荻原唯 4

 

 予感とやらが的中することはまるでなく、荻原はその日の夜にアパートに来てしまった。

 雨に濡れた衣服は着替えたようで、こんのチャイナブラウスに蜘蛛くもの巣みたいな柄のスカートを履いていた。

 部屋にあがりこんだ彼女はデスクチェアに陣取り、「読ませて」と催促する。想定外の事態に加え、一日の出来事が大きすぎたのも相まって、それが俺の小説だと理解するのに時間を要した。


「えーっと、荻原は普段どんな本を読むんだ? できれば近いものを選びたい」

「窪田くんの小説を読ませて」

「そういわれてもね……」


 名刺代わりの小説があればとっくに勧めている。まして完結済みの作品は沙耶と再会する前の俺が書いたものだ。傷だらけの心のよすがとなりうる傑作は、俺の手元にはなかった。

 適当にデスクの抽斗ひきだしから〈チッペンデールと青い猫〉を選んで渡してやる。表紙の下書きをみせ、「沙耶が描いたやつ」と説明する。荻原は「かわいい」といって猫をなぞった。本心を隠して俺に会いにきた昼間の彼女に戻ったみたいだった。

 自然すぎて、逆に不自然だ。無理しているのか、考えがあるのか。いずれにせよ気にめず、不自然さに合わせておくべきだろう。

 俺は二人分のコーヒーをれ、デスクとテーブルに置いた。一口すすった荻原があからさまに眉根を寄せ、遠くにカップを追いやると〈チッペンデールと青い猫〉の原稿を読み始める。

 その間、読みさしの本のしおりをいじり読書するふりをして過ごした。紙のれる音のテンポが乱れるたび、コーヒーを口に含んで気をまぎらわす。

 最後の一枚をデスクの上に移動させた荻原はくたびれたように肩をまわして立ち、ベッドに身を投げた。


「あれさぁ。ぜんぜん売れなさそう」

「沙耶にもいわれた」

「わたしは、そこの、きらきらした本を買う」


 荻原が指を差したのは、テーブルに置きっぱなしの小説だった。彼女のいうように表紙がきらきらしている。


辛辣しんらつだな」

「正直といいなさい」

「ショウジキ」

「暇つぶしくらいにはなるから、たまに読んであげるね」

「ショウジキ」

「馬鹿にしてない?」

「してないよ」

 

 内容もタイトルも、つい買ってしまう本に見劣りするのはわかっている。うんざりするほど平凡な感性の人間に、劇的な物語はつづれない。

 それがどうした?

 ペンギンが空を飛べないことでいちいち悩んだりしないように、俺も小説の人気で悩んだりしない。

 なかには光が苦手なひともいるだろう。俺の言葉は光に嫌われた人々に届いてくれると、最近、信じられるようになった。

 青い猫の影響を色濃く受けたものだ。


「……教えてくれ」俺は彼女の反応を探りつつ訊いた。「なぜ、訪ねてきたんだ。俺のところに来ても不快な思いをするだけじゃないか。まさか憎しみが消えたとはいわないよな」

「簡単には消えないよ。ちゃんと憎んでる」

「ならよかった」

 

 憎まれるのは良くないけれど。心に余裕がある。

 ちゃんと憎んでるってなんだ、とか。返しながら考え、楽しめる。身体がいつもの調子を思いだし、軽くなった気さえする。


「となり。座りなよ」


 わずかに低い声で荻原はいった。俺に拒否権はない。おとなしく指示に従い、ベッドのへりに移動する。

 最初は硬い表情をしていた彼女だが、おもむろに手を伸ばし、俺の手の甲に重ねた。ほんのり冷たい。


「部屋にいるのは七年前のわたし。そういうことにしてくれないかな」

「構わないが……」

 

 いぶかしんでいると、荻原は曖昧あいまいに笑って視線を逸らす。しおらしい仕草にどきりとした。


「あの頃のわたしは、窪田くんのことが好きだった」

「……恋愛的な意味で?」

「恋愛的な意味で」

「なるほど」


 そのような話を持ち出したからといって二人の関係を修復できはしないが、気まずさを解消するきっかけとなった。


「きみはどうなのさ。わたしの背中ばっかりみてたじゃん。興奮してたんでしょ、変態」

「興奮するわけないだろ。だいたい荻原の背中をみていたのは……」といいかけたところで言葉を詰まらせる。


 当時、俺は荻原の背中に崇拝すうはいの念を抱いていた。しかも彼女をあがめるあまり日常的にストーカー行為に及ぶという、女性の背中で興奮する性癖のほうがよっぽどましに思えるくらい、どろどろに青春をこじらせている。


