夏の雪解け 6



 物語には多くの雪が降った。幸福にたとえたり、命に喩えたり、心に喩えたり、愛に喩えたり……そんなには喩えてないか。

 実をいうと、俺は語るべき内容をあらかた書き尽くしてしまった。余った原稿にエピローグをつづってやりたくても、さっぱり思いつかない。

 そんな事情があり、残りのページは俺たちの近況報告だけになる。寂しくても我慢してくれ。季節はなんでもいいけれど、まぁせっかく夏の話をしていたのだし、夏にしよう。



 四年の月日が流れても俺は変わらずアパートに住んでいる。あれから隣人が二回入れ替わり、今では空き部屋になった。

 部屋の合鍵の持ち主も変わった。照れくさい話だが、俺は同棲中の身だ。相手はもちろん、荻原おぎわらゆい


「ねぇー、はやく準備してよ。じゃないと遅れちゃうからさー」

ゆいが寝坊したんだよね」

「一緒に寝坊したふみの責任」

「ひどいな」


 彼女は保育士の資格を取得し、一昨年から児童養護施設「つえ」の職員として働き始めた。


「なにみてんの?」

「いや……少し、肌がみえすぎてないか。特に背中のあたり」


 何より大きな変化は夏でも半袖になったこと。肌の露出が多い服も積極的に着こなすようになった。


「いいの、いいの。わたしが子どもたちの手本にならないとね」


 というのが克服した理由らしい。

 休日のデートで荻原のファッションショーをみることが、夏の新たな趣味になりつつある。

 俺の変化といえば、仕事を辞めて執筆業に専念したことかな。いい換えると執筆や読書が仕事になった。

 紙が売れなくなった時代に売れない小説を出すのは苦しいけれど、支えてくれる彼女のおかげでここまでやってこれた。

 ひとを救う文章を書きたいのに、まず自分が助けてもらうというのは矛盾しているか。

 いずれ贅沢させてもらうので寄りかかってきなさいと荻原にはいわれている。自分のほうが大変な思いをしているだろうに、本当に凛々しくて優しい子だ。あとは文章をみてわかる通り、俺は前よりも明るくなれた。


「そういやさー、沙耶ちゃんから例のCD、送られてきてたよ」荻原の伸びやかな声が玄関から飛んでくる。「デスクの上にあるやつ」


 昨日、沙耶にメールで感想を求められたことを思い出す。

 彼女の留学先はドイツのワイマールにある音楽大学で、テレビ電話やメールで連絡を取り合っている。

 食べすぎでやや太り気味なこと、熱狂的なファンの奇行に悩まされること、心を読んでもユーモアセンスを理解できないこと。留学生にありがちなものや、天才ならではの愚痴に笑わされる。


