きおく泥棒はいいました 4
高校から
沙耶は歩道の
俺が飛び降りた橋の中央で沙耶は歩みを止め、耳たぶにかかる髪を
「ここにきみたちの犯した罪……七年前の事件の真相を
そういうと、道中で購入したペットボトル容器のラベルを剥がし、真相が記された紙を丸めて容器の中に入れる。
キャップを
表情を盗み見ようとしたタイミングで、彼女はそれを川に落とした。
川の水流に逆らえるわけもなく、容器はかぷかぷと浮かんで流されていく。
ペットボトルの目視が困難になると沙耶は身体を反転させ、手すりにもたれかかった。
「文彦が〈きおく泥棒はいいました〉を読んでから十五年は経ってる。きおく泥棒の男の子は立派な大人になって、盗むべき記憶とそうでない記憶の分別がついているだろうね。
もし彼が、きみの記憶を返すべきだと思ったら、このボトルはどこかに漂着して罪は
なんとも無責任な方法だ。
「沙耶には敵わないな」
無責任だが、天に任せるという発想は好きだった。
どちらにしようかな。神様のいう通り。否、きおく泥棒はいいました。
「ボトルが漂流しているあいだは、罪を忘れて生きてもいいよ。良心に唾を吐きかけ、無神経にのうのうと人生を
「……そうするよ」
不覚にも熱くなった目頭を押さえる。生きてもいいよ。なんでもない
温かい針を突き刺した張本人はあっけらかんとして、唇をすぼめたり開いたりしている。
「現代のメッセージボトルだね。タイトル……海洋プラスチック一号機ってのはどう」
「最低だ」
「なら生物濃縮ボトル」
「ましなやつにしてくれ」
アーティスティックな理由があるとはいえ、ペットボトルを河川に流すのは
問題視されている海洋プラスチックごみの一因になる。身近なところでいえば、社会問題を訴えるグラフィティも落書きには変わりない。
彼女は非難されてしかるべき悪か……と問われると俺は悩んでしまう。
法律には心がないから、人々の心を
しかし反発だけを
沙耶はやれやれといったふうに肩をすくめる。
「きみの言葉を借りよう。だがこれでよかった。他に冴えたやりかたなんてない」
静かにそういった。
俺は自分の目が大きく開いていくのがわかった。
「本物のアーティストは、自分の作品がひとを殺すことを知っているんだ。
フェルメール・ブルーと呼ばれた青い塗料……ウルトラマリンはもの凄く高価なものだった。フェルメールが光に満ち溢れた作品を描くたび、世界のどこかで多くのひとが死んだ。
ベートーヴェンは
命を
私のメッセージボトルはアザラシを殺すかもしれない。アザラシが死んでしまえば、アザラシを食べるはずだったシャチは餌を
でも、私は目の前で苦しんでいるきみのためなら、未来の殺人を
きみもそう。
法律で性犯罪を抑えられないなら、きみが過激な性描写で身代わりを作るんだ。法律で殺人を抑えられないなら、きみがひとを殺す文学を書いて発散させるんだ。たとえ未来で犯罪を助長する結果になろうとも、この瞬間の同胞を
どれだけ後ろ指をさされても、法で裁かれても止まらない。なぜなら私たちの
それこそが美しいから。
その美しさのためならなんだってする。私のメッセージボトルはきみを救えると本気で信じたから、これは冴えたやりかたなのさ!」
曲がりなりにも文章を扱っているおかげか、沙耶の言葉が正しくないことは理解できた。
芸術家といっても美しさの基準は千差万別で、ひとを救う芸術に美しさを感じられるかはそのひと次第だ。
それなのに俺は間違いを指摘できなかった。間違った彼女の思想を、美しい、と思ってしまったのだ。
「ひとを殺す覚悟のない人間は本物の芸術家にはなれない……ちがう。誰も殺さずにいられるほど芸術は甘くないんだ」
彼女は笑顔で付け加えた。
筆を
芸術至上主義のふりをしながら、沙耶は人間を愛している。なんでもできるくせに不器用な女の子。
そりゃ、好きにもなるよな。
「……自殺を止められないなら、新作を読むまでは生きようと思えるものを書く。医療で助からない命なら、俺が小説で生き返らせる」
自分なりに考え、言葉にする。
俺たちはアーティストとして違う方角を向いているが、互いにそっぽを向いたまま、手を握るくらいはできる。
ひとりぼっちのしあわせより、ぼろぼろになってもふたりで手を繋いでいるほうがずっといい。
それだけのこと。〈きおく泥棒はいいました〉の伝えたかったことが二十五になってやっと
「文彦は優しいね」
「沙耶がいるから優しくなれただけだ」
「ふぅん……点数稼ぎ」
