好悪いし。とは言っても殆ど予習の範囲までしか進んでいないみたいだけれど、これからどうなるかは分からない。自習で追いつかないところは人に聞くほうが早いんだし。僕は眼鏡を外し、玄関を見る。靴を脱いでいる奴の手元からぶら下がったコンビニの袋が、がさがさと乾いた音を立てて揺れていた。
僕の症状を話しての奴の第一声は、当たり前と言えば当たり前なのだけれど、『病院へ行こう』だった。脳障害でないのならば精神的なものかもしれない、脅迫とか神経症とか――意外にそういう分野に造詣が深いのには驚かされたけれど、僕は拒否した。精神科の門を叩く勇気を搾り出せるほどに、僕はまだ追い詰められていない。先日のは確かに辛かったけれど、あれはむしろ空腹の力が強かったわけだし。
そんなわけで断固拒否を示した僕に呆れ果てた奴だったのだけれど、それならばと食糧の差し入れをしてくれるようになった。勿論料金はきちんと払っているのだけれど、かなりありがたい。一人で毎日デリバリーを活用するのは懐が痛すぎるし。そんな訳で今日も冷凍ピラフをチンして頂きます、だ。
もそもそと僕が食べ進めるのを眺めながら、奴は恒例の溜息を吐く。何度言われても僕は病院には行きたくない、その意思は今のところ変わらない。だから完全に無視を決め込んで、僕は皿の上で逃げるエビを追う。
「食欲あるんやったらまだエエけど……」
「人間だしね。三大欲求は切り離せない」
「へ、自己防衛ぐらいせぇゆーんや」
けっ、と笑って見せた奴に気付かれないように、僕は軽くスプーンを噛んだ。鉄の味が広がる、少し血の味みたいだな、なんて考えて、また食事に戻る。
自己防衛本能。今の僕に欠けているもの。死にたがりの自動症。もしかしたらこうやって病院に行くことすらも拒んでいるのは、その表出なのかもしれない。なんとも馬鹿らしいことなのだけれど。
「ちゅーか、キミの部屋の台所って妙に綺麗やってんな? 案外ちゃんと掃除するんやなー、生ゴミとかも溜まってへんし」
「元々料理しないからね、面倒臭いし家庭科は得意じゃなかったし。コンビニ弁当か冷凍食品でこの二年間過ごしてきたから。台所なんて洗い物以外したことないし、綺麗で当たり前なんじゃないのかな」
「……無駄遣いしなや、自炊したほうが安く付くんで?」
「別に僕の金じゃない」
深い溜息を吐かれ、ごろりと奴が床に寝転がる。僕の部屋には殆ど娯楽が無い。テレビもゲームも漫画や雑誌も、およそ普通の男子高校生が楽しむようなものはない。高いベッドの下に机があって、テーブルがあって、冷蔵庫やレンジがあって、まあそんなところだ。掃除機すらない。ただ単に僕があの排気を毛嫌いし、箒とモップを愛用しているだけなのだけれど。だから奴はいつも少し退屈そうに床に転がって天井を見上げる。僕はなんとなくホッとしながら、ピラフの残りを食べ進める。
「会食不能症候群」
「へ?」
がじ、と、今度は意図せずにスプーンを噛んでしまう。
「頭の良い男子学生にようあるもんでな。全然知らんところで食ったり飲んだりは出来てんけど、友人知人の前では途端に緊張度が増して食い辛くなってまうんやって。キミ、見られて食うの苦手やろ?」
「……普通じゃないのか? 人前で大口開けてモノを突っ込むところを見せるのは、当たり前に気が引ける」
「中学生の女子みたいやな」
「馬鹿にしてんのか」
「いんや、ただ、もしかしたら――そういう素養、あってんのかもな」
「……?」
ぽつりと呟かれた言葉の後半は聞こえなかった。僕は首を傾げるけれど、奴は繰り返すつもりが無いらしく、口を閉ざしてしまっている。聞こえない言葉、伝えなくても良い言葉なら目の前で発するんじゃない。ぼんやり考えながら、僕は当初の目的どおりに手早く食事を終え、さっさと洗い物を片付けた。
玄関に向って靴を履けば、のろのろと奴も歩いてくる。狭い玄関に男二人は妙な圧迫感で嫌だったのだけれど、別に命に関わるほどに嫌だというわけでもない。背後に立たれるのはあまり好きじゃないけれど、と、僕は立ち上がる。奴も少しくたびれたスニーカーに足を突っ込んだ。踵を潰すな、踵を。靴が傷むだろうが。
玄関を開ける。
僕達は手を繋ぎ歩き出した。
奴が無理矢理僕を外に連れ出して知った事は、どうやら手を繋いでいれば発作が防げるらしいということだった。抑止力として他人の手があれば、僕は僕のままで意識を途切れさせることがないらしい。少しずつリハビリ、と言うか、外に慣れろと言われて、毎日奴と一緒に散歩をしている。
流石に日中は男の二人連れでしかも手を繋いで、なんてのは目立つ。それに奴は学校もあるし。ちなみに僕は風邪で寝込んでいる、ということになっている。治らないようだったら適当に何か病名をでっち上げなきゃいけないんだけれど、それは面倒臭いから早く治って欲しいと切実に思う。
