夏の雪解け 4



 わるい夢だと思いたかった。自らをバケモノと名乗った沙耶は、ただ真っ直ぐに、射貫くような視線を向けてくる。

 語調に鋭さはないが、冬を先取ったみたいに冷たい。異変に気づいたのはその直後だ。

 胸が痛い。

 痛くて、痛い。

 意思に反して身体が折れ曲がる。痛みは感情の一部なのだと、俺は思い出す。もはや立っているのがやっとで、肺が潰れてしまいそうになっていた。


「冗談だろ?」


 本当はそんな言葉を出したいわけじゃない。言語とは遠い場所にある感覚的な世界では鮮明な形で訊きたい事柄が存在するのに、いざ言葉として取り出そうとした途端にその形は失われる。

 冗談だよっていわれたら、俺が沙耶を信じられなくなるだけだ。しかし心を読む力を行使し、俺をもてあそび、疑心暗鬼にさせるメリットが彼女にはない。沙耶がひとをおとしめて快楽を得る人間ではないと、即座に断言できるくらいには厚い信頼を置いているが、所詮は俺の「こうあってほしい」といった願望だ。

 このタイミングで「初めまして」と強調したからには、これまでの彼女とは別人であると思ったほうがいい。それが余計に胸を痛くする。


「そこは、文彦の自由。バケモノとは違って、人間にのみ与えられた特権だね」と沙耶は肩をすぼめていった。「きみの物語を作ればいい」


 彼女からは、ある種の諦念が感じられた。常に心が読めるということは、他人の言動を自分に都合よく解釈できない不自由さにも繋がる。俺たちは不便ではあるが、想像に関して自由を約束されている。


「理由くらい、訊かせてくれ」


 初めて会ったときから沙耶は嘘をついていた。だまされたとは思わない。嘘には鎧という側面もあるからだ。

 訊ねるべきは、なぜ今になって真実を明かしたのか。なぜ嘘をつけなくなったのか。


「なんでだろうね。理由なんてさ、言葉でいっても伝わらないよ」


 沙耶は後ろ手に腕を組み、空を見上げる。こうして沙耶が空を仰ぐとき、俺の心は躍っている。

 彼女の見つめた先から希望が降ってくるにせよ、絶望が降ってくるにせよ、何かが起こる期待を膨らませてしまう。

 迂遠うえんな表現はやめよう。

 俺はこんな状況下でも、沙耶の隣にいることに満足している。嘘をつかれて、演じてやったとまでいわれて、それでも幸福だった。張り裂けそうな胸の痛みすら幸福だ。

 立っているのすらやっとなのに、どこからか力がみなぎってくる。


「無駄とはいわず、伝えてくれないか」


 俺が頼んだ後、沙耶は五秒ほど間をおいて視線を戻し、組んだ腕をほどいて考え込む。

 すると不快そうに、とまではいかないが、複雑な心境を表すように顔を歪ませていった。


「……昔から退屈だと思っていたものが二つある。一つは人間との会話で、もう一つはピアノ。バケモノの私は、一方的に人間を楽しませてやることはできるけれど、人間の考えていることや、次にいうであろうセリフがわかっている会話は退屈だった。

 ピアノも同じ。『ド』の白鍵を叩けば、毎回、調律された音がでる。壊れていようがなかろうが、何度叩いても、『ド』が『ソ』に変わったりしない。退屈な楽器。でも他にすることもなかったから、退屈な楽器おもちゃで自由を探してみた。

 そうして生きているうちに天才といわれるようになって、その頃には、感情と記憶に深い関わりがあることもわかっていたし、人間を喜ばせたり、悲しませたりするついでに記憶を覗きみることは、まァそこそこ楽しかった」


 沙耶は浅く息を吐いて言葉を区切った。淡々と文章を読み上げるような無感情な声が普段の彼女とかけ離れていたので、俺はそのことに気を取られる。十中八九、それを見抜かれたのであろう。

 大きなため息をひとつ追加した沙耶が次に言葉を発したときには、いつもの沙耶らしい喋りかたに戻っていた。


「きみが思ったように、嘘は自分を守るための鎧だったんだ。私は、私がバケモノであるという事実をピアノに押しつけていた。ピアノが異能をもたらしたと誤解されておけば、例外なく受け入れてもらえたの。人間の世界で生きていくためには人間のふりをしないといけないことは、失敗を重ねる上で学んでいたからね」