「嫌なこというなぁ」
「うそうそ。お詫びに私の体温をあげよう」といって沙耶は俺の手を握った。
まさか本当に繋ぐことになるとは夢にも思わず、うろたえる。動揺する俺をみて、彼女はくすくすと笑った。
手を繋ぐ。実際に沙耶の体温を意識したのは数分程度。歩きだしたときには忘れていた。
橋を渡りきる間際に
違和感に気づく。
「ベレー帽はかぶってないのか」
いまさら、と沙耶は小さく吹きだした。
「今日はピアノを弾くつもりで来たから、私にフェルメールの青は必要ないと思って」
なんだそれ。
不可思議な理由に俺はつられて笑ってしまう。一緒にいるとすべての悩みがどうでもよくなる。
沙耶にしかない、魅力なのだ。
繋いだ手を離すのが惜しく、俺はわざと遠い駅に向かった。歩幅も狭くした。下心は見え透いていただろうが、こちらのペースに黙って合わせてくれたので、「お詫び」の恩恵を享受できた。
横断歩道での待ち時間に携帯を開くと一通のメールが届いていた。谷崎先生から。講義以外で彼からのメールは珍しい。急いで本文に目を通す。
『いきなりですみません、窪田君。仲野沙耶さんについて、窪田君と話をしたいのですがよろしいでしょうか』
明らかに不穏な空気の文面だ。
「なぁ沙耶。谷崎先生と揉めごとになって帰れなかったといってたよね。それって、このメールと関係あるのか?」
俺は、先生の娘である沙耶にメールを見せる。心当たりが俺にないのなら彼女にはあるはず。
「お父さんとは会わないほうがいいよ。きみのカルテとかを貰うために、私たちのこと話したから。合鍵もらったり、キスしたり……セックスしたり」
あの夜のことを父親に話したというのは信じられないが、とんでもないことをいう子だ。
彼女は平気で噓を
「それだけ?」
追い討ちをかけると、沙耶はあからさまに目を泳がせた。
「えっと……文彦がね。すごく私に依存してて。結婚しなきゃ死んじゃうってくらいやばい人で、私と結婚するために自分の過去を知りたいとか、鳥肌が立ちそうな設定いっぱいつけました。それでまァ、しばらく引き離そうってお父さんが判断したっぽくて……ね?」
俺たちの関係(沙耶の嘘)に危機感を覚えた彼は心理学教授らしく、共依存にならないように頭を冷やす期間を設けた。なるほど。
「しばらくにしては短いな。ぜんぶ吐け」
「……めんどくさかったからさァ、大学の友達に頼んで架空のメールアドレスから毎日『愛してるよ』『会いたい』『さみしくて死にそう』って送らせて、お父さんに見せたんだ。涙ぐましい努力の
「帰れたじゃねぇよ。二度と帰ってこなくてよかったのに。これからどうやって先生と顔合わせりゃいいんだ」
「わるいと思ったよ。だからお詫びしたでしょ、ほら」
沙耶が手に握力を
「どうりで。キモチワルイ提案すると思った」
「キモチワルイはしつれい!」
「はいはい」
謝って、と抗議する沙耶を適当にあしらう。この女はいかれてる。
「きみがいかれた女の子でよかったよ」
「うれしくない」
心外そうに彼女は唇を尖らせた。
閑散とした無人駅のバス停前にあるベンチに腰を下ろす頃には、すっかり日が暮れてしまっていた。
疲労が限界を迎えたのは俺だけのようで、沙耶は路面についた
地元の駅では十八時を過ぎると電車の本数が極端に減るため、二十分以上は待たされる。
俺は沙耶のトートバックを漁り、あらかじめ預けておいた封筒をさわる。
「封筒の中身はみた?」と沙耶は叢から俺に視線を移した。
「うん」
すでに封は切ってある。封筒のなかにはメモ用紙が一枚入っていた。何の変哲もないメモ用紙。
電話番号と「荻原唯」の名前が添えてある以外には。
手紙でもしたためているのかと思ったが、葛城先生は俺にアドバイスをしなかった。大人になった教え子は彼の管轄外なのだろう。
「文彦はさ」と沙耶は遠くを見つめていった。「荻原唯に会うべきだと思う」
「うん……」
同意見だった。
俺は数えきれないほどの優しさに助けられ、偶然に
たかが十二桁にも満たない数字の向こうに彼女がいる。沙耶も背中を押してくれた。
後悔なんか、今更だ。
携帯に番号を入力するのは緊張したが、数字の羅列をみると思考が停止する。このわずかな時間を利用して、俺はコールボタンを押した。
一回、二回、三回、四回、五回……コール音が響く。人生で最も長い十五秒が経ち、六回目のコールで電話は繋がった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます