荻原唯 3

 

 この日、俺の歩んだ軌跡きせきは運命の糸で繋がっていたのだと知る。四人を乗せた車が向かった場所は、学生時代にボランティア経験のある児童養護施設「つえ」だった。

 すなわち沙耶と出逢った施設。物語の始まりとなる数奇な縁。巡りめぐっての再訪は運命的であったにせよ、さほど驚きはしなかった。隣で荻原が窓ガラスの向こう側をぼうっと眺めていたように、俺もそうしていた。

 青の時代に執拗に追いかけた荻原の背中。今も彼女は背を向けているが、意味合いがまったく異なる。そして俺も彼女に背を向けている。

 こんなはずではなかったのに。

 一滴の後悔が胸の奥に滑り落ちた。

 車外に出ると「虎の杖」を囲む晩夏の花の匂いが体内に舞い込んでくる。ライラックの花木にいろどられた立夏りっかの記憶と照らし合わせてみても、建物に変化はみられない。一部を茉莉花まつりかに植えかえたようで、白い芳香が鼻をつく。

 施設には樹木だけでなく花壇やプランター、昆虫のフィギュアなどを入れたテラリウムまでも至るところに飾られており、植物園を兼ねているのかと疑うほどだ。学生の頃は名前を知らなかった植物たち。興味もなかったから、名前を訊ねる行為すら思い浮かばず記憶の墓に埋没していった。

 俺が不要と切り捨てたものを、小説は必要とした。アーティストはくだらないとわらわれるごみを丹念に磨きあげて作品にする。だから物語という虚構の世界のリアルを描写するにあたって、調べるうちに最低限の知識を身につけた。

 開花が貴重な月下美人げっかびじん。触れると葉をたたむ含羞草おじぎそう。茎が塊状の仙人掌さぼてん。ハイビスカスに似た紅蜀葵こうしょっき。施設の象徴たる虎杖いたどり。旬をのがすまいと絢爛けんらんに咲き乱れるものから開花に立ち会えずしおれてしまったものまで、玄関へと伸びた石畳の脇で栽培されている。俺たちの目をひきつける花々を前に、沙耶は足を止めた。視線が彼女に集まる。


「綺麗でしょう」と沙耶はいった。

「そうだね」


 荻原は無表情だった。


「光栄です」と挟んだのは谷崎先生だ。「ひとが住まなくなった家はまたたく間にちてしまう。服も着ないとだめになり、靴も履かないとだめになる。ひとも同じで、心を動かさないとだめになってしまうんですよ。ぼくたちがガーデニングを始めたのは、そんな理由だったと思います」


 緑の豊かな地域では暴力事件や自殺が少ないと聞いたことがある。森林浴という言葉があるように、かたわらに植物がいると心は安らぐものだ。とくに複雑な事情を抱えた子どもたちが住まう児童養護施設では、俺が考える以上に「緑」の存在は大きいのだろう。


「……余計なことを喋るのがお父さんの悪癖だね。なんの解決にもならないし」

 

 娘に突き放され、彼は残念そうにうなだれた。

 花を見せることが沙耶の目的ではないというのは、俺でもわかった。注意深く彼女を観察すると、しきりに腕時計を確認している。何かを待っているのか。時間が関わる、なにかを。

 対して荻原の雰囲気はあまりよろしくない。いくらか冷静さを取り戻しているようだが、いつまでもつかわからない。こちらも時間の問題だ。どうにか話題を提供しようと頭をひねる。


「ある人は」と俺は声を出していた。「ひとが生きる意味はないといったんだ。是非はともかく、とても面白い言葉だと思ってさ。俺たちの呼吸には生命維持という立派な意味があるのに、呼吸する俺たちに意味はない」


 適切な話題かと問われたら、絶対に間違っていると答えるけれど、言葉は止まらなかった。


「ひとがそうなら、花も同じだ。花が咲くことに意味はあっても、咲いている花に意味はない。じゃあ、なんで生きてんだって思う。生きる意味がないのに。俺たちは。生きるために他の命を奪って。誰かを傷つけてまで生きなきゃいけないんだろう。……悩むなら勝手に死んでろって話だけど」


 俺なんかが生きていてもどうしようもないのに。そんな思いが詰まっている。荻原が俺を殺したいほど憎んでいると知ったとき、心のどこかで思った。彼女は俺という徒花あだばなを無惨に散らしてくれるのだと。決してつよい感情ではないけれど、負い目とは別に死を受け入れる自分がいた。