「そうしないと、歩けなかったから」

「ひとを松葉杖みたいにあつかうな」

「悪かったよ」


 刺々しい言葉遣いとは裏腹に荻原の態度は徐々に軟化していった。それから俺たちはひたすらに喋った。内容はなんでもよかった。月並みな表現をするなら、鉄は熱いうちに打てということを、二人とも感じ取っていたのだと思う。

 だがそれは鋼鉄をマッチ棒で溶かそうとする愚行に等しい。馬鹿としかいいようがない。

 いかに会話が楽しかろうと、荻原の憎しみは消えないだろう。「七年前のわたし」を自称する彼女自身が一番わかっていること。

 それでも。

 時間の無駄だとわかりきってなお、俺たちは喋り続けた。見苦しく奇跡を待つことが今できる最大限の抵抗だった。

 はっきりいおう。

 鋼鉄をマッチ棒で溶かすことは可能だ。マッチの火で直接どうにかしようと考えるから失敗するのであって、あらかじめ鋼鉄を溶かしる環境を整え、あとは点火するだけにしてしまえばいい。もっというと、マッチの火がいた瞬間の温度は二五〇〇度にも達し、鋼鉄の融点を凌駕する。

 無力な言葉もタイミングによってはそれくらいの力を持てる。そんな一縷いちるにも満たない希望を俺たちは捨てられなかった。

 状況が大きく変わったのは、少年院を出てからの苦労話を聞き終えたあたり。荻原が部屋の時計を確認した後、わざとらしくため息を吐いて俺を見つめた。


「ね、泊まっていい?」


 彼女の勇気に俺はひとり、泣きそうになってしまった。


「あー……うちでよければ」

「沙耶ちゃんのこと考えたでしょう」    

「すこしね。でも付き合ってるわけじゃないから」

「……そっか。わたし、先にシャワー借りたいな」荻原はすぐさま自分の衣服に視線を落とす。「着替えもってる?」

「沙耶のを貸すよ」と寝巻きを渡した直後に気がつく。「あっ!」

「半袖かー」


 口元をおさえて荻原は笑った。つられて俺も笑う。

 それから交互にシャワーを浴び、自然と二人でベッドに入った。狭いスペースを言い訳にして湿った息がかかるくらいに距離を縮める。


「窪田くん」と彼女が甘えた声でいう。「前にさ。わたしの半袖みてきみがなんていったか憶えてる?」

「半袖にしたんだな」と俺は即答した。

「馬鹿だよね」

「忘れていてほしかった」

「いまなら。ちゃんといえる?」

「俺に女性を喜ばせるセリフは荷が重い」

「口下手な窪田くんは、そのあと、わたしの義父ちちおやを殺した。小説家のきみが書き直すとしたらどんなストーリーにしたい?」


 ストーリーを書き直すとしたら。そんな質問をされるとは夢にも思わなかった。過去の改稿。幾度となく繰り返した妄想のうちの、ひとつを語る。


「荻原を誘拐ゆうかいする」

「わー。結局犯罪だ」

「誘拐して。学校を辞めて。何もかも捨てて二人で暮らそうっていうんだ。でも高校生の駆け落ちなんか上手くいかない。すぐに貯金が底をついて。歩くしかなくなって。二人で死のうとするけど、それすら上手くいかなくて警察に補導される。ぼろぼろになっても荻原は強がってくれて。俺を責めることなく自殺してしまう。きみを救えなかった俺は自分の弱さを呪って生きていく。大人だったらとか、金持ちだったらとか、超人だったらとか、過去に戻れたらとか。後悔とたらればにしがみついてみじめにね」


 俺の人生に青い猫が登場しない分岐があるのならば、荻原を誘拐して高校を退学した場合だろうか。

 芸術家はどうしようもなく惹かれあう。らしいので、小説を書いた時点で俺の運命は定まるのか?


