夏の雪解け 5


 夏が息絶える境目の、静かな夜の静かな町で、俺はナイフを握りしめる。

 昔、俺の担任だった葛城先生がいっていた。人生を左右する瞬間に相まみえることは稀だが、それは往々にして一瞬でもたらされるのだと。

 思うに、別れは理不尽だ。

 出逢いと同じくらい理不尽だ。

 俺は、沙耶を愛している。

 悩むまでもなく答えは決まっていた。

 もっと難しい選択を迫られるのかと思った。最後の最後でやさしすぎる問題が出たものだ。


「わかったよ」俺は彼女の左胸にナイフを突きつける。「きみを殺すことにした」


 沙耶が俺を選んだのは人殺しだったから。きみが殺人鬼を望むというのなら、俺はそれに応えよう。

 

「随分と早いんだね」感心したふうに沙耶がいった。「もっと苦しんでくれると思ったのに」

「どうせ殺さなくても沙耶はいなくなるし、変わらないだろ」

「ふぅん」

「二回目だし」

「頼もしいなぁ」と笑いながら沙耶は路面に仰向けで寝転んだ。「はやく終わらせて。さもないと私が車に轢かれてしまうよ」

「そうだな」


 俺は沙耶の上に乗り、そのままシャツを脱いだ。しっとりと汗ばんだ肌に、生ぬるい風が絡みつく。


「えー、露出狂?」

「俺にそんな趣味はないから」

「うん。しってる」


 いまから殺されるというのに、どうしてこんなにも奥ゆかしい笑みを浮かべていられるのだろうか。

 たぶん答え合わせの機会は永久にやってこない。


「これくらいは許してくれ」俺は沙耶の顔に脱いだシャツをかぶせる。「きみの苦しむ顔をみたくないんだ」

「いいよ。最期に文彦の顔をみれないのは残念だけど、心の声はちゃんと聴こえてるからさ」

「子守唄」

「眠れそうにないね」

「〈Mama’s Songゴールデンスランバー〉だっけ。もう一度聴きたかったな」

「無茶いわないでよ」


 馬乗りでナイフを首筋に当てる。空いている手を沙耶の胸にえると、彼女はそこに自分の手を重ねた。


「いちおう。私に告白するんだったら、聞いといてあげるけど?」

「しろってこと?」

「聞き返さな―い」

「俺と付き合ってください? ……いや今のなし。恥ずかしくなってきた」

「命あげるんだから、告白くらいくれたっていいじゃんよう」


 沙耶の主張はもっともだった。

 少し悩んで、深く息を吸う。


「……誓うよ」


 俺は生きるついでにひとを救いだすと、決めた。

 死こそが救いだと、その先にあるものが幸せだとは、俺にはどうしても思えないけれど、殺されることできみが救われるのであれば、この選択も正しい間違いの一つだ。

 罰は受けるだろう。

 過去の罪と違い、虐待を受けた少女のためという、英雄視の余地すらない芸術のための殺人。


「俺は、沙耶を幸せにする」


 遠い未来の話。愛するひとの命を奪う行為が尊いとされる世界になったとき、ようやく俺たちの美しさは理解される。

 千年か、あるいは百万年か。それまでのあいだ、俺はバケモノでいよう。 


「うん」

 

 てのひらに伝わるかすかな震え。

 布一枚のへだたりすらもどかしくて、乱暴に衣服を切り裂いた。

 街灯の下に晒された裸体に目をみはる。

 完璧な線が、そこには存在した。

 夜がそうさせるのか、沙耶の身体を欲望のままに貪りたい衝動を堪えるのに必死だった。

 手垢をつけるわけにはいかない。 

 彼女はもっとも綺麗なまま、もっともむごたらしく死ぬべきだから。


「……いくよ」

「……きて」

 