 死にたいではなく、死んでもいいか。微妙な違いだが、スモークさんの「生きていたくない」と似通っている。思えば、川で溺れたときも、まぁいいかで済ませていた。

 自分の命すら大事にできないのに、他人の命を大事にできるはずがない。だからひとを傷つけてしまうのだろうな。

 そんな自嘲が伝播でんぱするように重苦しい沈黙が降りていった。焦りがシャツを湿らせる。

 だったら、どうすればよかったんだ? 俺の言葉はどうやっても荻原に届かない。そりゃ、そうだ。自分を再起不能にまで追い込んだ人間に、謝られるほど腹立たしいことはない。なに反省してんだよ。記憶通りのくず人間でいろよ。そう罵倒してやりたくなるものだ。

 でははなから諦めて押し黙るのが正解なのか? 自分がいた種であるのに、刈りとらずさじを投げて済まされるのか? 

 どうにもならない自問だとわかっていたが、やめる方法がわからなかった。無意味に問い続けることしか、俺にはできない。そう思い込んでいたから。


「でも花は咲くんだ。生きているかぎりね」折れかけた話のぎ穂を沙耶が支える。「荻原唯。きみの花もかならず咲く」


 確信に満ちた口調でそういった。まるで未来を知っているかのような口ぶりだ。

 たぶん、沙耶は知っていたのだ。

 名指しされた荻原が不機嫌な顔で反論しかけたところで、ゆっくり、施設のドアが開いた。「ほー、ほう」とけったいな声が内側から聞こえてくる。それに続き、乾いた靴音が鳴った。