「失敗というと?」

「当てすぎると嫌われちゃう。ただでさえ、きみたちの思考はやかましいのに、言葉だけを聞き分けて会話をこなすのは至難のわざなんだよ。聴こえてくるものが思考なのか、言葉なのか、近くにいる他のひとのものなのか、子どもの私は失敗を繰り返すことで身体に馴染ませた。それで、ある程度は好かれるようになったけど、どこまでいっても私は独りぼっち」


 俺は首を傾げる。同世代の友人も多い沙耶が、自分を独りぼっちと表現するのは奇妙だった。


「いまいちピンと来ないな」

「まァ色々あったんだよ」

「色々あって」と俺は頷きながら沙耶と目を合わせる。「俺に、逢いにきた」

 

 喋りかたを戻したといえども、感情の一切を瞳の奥に隠している沙耶と向き合うには相応の覚悟を要求された。いっそのこと荻原のように憎悪や怒りに身を任せ、ぶつけてくれたほうがましだ。

 しかし、人間とバケモノ。

 互いを明確に区別する言葉を扱うからには、沙耶が人間らしい感情のやり取りを避けることへの察しはつく。

 発言に対してか思考に対してか、彼女は大きくうなずいた。


「うん。殺人事件のニュースとお父さんを通じて文彦に興味を持ち、逢いにいって、嘘をついて、その後でフェルメールを知り、絵描きを目指した」


 飛ばし飛ばしで語られても、沙耶にどのような過去があり、その時々で彼女が何を感じたのか、という部分を把握しづらい。

 わざと演じるメリットもないので、単に自分語りが下手くそと捉えるべきだな。俺の心をかき乱す少女の、新たな一面を素直に喜べたならどれだけよかったことか。

 相手がこちらの思考を読み取ることができる以上、彼女の言動を額面通りに受け取るのは危険……。

 あぁ……。

 心のなかで俺は嘆く。

 すでに俺は、沙耶を疑ってしまっていた。愛しているはずの少女を疑っている。もはや痛みを伴わない形で、この疑念を拭い去ることは不可能に近かった。

 俺の嘆きが「聴こえる」沙耶は、眉のひとつも動かさない。動揺を見せず、興味も示さない。

 天井の染みを眺めるときのような無色の表情で、俺を見つめ返す。


「私がフェルメールの絵に衝撃を受けたのは、描かれているひとの心が読めなかったから。べつにフェルメールじゃなくても良かったの。初めて作品として意識をもってみたのがフェルメールの絵で、私はそのとき、芸術のとりこになった。というより、絵画の世界に他人を見出だせた。

 心が読める私と、真の意味で他人になれる人間がこの世にいなかったからね。友人も恋人も、他人同士でなるものでしょう」


 自然と首が縦に動く。

 本来、俺の喜びは他人にはわからないし、他人の悲しみは俺にはわからないものだ。

 沙耶は他人をわからないものと定義している。それがわかってしまう彼女には、他人に分類される人間がいない。

 もしいるとしたら、それは――。


「死んだ人間だけ……」


 心は命の附属品であり、人間を人間たらしめるものであるから、心を失くすことは命を失くすことに等しい。沙耶が心を読めなくなるのは死者だけで、それは彼女にとって唯一の他人と呼べる存在となる。