「過去に戻しちゃえばいいのに。物語ならできるじゃんか。不思議な光に包まれてーって」

「幸せを書くのが苦手で……俺は自由な世界をわざわざ不自由にしてしまう」

「つらいだけは嫌いだな」


 はっとして荻原を見つめなおす。

 確かにこれは二カ月前の俺が書きそうな物語だ。


「なら続きは……こうしよう。死ぬに死ねず生きながらえた俺は、かつての自分たちと同じく逃避行する少年少女に出くわすんだ。そして彼らを自分の過去と重ね、無償で居場所を提供する。二人が幸せそうに礼をいうのをみて、俺は気づく。過去に戻るより先になすべきことがあると。今この瞬間にも助けを求めるひとがいて、未来にも救わなきゃいけないひとがいる。俺がヒーローにならなきゃいけないってね」


 たった一つの大切なことを知るために、多くのものを失う話。いまはこれくらい書いてやれる。

 ハッピーエンドとまではいかないが、俺は明るい話だと思っている。なにせヒーローが生まれるのだ。


「復讐しないんだ」荻原は唇で笑みをつくった。「書きなよ。わたしは読んでみたい。……七年後のわたしも、そのっ……。変われるかもだし。ほんのちょっぴり」


 しどろもどろになる荻原がおかしくて頬が緩んだ。


「書いてみようと思う。過去のむくいとはいえ、きみに嫌われたままでいるのは堪える。欲をいったら、また好きになってもらいたい。今度は正しい手順を踏んで」

「窪田くんはわかってないな。ひとを好きになるのに正しい手順はないんだよ」

「うーん……難しいなぁ、言葉ってやつは」


 文章のほうがより正確に、より詳細に、より饒舌じょうぜつに物事を伝えられるのに、大事なことほど非効率な口頭に頼ってしまう。口下手なくせに。自分の声を信じやすいとは滑稽こっけいだ。

 俺はあきらめ、荻原の頭を抱きすくめた。嗅ぎなれたシャンプーのにおいがふわりと拡がった。

 もっと。

 かすかな吐息に混ざって聞こえる。ありったけの感情を込めて、俺は要望にこたえた。


「親を殺したひとを好きになるってどうかしてるよね」と自嘲気味に荻原がいった。「あいつは最低な男だったけど」

「どうかしてるな。でも、人間はみんなどうかしてる」


 俺はその日初めて話した女の子の義父を殺していて、荻原は身内を殺した人間を好きになり、沙耶はいわずもがな。

 谷崎先生も、智香さんも、スモークさんも、すれ違ったひともどこかが壊れている。

 唐突に荻原が寝返りを打ち、俺に背を向けた。「これは独り言」と彼女は宣言した。 

 

「きみに何されても、わたしは寝たふりをする」

「何されても?」

「うん」

 

 雲を掴むような話だが、意図がわからないほどに鈍感な人間ではない。その上で期待を裏切るだけだ。


「遠慮は、しないぞ」


 俺はためらわず、荻原の小指に自分の小指を絡める。

 

「これだけ?」と呆れた口調で荻原はいった。「くすぐったいし」

「七年前の俺は、荻原に話しかけられないくらい臆病だった。これが精一杯だろうね」

「大人になった窪田くんはどうするの」

「……傷つけてしまう」

「いい。きみに傷つけられたい」彼女は涙ぐんで鼻を啜った。「わたしは汚れてるのかなぁ」

「そんなことない!」と俺は声をあららげて否定する。「……けど、卑怯ひきょうじゃないか」


 それを荻原にいわれてしまったら、俺はたちまち逃げられなくなる。


「女はずるいの」といって彼女はすこし考える。「ううん。欲しいものができたら、ずるくなる」

「まぁ。荻原の気持ちはわかるよ」

「わかられてたまるか」

「いうと思った」


 つよく抱きしめ、荻原のうなじを鼻先で吸いこんだ。俺をたかぶらせるためか、彼女は甘ったるい声で返した。

 ぎこちない動作で寝巻きをまくり、下着に手をかけると荻原に止められた。「ちょっとまって」と微笑んでベッドを降りた。


「わたしが脱ぐ」


 なんとなく、そうしたほうがいい気がして、俺は顔をらしていた。それでも下着の肌を滑る音だったり、裸足はだしのぱたぱたとした音だったりが耳を熱くさせた。しばらくするとベッドがきしみ、名前を呼ばれる。