 そして俺は、まさしくバケモノのような醜い声で慟哭どうこくし、少女の望みを叶える。

 振り下ろしたナイフがその刃元に至るまで白い皮膚に食い込み、沙耶は鈍くうめいた。内臓にまで達する致命傷だが、これで死ねるほど人間はもろくない。

 耳を塞ぐかわりに、彼女の名前を叫んでナイフを突き立てる。呻きが聞こえなくなるまで何度も、何度も、何度も……。

 肉を削ぎ、内臓をえぐり、血液におぼれる。常軌を逸した光景に耐えきれず、吐瀉物がせり上がり、散乱した肉片と混じる。

 身体はこれほど拒否しているというのに、興奮はおさまらず、あのときのように俺は歓喜していた。

 心が命ずるまま、理性をうしなったバケモノと成り果て、沙耶の願いすらも忘れ、肢体をけがし続けた。

 もうとっくに声は聞こえていない。

 クラクションを鳴らした車がわずかに離れた場所で停車した。作品の完成が間にあってよかったと、俺は思った。

 最後に……そうだ、最後に。

 愛したひとの死に顔をみておこうと、彼女の顔にかけたシャツを取りはらう。頬にくっきりと残った涙の跡が、やけに美しかった。

 生きることは選ぶことだ。つまり死を選ぶこともまた、生きること。俺たちは死という芸術を通して永遠に結ばれたのだ。





 んなわけないだろ、馬鹿か。

 サイコパスかよ。

 明日の運勢も知らないような、毛も生え揃ったばかりのガキが、殺されたいとかほざいてんじゃねぇよ。

 本当は誰よりも臆病で、傷つくのが嫌で、他人と向き合うのが怖くて怖くてたまらなくて、はいさよならって逃げようとしてるだけだろ。

 それが美しいだなんて、まったく反吐が出る。

 ほらみろ、その涙。

 めちゃくちゃ生きたがってるじゃねぇか。

 人一倍怖がりだから、ピアノも辞めちまったんだろ。ピアノが退屈なら、世界が退屈なら、自分で面白くしたらいいだけだ。

 自分で面白くできないなら、沙耶は天才でもなんでもない、ただの凡人だよ。

 それにさ、自分の作品こどもを他人に押しつけるなんてどうかしてる。作品こどもは勝手に生まれて来ない。なら、どんな作品こどもも責任もって護ってさ、どんなふうに馬鹿にされても、あんたは生まれてきてよかったんだって、認めてやるのが親の役目じゃねぇの。

 バケモノとか関係ないじゃん。子どもには親の愛情が必要って、施設にいたならわかるだろ。

 だからその……なんていうか、だからさ。


「俺の作品の結末に、短剣こんなものいらないかなって」


 道端にナイフを投げ捨てながらいってやる。


「……えっ、えっ?」


 起き上がった沙耶が、無傷の身体をみて困惑する。そもそも破れてすらいない衣服を不思議そうにまんでいた。

 

「沙耶は大嘘つきだけど、作家は嘘をつくのが仕事だからな」俺はシャツを着なおしながらいう。「格の違いってやつ」

「どういう……」より困惑の色を深めた沙耶だったが、とうとう仕掛けに気づいたらしい。「あーっ!」


 大声で笑った。

 彼女の見事な騙されようにおかしくて、俺も笑う。

 

「俺は物書きだ。筆をれば、誰だって殺せる。きみがバケモノでも不老不死でも関係ない」

 

 人殺しのくらい、屁でもないのだ。

 沙耶は視覚を奪われた状態で、不幸にも俺の心を読んでしまったがゆえに、虚構と現実の区別がつかなくなった。

 実際にひとを殺める感触を憶えている俺は、このイカサマに十分な勝算があると踏んでいた。金槌をナイフに変え、衣服を裂いたのは荻原を襲った記憶を拝借したに過ぎない。

 シャツを顔に被せたことで、想像によって沙耶を殺せる状況を作り出した。人生なにが役に立つかわからないものだな。


「ふふっ、あーあ、久しぶりに泣いちゃったなぁ」


 どうすんの、止まんないじゃん、と困ったように目頭を拭っていた。

 思いがけず前のめりに倒れ込んだ沙耶を、俺は胸で受け止める。子どもみたいに泣きじゃくった後、仕返しとばかりにシャツで鼻を拭いてくる。


「……私、留学しようと思う。ピアノを学ぶために」沙耶の透き通る声が夜に響いた。「ピアノを辞めたときにお母さんの怒った理由が、やっとわかった気がするんだ」

「応援するよ」

「まァ、文彦に馬鹿にされたままだと悔しいし」と沙耶はねた口調でいった。「凡人のくせに」

「凡人なめんな」


 らしくなった、と俺は嬉しくなる。才能に恵まれた人間は凡人を馬鹿にして生きればいい。

 才をうれうくらいなら、思う存分、てらってみせろ。凡人たちは傷を舐めあって、精一杯、ひがんで生きてやるから。

 沙耶は小さく口を動かした。言葉はなかったが、「ありがとう」と動いたようにみえた。

 

「だからもう、絵は描かない。画家の私はきみに殺されてしまったからね。次に描くつもりだった作品はきみに譲ろう」

「それって」

「〈夏の雪解け〉」


 沙耶はゆっくりとてのひらを突き出した。何となく、そこにぴたりと自分の掌を合わせる。


「次に会うとき、文彦は小説家だ」

「もちろん。沙耶はピアニスト」


 今でも俺は小説家で、沙耶はピアニストで、明日も会うと思うし、これは何の意味もない約束だった。

 でもなぜか愛おしさが込み上げてきて、沙耶を抱き寄せていた。艶めかしい声を返してくれたかと思えば、「きみの顔がみえないよ」とたしなめられた。

 そうして俺たちは至近距離で見つめ合い、最高のタイミングで唇を重ねようとしたのだが、沙耶の手で物理的にふさがれる。

 