「寂しいでしょ」と沙耶はこのとき、はかなげな笑顔を見せた。


 施設でピアノを弾いていたときの、憂鬱そうな雰囲気と重なる。ピアノを辞めてからも、彼女の時間は止まっているみたいだった。

 俺と荻原が変わってしまった人ならば、おそらく沙耶は変われなかった人。俺のなかで何かがはまる感覚があった。


「そのための芸術というわけか」


 彼女が苦悩を求め、芸術に拘るのは、そうするしか孤独を埋める方法がなかったから。

 ひとを救い、ひとを殺す芸術を愛するのは、彼女が死体の前でしか会話を許されない人間だから……。

 風変わりな少女だと勘違いしていた自分が恥ずかしくなった。荻原にしても俺が勝手に変わり者のレッテルを貼り付けていただけで、ごく普通の、不幸な女の子だったのに。

 沙耶はまた大きく肯いた。打って変わって柔らかい表情をつくると、どぶ川を指差した。


「好きなんだ、この濁った色。人間の営みの、果ての色」


 彼女の夕に染まる横顔は綺麗だった。見惚れていると不意に振り返った沙耶に睨まれ、気まずくなって目を逸らす。


「文彦にも、濁りきった色が染みついてる。みんなより空っぽで、みんなと違う方向をみてると勘違いしているだけの、普通に、ふつうの男の子だ」


 普通に笑って。

 普通に怒って。

 普通に泣いて。

 普通に楽しんで。

 普通にむなしくて。

 普通に悩んで。

 普通に冷たくて。

 普通に優しくて。

 普通に臆病で。

 普通に勇敢で。

 普通に鈍感なようで、普通に鋭くてさ。

 普通に傷ついて、普通に傷つける。

 誰にも理解されないと誰しもが思っているのに、誰かを理解できたことは一度もない。

 普通な自分を、特別と思っているだけ。普通な他人を、特別と思っているだけ。だってきみたちは、隣人の心など絶対に知り得ないものね。


「人間は等しく、そして正しく、間違っている」

 

 穏やかで芯のある強い口調だった。


「俺たちは間違ったまま、濁った水に沈んでいけばいいと」

「沈んでいけたら素敵だね」と沙耶は自分の両手を開き、ため息を落とす。「私の手は、私の望みに反抗して、ひとを救ってしまうんだ」

「沙耶……」

「バケモノなのにね」


 沙耶の吐息の行方を追うように下を向いた。何も返せなかった俺の頭上に、「すこし歩こう」と言葉が落ちてくる。

 暗い路地を抜け、大通りに架かる歩道橋を渡り、コンクリートの側壁に覆われた坂道を上がる。交互に靴音を響かせ、アパートから半径二キロにも満たない世界を巡る。

 そうしてまた暗い路地に入る直前、沙耶は足を止めた。今度は彼女より一歩だけ進んでしまった。

 いつもと逆の位置で対峙するのは、俺たちらしくない、なんてことを思う。


「きみは……私が本当は好きだったかもしれないって考えたことないの? きみのことがたまらなく好きで、それを隠しているだけの普通の女の子でさ。

 ふたりが幸せになるべきなんて……これっぽっちも受け入れられないのにいっちゃって。文彦の気持ちを試したのだとしたら、きみはっ……とてもとても残酷なことをしたんだよ?」


 いつもと違う位置の、いつもより上擦うわずった声が、痛みの止まない胸に突き刺さる。

 冗談だよって、強がってくれる雰囲気ではなさそうで。

 これも罰なのだろうか。

 いいや。

 だとしても、俺は昨日、正しく間違ったのだ。

 乾いた喉に力がこもる。


「俺が愛してるのは」

「いわなくていい。きみは私を愛してると思い込んでるの。でも文彦の心の深いところにいるのは荻原唯だ。私は心が読めるから。きみ自身よりもきみのことをよく知っている」


 なんだよ、それ。

 ひとのことを何でも知った気になりやがって。そういった怒りがき起こるものの、哀しみを抑え込んだ目をみていると、怒りは行き場を失ってしぼんでゆく。

 どうしようもない感情が体内を占めていくなか、どういうわけか沙耶が微笑んで、デニムパンツのポケットに手を突っ込んだ。


昨夜ゆうべ……さ。ゆいさんと会った」と沙耶は話題を変えた。「彼女が文彦の部屋を訪ねる前に」

「えっ、と……それ、今いうことか?」

「唯さんは今日、本気で死ぬつもりだった」


 どくんと心臓が跳ねた。


「おい、じゃあ、はやく――」「文彦!」


 沙耶は、飛び出しそうになった俺の肩を掴んで制止する。


「唯さんの心はぐちゃぐちゃに壊れてる。もう誰にも彼女の破滅を止められない。そう思ってた。……昨夜まではね」

「昨夜までは」

「でもさー。今朝みたらやけにスッキリした顔しちゃってさー。昔好きだった男と、たかだか一回、セックスしたくらいで心変わりなんてさー。馬鹿らしくてむかついてくるよね」

「ほんとうか?」

「嘘ついてどうするの」と沙耶はいった。「唯さんは大丈夫だよ。きみが傍にいれば、彼女は生きていける。それだけ、文彦に伝えときたくて」

「……ありがとう」

「きみが頑張ったんだよ」

 

 子どもにするみたいにくしゃくしゃと頭を撫でられる。年下の女の子にそれをされるのは恥ずかしく、俺はすぐに振り払った。


「やめてくれ」

「せっかく私が褒めてやってるというのに」

「あのなぁ……」

「んー、大人のきみはこっちのほうがいいのか」といって沙耶は俺の身体を抱きしめた。


 沙耶の体温と香りが感覚器を狂わせる。硬直した身体に指をわせ、耳元でささやく。

 