「どお。ひどい身体でしょう」

「綺麗だよ、すごく」

「ふーん。じゃあ、具体的にいって」

「……まずは太腿ふともも。ほそ長い傷がちぎれたウズムシみたいになってる。綺麗だ」れ物にさわるようにそっと手をかぶせる。「背中の火傷痕はかれたカエルみたいで」

「もういい。殺されたいの?」

「絞殺で頼む。死ぬまで荻原の体温を感じていられるからな」


 いいながら荻原の両手首を掴み、自分の頸部にあてがった。すると彼女は不満そうな顔で俺に寄りかかる。


「お願い。ゆいって呼んで」

「……唯。俺にも願わせて」俺は彼女の髪の毛に顔をうずめる。「七年後のきみにと伝えてほしい」

「なんで?」

「唯が不幸にならないように」

「んー、考えとく」


 七年前。荻原の隠したかったものを、俺は力づくで剥ぎとり、網膜もうまくに焼きつけた。

 義父を殺した理由は特になかったと俺はいったが、ひょっとすると、「荻原の身体が美しかった」というのが動機かもな。

 裸体をみて、あらためて思った。

 沙耶はいっていた。美しさのためならなんだってすると。殺人すらいとわないと。俺も、そのほうがしっくりくる。

 臆病な人間に愛や正義感で罪を犯す度胸はなかろう。俺の理性は嫉妬しっとと独占欲に狂わされた。


 あの男が、荻原の美しい身体を知っているという事実を許せなかった。 


 芸術に選ばれた血の純粋な悪意。虐待された彼女が美しいあまり俺に殺されるとは、ついてない男だ。

 一方で、後悔し涙を流した俺もいる。二律背反。心は非対称で矛盾するものだから、感じたことすべてが偽物ほんものである。

 今日を境に、俺は罪を忘れよう。たとえ潔白な人々にとがめられようとも、命は俺に生きろと拍動する。

 それ以外に生きる理由が必要だろうか。俺はひとりの小説家として生き続け、書き続け、言葉でひとを救いだす。

 罪滅ぼしではなく、生きる、ついでに。


「……ね、キスしてよ」

「これでいいか」

「……うん」


 俺たちは激しく求めあった。思い出を上書きするとも、なぐさめるとも違う。

 いうなれば、墓参り。

 セックスはまわしい過去を断ち切るための、不合理な儀式だ。

 

「愛してたよ」

「愛してるよ」


 前を向いて歩けるように何度も身体を重ね、心をあざむく。交わされる言葉が嘘でまみれるほどに体温だけを信じていられた。

 嘘が悪だと誰がいえよう?

 もとより一夜限りの幻想だ。仮初かりそめの愛でなにが悪い。俺たちの間違いを正しさでけがすことだけは、絶対に許さない。





 翌昼よくあさ。荻原を送るために玄関のドアを開けると、共用廊下に沙耶が立っていた。彼女は驚いたように目を見開き、キャンバスを抱える腕に力をめた。


「おはよう、沙耶。今から荻原を送ってくるんだけど、部屋で待ってる?」


 沙耶は首を左右に振り、俺にキャンバスを押しつける。受け取った際、金属らしきものが廊下に落ちる。

 かがんで拾ってみるとそれは部屋の合鍵だった。


「あの絵の名前、決まった」


 それだけをいい残して、彼女は足早に立ち去った。決して追いつけない速度ではなかったが、俺の足は重力にあらがえずにいた。押しつけられたキャンバスに視線を移す。六月の終わりに譲ってくれと頼んだ〈名の無い絵画〉。ついに決定したタイトルの項目には、


 〈荻原唯〉


 と書いてあった。

 直感的に名前に込められた意味を理解する。

 別れの予感は半分外れていて、半分当たっていた。合鍵と絵画。沙耶との繋がりは完全に断たれた。

 景色がかすんでいくように思えた。


「追いかけて」と背後から荻原の声がした。彼女は振り返ろうとする俺の背中を片手で押し戻す。「わたしは一人で帰れるから」

「でも」

「はやく行って。窪田くんはもう、わたしの背中をみなくても歩けるでしょ」

「……あぁ」

「諦めたら一生許さない」

「ありがとう」

「不幸にするのは」と荻原がすこしだけ笑う。「わたしだけにしなよ」


 彼女はすでに見慣れた他人ではなかった。かけがえのないひとの一人になっていた。


「幸せにするよ」最後に俺はおどけていってやる。「荻原のこともね」


 死にたくなるくらい恥ずかしく無責任な言葉だ。その無責任で根拠のない自信だけを帯びた言葉が、ひとを救ってしまうことを俺は学びつくした。


「ばか」「うそつき」「かっこつけんな」


 あたたかくののしられる。誰かを幸せにする嘘。偽りをあしらった美しいごみ。小説家はそれを「物語」と呼ぶのだ。






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