「忘れるところだった。唯を送って、帰りにでも聴こう」

「えー! ずるーい」

「ずるくない」


 丁重に包装された未開封のCDをビジネスバッグにねじ込む。外では騒々しい夏虫の朝が俺たちを待っている。



 施設で荻原を見送った際、彼女とのすれ違いで見覚えのある風貌の男に声を掛けられた。


「やあ、元気にしてたかい」

「あのベビーカーの」

「ピアニストの草薙くさなぎだよ」

窪田くぼたです」

「きみと話すのは四年ぶりかな」と彼は顎をさわりながらいった。「仲野なかの先生が、娘たちをたぶらかす不届きなやからだといっていたよ」


 その表現に苦笑する。娘たちとは、荻原も含めてのことだろう。

 忘れられない夏の当事者でもある智香ともかさんに指摘されるくらい、俺たちの関係は極めて危うい。

 だがそれでも、奇跡の薄氷を壊さぬように歩く未来を俺たちは選んだ。行く末が歪みきっていたとしても歩くしかないのだ。


「……もしかして智香さんですか? お世話になったひとって」


 古い記憶をたどりながら訊ねた。


「そうそう。ばれてしまったか」


 といって、彼は頬をいた。

 特別な耳を持った人。

 なるほど確かに、沙耶の母親を指していたのなら納得できる。


「今度、仕事で海外に行く予定ができてしまってね。施設育ちの僕には頼れるひとが仲野先生くらいしかいないものだから、息子をどうか頼みますと、お願いしたところさ」

「返事はもらえました?」

「前向きに検討するだってさ。仲野先生に限っていえば、だいたいオッケーって意味だよ」


 頼まれたら断れないというより、助けてしまうのだろうな。心が読めて、なんでもないふうに手を差し伸べてくれるひとが、ここにもいる。


「さっきの子だけど、窪田くんの彼女さんかい?」

「えぇ、まぁ、そんなところですね」

「……もしこれから暇だったら、昼食でも一緒にどうだい。僕と窪田くんは似ていると思うんだ」



「それで、似ているってどういうことですか」近場のファミレスで注文を終えた直後に俺はいった。


 すると彼は左手の結婚指輪を外し、テーブルの上に置いた。


「不謹慎かもしれないけど、僕が一番に愛していたのは妻じゃないんだ。妻のことは間違いなく愛していたけどね。彼女もそれを分かった上で、僕を選んでくれた。きっと窪田くんたちも、そうなんだろう」


「どうでしょうね」と俺は答えをはぐらかした。「自分でもよくわからないです」


 わからないのは本心だった。俺はどちらにも指輪を渡せない。それは無責任でも、優柔不断でもなくて。三人でしかはまらないパズルを、二個の指輪で完成させようとすれば破綻するだけのこと。


「ごめんごめん、きみたちにはきみたちにしか分かり得ない絆があるようだね。部外者の僕がとやかくいうのはお門違いだ」


 ややあって、彼のスマホが振動した。画面が上を向いていたので、一瞬、「アイザワ」と表示されたのがみえた。

 数分ほどで切ると彼は気まずそうにスマホを戻し、結婚指輪のそばに新たな婚約指輪を添える。


「僕、ひっそりとピアノ教室を開いているんだけど、そこで親しくなった女性がいてね……妻は許してくれるだろうか」


 彼の妻にあたる人物が亡くなってから少なくとも四、五年は経過している。男の子は低学年。来たる思春期のために甘えておきたい時期。


「許してくれますよ」と俺は力強く肯定する。「根拠はないですけど、ハッピーエンドが好きなので」


 アイザワ。

 俺の知り合いに同じ名前の女性がいた。そんな都合のいい話があるとは思わないが、もし彼女だったらこの上なく優しい物語になる。いいよな、俺の小説のなかでは、そういうことにしても。

 不幸で終わるひとが一人でも少ないハッピーエンドにしたいから。


「お祝いというのもおかしいですが、俺の大切なひとから未発表のCDが届いたので、よければ聴いてみませんか」


 今朝ビジネスバッグに入れておいた沙耶からのプレゼントを開封する。CDはシングルではなく、アルバムだ。


「ほんとうかい。嬉しいなぁ」

 

 ちなみにトラックリストはこうなっている。

 

 1.十月某日「想罪おもいで

 2.透明人間のために

 3.チッペンデールと青い猫

 4.眠る蜻蛉せいれい

 5.Mama’s Songゴールデンスランバー

 6.八月某日「罪夢あくむ

 7.煙晴るく

 8.きおく泥棒はいいました

 9.荻原唯

 10.夏の雪解け


 兼ねてより沙耶と打ち合わせを進め、近々発表する予定の楽曲たちだ。アルバムのタイトルは明かすまでもないよな。さんざん小説で書いてきたからさ。

 そのアルバムの初回生産限定盤には、荻原と沙耶が書き下ろした絵本〈きおく泥棒はいいました〉が同梱される。

 予約特典はスモークさんの「心霊写真」がランダムで五枚か、リバーシブルのオリジナルブックカバー。用途、需要はともに不明だ。

 小説〈夏の雪解け〉を楽しんでいただけたのであれば、そちらのご購入も検討されたい。

 音楽、文学、写真、絵画を融合させた異色のコンセプトであるが、果たして売れるのだろうか。

 まぁ、そんなことはどうでもいい。


「ただし俺の取材に応じてくれたらですけどね」と俺は意地の悪い笑みを模倣する。「教えてくれませんか? 草薙さんの好きだった、智香さんのこと」


 もう一つの雪解けを書かなくてはいけないなぁ、と俺は思ったり、思わなかったり。

 心が読める女の子に救われる話は、まだまだ終わりそうにない。

 

「これは僕が中学二年生だった冬の話なんだけど――」


 過去を懐かしむ声に耳を傾け、ファミレスのテーブルの上にメモ帳とボールペンを用意する。

 草薙……クサナギ……さなぎ

 よし、次のタイトルは「真冬のほたる」にしよう。

 夢見がちな諸君らのために念を押しておくけど、作家の発想なんて本来こんなもの。


 あんたもなれるよ、小説家。

 


____



〈了〉

 


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