ともかく夕暮れから夜に掛けての時間帯を、僕達は手を繋いで散歩するようになっていた。奴に先導される形でのろのろと歩く僕は、赤い夕日に目を眇めながらただ左右の脚を動かしている。まだあまりこの街に詳しくない奴を前に歩かせるのは中々のチャレンジ気分だけれど、これと言ってコースを思いつかない僕が前を行けば一歩も進まないだろう事は明白だ。自覚がある。
のろのろと歩く。影を踏みながら歩く。
僕は奴の後ろを歩いている。
呼吸をしながら歩いている。
拍動を保ちながら歩いている。
死に向かって歩いている。
「なぁ、会食不能……なんとかって、なんだったんだ?」
「あ、会食不能症候群? せやから人前で飯が食えんようなるんやって。主な症状はそれだけやってんけどな、まあ拒食症のイトコみたいなもんやな」
ただ黙って歩いているのもなんだか微妙な心地だったから、僕は部屋での続きを話題にしてみた。少しだけ僕の方を振り向きながら奴が告げる。ふぅん、と生返事して、僕はもう少し思考を働かせてみる。
「原因は? 拒食症はダイエットなんかへの欲求からくる心理的圧迫、だろ?」
「んー、厳密には正しくないけどなー……。口唇期、まだほんまにちっこい赤ちゃんぐらいの頃の性格形成が関係あるー、とか、青年期にありがちな自己同一性の不安定さが原因やー、とか、色々あるんや。病状は同じでもそこに至るプロセスが何万通りにもなる、言うんは人間の複雑で面白いところやしな」
「裏を返せば何万通りの道を辿っても結局辿り着く先は限られている、と」
「せやな。ハイエンドまで到達しても結局は同じよーなカテゴリなんて山ほどある。ほんでまあ質問してみるけど、キミ、なんかちっこい頃に切ない経験とかしたことあるん? なんかあったらそっから崩していけるかもしれんし」
「さあね……アマチュアに任せるのは信用ならないし」
「ま、せやな。俺も趣味でちっとだけ齧っただけやし、んでも昔の事とか色々思い出したらなんやネタが出て来るかもしれんで?」
かんかんかんかんかんかんかんかん。
遮断機が僕達の前で降りた。少しだけ唐突に奴の身体が止まって、僕もまた足を止める。自然に会話も途切れる形になった。電車の音はまだ遠いけれど、此処で遮断機を潜るほどの度胸と非常識さは僕達にない。常識人として。
別に急ぐ道のりでもないから。
急ぐ道のりだけれど。
ぼんやりと点滅する警報機を見上げる。夕日の中で信号はなおも赤い。赤、と言う色は、人を落ち着かなくさせ注意を促すに丁度いい色なんだろう。危険はいつも赤だ。対照の青は人をリラックスさせる。安心していろ、と言う無言のメッセージなんだろう。青信号でも運が悪けりゃ車に突っ込まれてお陀仏だけど。いっそ赤と黄色の方が良いんじゃないのか、いつの時も油断大敵と言うことで。
でもまあ、確かに僕の個人的な意見としては夕焼けより青空の方が好きだ。もっとも一番好きなのは白濁色の曇り空だけれど。何も決まっていない、何も確定していない、危険も安全も快も不快もどっちでもない方が良い。曖昧模糊としていてあらゆる可能性を包括している矛盾。シュレディンガーの猫染みた空。雨降りにも晴れにも転じることのできるその様子。
それはまるで側に居る人間よりも側に居ない人間の方が、僕には優しいと感じられるように。僕の世界に映らず、それでも世界を動かしている人々に感じる安心めいたもののように。
「っと」
奴の声と同時に微かな電子音に気付く。
携帯電話の着信音らしい。
スライド式のそれを、奴がするりと開ける。
あれ?
僕の手は?
思考が白濁する。
夏の日だったような気がするし秋だったような気もする。もしかしたら春だったかもしれないし、案外冬だったという可能性も捨てきれない。季節は判らないけれど、それは確かに夕方だった。
踏み切り、遮断機。公園から帰る途中だった僕の手には砂遊びに使ったプラスチックの玩具が、バケツに入れられていた。向こう側には女の子が立っている。見た事のある制服、見たことのある女の子。近所に越してきたお姉さんだったっけ? 僕はぼんやりと遮断機の点滅を見上げた。早く終わらないかな、と。
電車が来る。向こう側に居た彼女が遮断機を上げて、線路に向う。
危ない。
声は出ない、僕はぼんやりと彼女の様子を眺めていた。
目の前の光景を焼き付ける作業を不随意に行っていた。
彼女は電車に向って仁王立ちになる。
急ブレーキの音が響く。
けたたましい音に僕は耳を塞いでしゃがみ込む。
眼を開けると、
人の部品が、
鉄のニオイが、
赤い雨が、
「 ――ッ!」
呼ばれて。
腕を掴まれて。
足を止める。
目の前を。
電車が。
通り過ぎた。
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