「騒がしいと思ったら、きみたちね」


 出てきたのは亜麻あま色の髪の女性だった。智香さんだ。右手に如雨露じょうろを持っていることから、花壇に水やりをするのだとうかがえる。


「やぁ」と頬をきながら谷崎先生がいい、「ただいま」と沙耶が続いた。


 俺は悩んだ末に、「お久しぶりです」と挨拶するに留めた。施設に来た目的を知らされていないため、他に思いつかなかった。

 荻原にいたっては軽い会釈をするのみだった。彼女はいきなり連れてこられた上、初対面。無理もあるまい。

 それにしても、騒がしいといわれるほど大声で話していただろうか。

 ……どうでもいいか。

 思いなおし、俺は思考を振りはらった。

 沙耶と同じく五年ぶりに再会した智香さんの見た目は衰えておらず、時間の流れを感じさせない。

 智香さんは俺たちを驚いたようすで迎えてくれた。

 和やかな雰囲気を醸し出していたが、荻原の顔を見た瞬間、血相を変えて駆けだした。

 智香さんの手から離れた如雨露が石畳に水をこぼす。

 その音を聞いて、息をむ。ここにいる全員が釘づけになった。それこそが、気づけなかった答えだった。


「よく頑張ったね。つらかったね。もう大丈夫だよ」


 幼い子どもをなだめるように優しく語りかけ、荻原を腕のなかに抱き寄せた。 


「……やめて、ください」


 かすかな声量で抵抗し身をよじる荻原に構わず、智香さんはつよく抱きしめる。


「ごめんね。遅くなって。ずっとひとりにさせてしまったね。寂しかったよね。不安だったよね。でも大丈夫だから」


 背中をさすり、耳元で何度もささやいた。

 私がいる。

 私がいるから。

 我慢しなくていいんだよ。


「きみを誰にも傷つけさせたりするもんか」


 摩耗しきって痛んだ心をさすっているようでもあった。

 何ひとつ特別な言葉ではないけれど、絶対の自信を帯びていた。沙耶も、こんなふうに自信を帯びた言葉を使う。

 荻原と目が合う。彼女は気まずそうに顔を逸らし、身体を小さく震わせ、嗚咽をもらした。

 次第に大きくなる声が雨音を掻き消してゆく。泣き崩れる荻原をこの上なく美しいと思った。

 ――こうすればよかったんだ。

 馬鹿だなぁ、俺は。

 なんで気づかなかったんだろう。

 才能、知識、技術、発想、正義、暴力、金。ひとを救うのにそんなものはいらなかったことに……。

 ただ抱きしめるだけでよかった。

 ひとをあやめる必要など、どこにもなかったのだ。取り返しのつかないことをしてしまった。

 俺は自分の愚かしさを悔いた。

 視界が歪んでいた。

 静かに溢れた涙は、荻原の千分の一の価値もないけれど、俺が人間であることを認めてくれるような気がした。 


「三十六・九度。世界でもっとも美しい温度だよね」


 沙耶が微笑む。

 命の温度。

 空っぽな人間にすら平等に持って生まれた体温があったじゃないか。それは、どんな芸術にも生み出せないもの。

 不平等な世界でただひとつ、平等なもの。


「芸術じゃどうにもならない相手だ。言葉や音楽ごときじゃ……敵わないよな」


 俺たちが三十六度を選んで生まれてきたのは、抱き合ったとき、もっとも心地よい温度だから。

 だから命は、生きているかぎり身体を温める。そういうことか。


「そうだね。私たちの芸術は体温には敵わない。ゆえに無駄だと多くのひとはいうのさ。どうあがいても命には敵わないから、命に馬鹿にされてしまう」


 困ったように笑い、でもね、と紡いだ。


「人間という生き物は美しいものを持っていながら、ほんとうに大切なことを忘れてしまっている。

 私も、文彦も、何もできなかった。大切なことや、その使いかたを忘れてしまっていた。

 私たちは芸術家でありすぎた。価値だとか、意味だとか、理由だとか、善悪だとかにこだわりすぎていたんだろうね。美しいものは、そこにるだけなのに」


 まったくその通りだと思った。ほんとうに大切なことは腕のなかにあって、それを忘れているとは、呆れるほど愚昧ぐまいな生き物だ。


「ひとを救うのに、心すらいらないか」俺はてのひらで瞼を覆った。「笑えてくるよ」

「私たちは生きているだけで誰かを救えるんだ」


 智香さんもまた、沙耶がそうであるように心を読めるのだろう。心が読めるから、施設に勤めることを選んだ。

 後になって沙耶は、施設に荻原を連れてきた理由はなかったのだと明かしてくれた。

 しきりに時間を確認していたのは、智香さんが水やりをする時間だったため。つまり、「お母さんならなんとかしてくれると思った」というだけらしい。

 その無責任さによって、いとも容易たやすく問題は解決されたのだから、笑うしかない。

 またしても心が読める女の子に救われてしまった。そんなことを思っていると、沙耶は俺の手首を引っ張り、荻原のそばに立たせた。 


「もしさ、きみがよかったら、文彦のうちに来なよ。住所は教えてあげるから」


 きょとんとして沙耶を見つめる荻原に、微笑みかける。


「文彦はね。いい小説を書くんだ。普段の馬鹿はさておき、アーティストの文彦は誠実できみを裏切らない。人生にそれくらいの楽しみがあってもわるくないでしょう」


 そうして今度は、俺の背中を叩く。


「例え話が苦手っていったよね。うまく伝わらないかもしれないけれど……私たちの作品こどもは心から生まれてくる。一人のために愛を注いだ作品も、十億人のために捧げる作品も、創作意欲の根底にあるものは同じだ。

 芸術家は自己愛と承認欲求と自己顕示欲の塊みたいなもの。それらをもってして、常にどこかに巨大な風穴を開けようと命を削っている。

 世界の中心か、たった一人の心臓か。どちらを選ぶかはきみの自由。だけど文彦は、今、たった一人を選ぶべきだと私は思うんだ」


 沙耶なりの不器用な助言がいとおしく感じられた。


「そうだな……ありがとう、沙耶」


 礼をいい、俺は、荻原の瞳をまっすぐに見つめる。


「荻原……あのっ」

「触らないで」 

「ごめん」すくみあがりそうになる身体にむち打って、俺は荻原を抱きしめた。「俺はこうしたい」


 抵抗できないくらいに、つよく。彼女の命の温度を全身で受け止めた。二人とも泣いていたような気がするし、そうでもなかった気もする。


「ひどいよ……。窪田くんは」

「たくさん恨んでくれ」

「大嫌い」

「あぁ」


 やっぱり、俺は号泣だった。

 こうしてようやく俺たちに遅すぎる雪解けが訪れた。夏の終わり。氷室ひむろの桜が咲いたのだ。

 抱きしめあう俺たちを揶揄からかうように、沙耶は二度、濡れたシャツを叩いた。


 きみたちはさ。


「幸せになるべきなんだよ」





 荻原をアパートに送り届けた帰りの車内で谷崎先生はいった。「沙耶のことですが……」

「知っています」俺は隣で眠っている沙耶の横顔をみた。「心が読めること」

「そうですか」と彼は小さく笑う。


 会話はそれきりだった。

 ガラスに隔てられた夜空を眺め、梅雨の記憶をたぐる。忘れられない思い出を置いていきたい。いつかの俺はそんなことを思った。

 今はちがう。荻原を忘れられなくて、ほんとうによかった。


「窓、開けるね」

 

 目を覚ました沙耶がいう。 

 雨は止んでいた。

 金輪際こんりんざい、荻原唯と会うことはないのだろう。

 予感めいた風が吹き込み、肌を撫ぜる。そのまま、通り抜けて――。

 反対側の窓から寂しさを流してくれないかと、わけのわからない思いに駆られ、俺も窓を開けた。




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