夏の雪解け 3


 俺たちの寿命は残り三十ページをきった。

 このとき俺が沙耶を追いかけなかったら、この小説が世に出ることはなかっただろう。

 という、文章を物語に挿入したいがために沙耶を連れ戻す。ドラマティックな展開になると期待されるだろうが、実際、沙耶はアパートを出たところの通りをごく普通のペースで歩いていて、俺も彼女に歩調を合わせ、足跡を辿るように数メートル離れて歩くのみだった。

 思えばずっと、俺の前には女性がいる。それも、情けない男を涼しい顔で牽引してくれる強い女の子だ。過去の自分とは異なるはずの俺が、過去と同じ状況下に置かれている。 

 駅を中心に所狭しと群生的に建ち並ぶ高層ビルに、木々よりも人工物がひしめく歩道。迷路のような商店街。異臭を放つどぶ川と錆びかけた柵のある駐車場。交差点付近で行列をつくる老舗しにせのラーメン店。

 どれもが夏の到来以前と変わりなくて、どれもが少しずつ変わっている。去年の夏と今年の夏が別物であるように、沙耶の背後を歩く俺は、七年前の「窪田文彦」ではなくなった。

 あのときは荻原に話しかける勇気がなかった。勇気さえあれば、何かを変えられると思っていた。二十五になった俺は、この数メートルを縮めるものが話しかける勇気ではないことくらい理解できる。

 芸術家が、芸術に関わっている時間と同じくらい芸術に関わりのない時間を愛するように、俺たちは、会話の弾んでいる時間と同じくらい会話の弾まない時間を愛するべきなのだ。

 コミュニケーションの手段を言葉に依存しすぎる十代には、たぶん難しい。たとえば今の、付かず離れずを保つ距離や、重なりあう靴音が大きな意味を持っていて、それだけで意思の疎通が成立したりする――経験によってのみつちかわれる「会話なき会話」は、やはり、生きていくなかで学ぶしかない。

 これ以上近づかないで。話しかけないで。ひとりで考えさせて。でもどこにも行かないで。私に付いてきて。俺はそれらに了解する。

 沙耶が何かを考えてくれるから、俺はその分だけ頭を空っぽにし、周りの風景に容量を割いた。

 雨上がりの湿り気をはらんだ暑さと疲労に身体がやられだしてからは、可能な限りなにも考えずに沙耶のあとを付いてまわったので、横断歩道の信号にはばまれたり、踏切の遮断桿に阻まれたりもしたが、彼女はその都度、めんどくさそうに肩を落として止まってくれた。

 気苦労をかけさせてしまうたび、はっとなって、安堵する。

 そしてため息を吐きだすみたいなトーンで感情を警報機の音に乗せ、二分程度の空隙くうげきを楽しむ。

 好きだなぁ、ほんとに。

 沙耶が近くにいると町がんでみえる。

 恋は盲目とはいうけれど、俺の場合、もともと光を失っていたがゆえに、逆に視野がひらけている。

 一時間半を超えたあたりでさすがの沙耶も疲れてきたのか、いつもの公園に立ち寄った。ストリートピアノは今日中に撤去されるらしく、夏がまた一つ去っていくようだった。

 広場には噴水前で奇妙なダンスを披露する男と、それを撮りながら嘲笑する数人の女学生がいたり。ばらかれた砂を餌と勘違いして群がるハトと、無邪気で残酷な遊びをする子どもがいたり。高架下では楽しそうに語らうホームレスと、その横でスケートボードを乗りまわす若者がいたり。

 ひとりで町を歩いたときとは違い、正しく明暗のある景色が目に入った。暗いものにも明るいものにも偏らず、町全体の光と影がくっきりと浮かぶ。こんなにも綺麗な町に住んでいたのかと、感慨深い気持ちがせり上がった。

 俺たちはあてもなく町を巡り、いろんなベンチで休憩をとった。沙耶が足を止めれば俺も止め、沙耶が歩きだせば俺も歩きだす。

 感傷的にさせる雨すら降っておらず、結末を分かつ場面には程遠い喧噪けんそうに包まれた町を闊歩する。

 ろくでなしの俺たちらしいな。

 西の空が赤らみ夜が迫ってくると、町を歩くひとはまばらになっていき、踏みしめた砂利の音がよく響いた。

 休憩を挟んではいるものの、足の裏がひりひりと痛んだ。何でもないようなみちがひどく歩きにくいし、気を抜くと転倒しそうになる。アパートを飛び出してから三時間以上は経過していた。