「文彦のことは、好き」透明な声でそういった。「……でもね、きみを抱きしめても私の心は動かない。だってきみが、どんな反応するのかを知っているから」


 心が読める、心を持った生き物の代償といっても過言ではない。

 誰といてもたった独り。

 彼女に近づこうとすればするほど、互いの感情はすれ違う。


「俺は……」


 何も知らなかった。沙耶のことを、何一つ。


「私たちの距離がどれだけ離れているのか、文彦にはわからないよね。美しいはずの体温も届かないくらい、私たち、すごく遠いよ。それでもきみは、私を好きでいられるの?」

「……いられると思う。沙耶が、嫌じゃなければ」

「嘘つき」

「きみにいわれたらおしまいだ」


 ふふっ、と笑い声が聞こえたが、沙耶の目は笑っていない。


「人間とバケモノはたもとを分かつべきなの。私は、きみを傷つけたくない」

「傷つけたくないなら、最後まで嘘つきでいたらよかったはずだ」

「……そうだね、でも、手遅れ」と沙耶は肩を震わせていった。


「私は、どうしようもないくらい嫉妬してしまったんだ。きみたちの、心が読めない、馬鹿らしい関係に。

 生まれてはじめて人間になりたいと思ってしまった。バケモノのくせに人間みたく願ったんだ。人間になった私が、きみと結ばれる退屈な未来とやらを……で、一晩、考えた」


 背筋が凍りつくほどの、嫌な予感がした。


「バケモノと人間が結ばれる方法はたった二つしかなかった」白い指を折って数えながらいう。「バケモノが人間になるか、か」


 沙耶はポケットからナイフを取り出し、切っ先をこちらに向ける。街灯に照らされた刃が妖しくきらめく。

 昨夜、荻原に会ったといっていた。

 もしかすると、そのときに預かったものである可能性が高い。


「アンデルセンの『人魚姫』は、人間になる代償として声を失い、王子様に愛されることなく泡になった。

 地上には、私を人間にしてくれる魔女はいなかったけど、王子様はバケモノの私を愛してくれた。でも私の幸せは、人間になってはじめて得られるから。私は人間になる代償として、命を失うの」

「俺にも分かるようにいってくれないか」

「その短剣ナイフで私を殺してほしい」沙耶は刀身を撫でるとこちらにナイフを放り投げた。「服を裂き、内臓を引きずり出して、美しくはずかしめて」

 

 放物線を描いて飛んでくるナイフを指で弾いてしまい、危うく取り落としそうになりながらも辛うじてキャッチする。


「死んで、心が読めなくなったら、私はやっと人間になれる。私を殺した後で文彦が寂しくならないように、きみの部屋には作品こどもたちをのこしてある。あの子たちはまだ、バケモノがずるして手に入れた芸術だけど、私が人間になったら、あの子たちは人間の作品に生まれ変わる」


 人間になりたい。

 なるほど、沙耶はとんだ大噓つきだ。

 少女の狙いはきっと反対のところにある。俺がナイフで彼女の命を絶てば、今度こそ確実に殺人犯として世間の注目を集める。

 きっと沙耶を殺した理由は誰にも理解されない。そう、誰にも理解されない存在――すなわちバケモノになるのだ。

 俺を、自分と同じ存在にしようとしている。


「無意味だろ」


 馬鹿げた提案だということは、本人も承知なはずだった。死ぬことで沙耶が人間になり、殺すことで俺がバケモノになるのなら、また二人はすれ違うじゃないか。

 だが沙耶の瞳は、とても澄んだ色をしていた。


「心を動かすものを芸術と呼ぶのなら、死は偉大な芸術家だ」


 迷いとは無縁そうな屈託のない笑みが、いまは憎たらしい。


「できれば、きみにはこう考えてほしい。私は死ぬのではなく、きみの作品になるんだ。他の誰にも奪えない、きみだけの芸術になるって」


 でも、そうなのだ。仲野沙耶という少女は、バケモノであるとか、人間であるとか以前にアーティスト。

 アーティストはそれが間違っていようと、間違いでなかろうと、降って湧いた発想の正誤を確かめずにはいられない。

 間違いが間違いであることを、正しさが正しくあることを、芸術に選ばれた人間は愚直に突き進んで証明する。

 食物連鎖の頂点に君臨し、もっとも生きやすい現代の、よりにもよって日本に生まれたにも関わらず。

 なぜ俺たちは――、


「だからっ、私の、息の根を止めてくれるよね?」


 生きるという、簡単なことでつまずくのだろう。



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