「キスはだめだよ。浮気したきみに、私のいちばんきれいな時期をあげるもんか」

「こりゃ、まいったな」


 けっこう根に持っているらしかった。


「あとね……ほんっとに不本意だけど! ゆいさんに文彦の面倒みてもらうことにした! ほうっておけないし」


 意地の悪い笑みを浮かべる、いつもの沙耶がいた。


「荻原? どういうことだ?」


 疑問符が頭上に浮かぶなか、沙耶はデニムパンツのポケットから携帯を取り出し、通話画面を見せつけてくる。


『こういうことです』


 画面の向こうで荻原の声がする。


「あーっ、あーっ!」


 沙耶をたばかっていたつもりが、彼女に謀られていた。これが笑わずにいられるか。


『すごい迷惑だけど、沙耶ちゃんの頼みなら引き受けようかなぁ』


 まさか最初から沙耶の意図は――いや、ないない。未来予知ができるわけじゃ、あるまいし。


「引き分けだね」


 沙耶は嬉しそうだった。


「ちょっとまて。さっきの会話は」

『聞いてましたとも』

「ああああぁぁ……」

『俺は、沙耶を幸せにする』

「死にたくなってきた」

『いまさらかよー』


 視界がすこし、にじんでいた。こういう関係が、俺は欲しかったんだ。たった五十文字程度の会話のために紆余曲折を経てしまった。


「ところで文彦くん」と沙耶がいった。「芸術とは何か、きみはわかったかい?」


 芸術とは何か。


「おかげさまで」


 沙耶に出逢うまで、俺は芸術を与えるものだと勘違いしていた。才能や技術、思想……自分の理想を凝縮した世界を他人に見せびらかすものだと思っていた。けれど、違った。芸術の本質は感じることだった。

 作品をいろどるのは作り手の人生。土の匂いだったり、恋心だったり、罪だったり、それらをパレットに落とした絵の具みたいにかき混ぜ、白紙の作品こどもたちに塗りたくる。そしてそれを見て、読んで、聴いたひとは何かしらを感じとり、感情を表す言葉に翻訳する。

 この過程のどこに芸術が宿るのか、俺はずっと分からなかった。でも、この夏が、最後の「感じる」という部分に芸術が宿っているのだと教えてくれた。

 ピアノを弾くことは芸術じゃなくて、ピアノを聴いたことが芸術になる。絵を描くことは芸術じゃなくて、絵を見たことが芸術になる。

 芸術とは、感じるということ。


「ふぅん」と沙耶が笑う。「では、アーティストとは何か、わかったかい?」


 アーティストとは何か。


「わかってるよ」


 俺たちの世界に正解はない。とはいっても人間は、正解のない世界で生きていけるほど強くはないから、心に正解をもっている。

 けない世界と、解ける心。

 アーティストとは、その狭間でもがき苦しむひとたちを指すのだろう。

 たとえアーティストでなくとも、俺たちの人生に模範解答はないのだから、むやみに他人の間違いを正す必要はなくて、正すのは自分のシャツの襟くらいでいい。

 他人を罰する前に、よく鏡をみてみろってことだな。きっと、平和や平等をくには似つかわしくない顔をしているだろうよ。

 悪人も善人も、笑えてこそ平和だ。

 差別する人間も差別される人間も、守ってこそ平等だ。

 心以外、捨ててこそ自由だ。

 正しさも間違いも、ぜんぶ含めて人間であり、人生だ。

 俺はそういうことを伝える小説家になりたい。パンクだね、パンク・ロック・ストーリーテラー。意味がわからん。


「……もう、心配いらないね」沙耶がそっと俺の手を握る。

「あぁ」俺はその手を握りかえす。

「帰ろっか」

「帰ろう」


 短くて深い夏の帰路にいた。

 生きるのが下手な俺たちは、一人でも、二人でも生きられないかもしれないが、三人ならやっていける。


「ねー、唯さん! 文彦がお詫びに回らない寿司おごってくれるって! うちに迎えにいっていい?」

『いいよう。急いで準備しなきゃ』

「なにもいってないから! ていうか、なんの詫び?」

「夜景のみえるバーにも連れていきますだって!」

『やるじゃん、窪田くぼたくん』

「おーい」

「そんでねー、心のなかでは、私たちを酔わせてホテル街に……」

『あははー、やらしー』

「おまえらなぁ……」


 もうじき秋がのぼる。



 俺は、譲り受けた小説について考える。

 どんな小説にするかは決めている。蝉も向日葵ひまわりもいなくなった夏に、ひとりぼっちで取り残されてしまったひとたちが、秋へと踏み出せる本にする。

 毒にも薬にもならないかもしれないけれど、八月三十一日のカレンダーをめくってあげられる物語が、〈夏の雪解け〉でありたいのだ。

 


 俺は、未来について考える。

 夏に輝いた命を秋がつむぎ、冬が命を暖めて、春に芽吹き始める。やがて隣人のいない夏が来る。 

 季節が巡ってくるように、また逢えると信じて待つのだろう。





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