 いつまでも会話はなく、二人の距離を縮められなかったが、無言の背中をみているのは心地よかった。

 二人の距離をたす沈黙は特別なようで、壊したくなくて、永遠に続けばいいと思った。

 ところが吐き気を催す溝川に戻ってくると、不意に沙耶が立ち止まる。アスファルトを蹴り上げた足は勢いをつけて進み、ついに沙耶と並んでしまう。

 こんなところで。

 ますます俺たちらしいな、と思う。


「……私は、噓つき」


 第一声がそれだった。彼女なりに考えを巡らせた結果なのだろうけど、脈絡のなさに俺はほころんだ。

 

「知ってる。今更だろ」

 

 俺がいうと、沙耶はゆっくりと息を吸った。

 そのときだいだいの夕日が、輝きを増したような気がした。


「ずっとね、嘘ついてたんだ。ピアノを聴いたひとの心が読めるって、おかしいと思わなかった?」


 本音をいえば、半信半疑だったさ。ピアノを弾いたときに他人の心が読めるなんていう、超能力を持った人間が果たしているのかと。

 隣人としての生活が始まってからの俺は、沙耶が本当に心を読んでいると、間違いなく信じきった。

 嘘、なのか。

 まさか当てずっぽうだったとでもいうのか?


「逆だよ、逆。の」


 ぞくりと背すじがあわ立った。


「私はうまれたときからバケモノなの。ひとの感情がえて、思考が聴こえる。感情を揺さぶれば記憶だって覗いてしまえる。ピアノは記憶にアクセスする――つまり、人間の過去を知るための道具だった」


 開いた口がふさがらなかった。

 だって、そうだとしたら。

 これまでの彼女の言動は、俺の心を読んだ上で行われていたことになる。

 一旦冷静になって考えてみると、その通りだ。ピアノを弾いているとき「だけ」心が読めるのは都合良すぎやしないか。「だけ」ピアノに集中して読めないほうが納得できる。


「そう。文彦が隣に越してきたのは偶然だけど、それ以外で、きみが偶然だと思い込んでいるものは、私が意図的に仕組んだものだよ」


 走馬灯そうまとうのように思い出があふれた。

 頬に絵の具を塗られたこと。合鍵を渡したこと。カフェで笑われたこと。小説の表紙を描いてもらったこと。天体不在の夜空を観たこと。美術館デートに誘われたこと。アトリエに招かれたこと。キスされたこと。沙耶がいなくなったこと。二人で母校を訪れたこと。荻原と通話中の携帯を奪われたこと……。

 物語に与えられた意味が一瞬にしてくつがえされた。世界がひっくり返ったようだった。

 沙耶は何もかも知っていたのだ。俺の恋心も、荻原の電話番号も、彼女が俺を恨んでいることも。

 

「私は気まぐれな猫じゃない」


 それは沙耶の、俺に対する答えだった。

 記憶のケースで光る彼女の笑顔が、音を立てて崩壊していった。あの笑顔すら嘘であるのか。 


「きみの恋愛感情だってね、マボロシなんだよ。きみがいちばんに求めている理想の女性を、私が演じてやっただけ。きみとの時間を過ごした『青い猫』はこの世のどこにも存在しない架空のキャラクター」


 昔の荻原唯と同じだね。追いかける対象が私に移っただけだね。きみは変われなかったんだね。

 そう告げられているような、冷たい声。以前に何度か、沙耶には冷たい闇を感じる場面があった。信じたくはないが、その瞬間が、嘘の仮面の裏に隠された彼女の素顔である可能性を捨てきれない。

 どうなんだ。読めるのなら教えてくれ。心のなかで懇願してみても、沙耶は否定も肯定もしてくれなかった。

 思い出が溝川の水みたいに濁ってゆく俺の絶望をよそに、嘘つきの少女はうやうやしく頭を下げた。


「というわけで、初めまして窪田くぼた文彦ふみひこくん。私の名前は仲野なかの沙耶さや。人間もどきのバケモノさ」



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