きおく泥棒はいいました 4


 高校からくだんの川までは約二キロほど離れており、俺たちは雑談をまじえながら歩いた。

 沙耶は歩道の縁石えんせきにサンダルを乗せ、俺の一歩手前を進んだ。彼女の背中は身長の何倍も大きく感じる。年齢よりいくらか精神が大人びているせいだ。成熟した心に身体がついていかなくなることはないのだろうか。寡黙な夕凪ゆうなぎに耳をそばだてたところで答えを教えてはもらえない。

 俺が飛び降りた橋の中央で沙耶は歩みを止め、耳たぶにかかる髪をくようにしてかきあげた。再びトートバックから破ったノートを取り出す。辺りがしんと静まりかえる。


「ここにきみたちの犯した罪……七年前の事件の真相をしるした」


 そういうと、道中で購入したペットボトル容器のラベルを剥がし、真相が記された紙を丸めて容器の中に入れる。

 キャップをめ、沙耶は転落防止の手すりから緩流かんりゅうに目を向けた。

 表情を盗み見ようとしたタイミングで、彼女はそれを川に落とした。いだ空を動かす突風に煽られ、体勢を崩した容器が水面を割る。 

 川の水流に逆らえるわけもなく、容器はかぷかぷと浮かんで流されていく。宮沢みやざわ賢治けんじの「やまなし」に出てくる擬音がしっくりきた。

 ペットボトルの目視が困難になると沙耶は身体を反転させ、手すりにもたれかかった。


「文彦が〈きおく泥棒はいいました〉を読んでから十五年は経ってる。きおく泥棒の男の子は立派な大人になって、盗むべき記憶とそうでない記憶の分別がついているだろうね。

 もし彼が、きみの記憶を返すべきだと思ったら、このボトルはどこかに漂着して罪はあばかれる。盗むべきだと思ったら、未来永劫、誰にも拾われないはずさ」


 なんとも無責任な方法だ。


「沙耶には敵わないな」


 無責任だが、天に任せるという発想は好きだった。

 どちらにしようかな。神様のいう通り。否、きおく泥棒はいいました。


「ボトルが漂流しているあいだは、罪を忘れて生きてもいいよ。良心に唾を吐きかけ、無神経にのうのうと人生を謳歌おうかするんだ」

「……そうするよ」

 

 不覚にも熱くなった目頭を押さえる。生きてもいいよ。なんでもないゆるしの言葉が胸に刺さった。

 温かい針を突き刺した張本人はあっけらかんとして、唇をすぼめたり開いたりしている。


「現代のメッセージボトルだね。タイトル……海洋プラスチック一号機ってのはどう」

「最低だ」

「なら生物濃縮ボトル」

「ましなやつにしてくれ」

 

 アーティスティックな理由があるとはいえ、ペットボトルを河川に流すのはめられた行為ではない。ポイ捨て、すなわち不法投棄。河川法に抵触する犯罪。ガラス瓶も同じだ。

 問題視されている海洋プラスチックごみの一因になる。身近なところでいえば、社会問題を訴えるグラフィティも落書きには変わりない。

 彼女は非難されてしかるべき悪か……と問われると俺は悩んでしまう。

 法律には心がないから、人々の心を穿うがつ芸術は平等に裁かれる。俺たちは懸命に働いて恋するだけの機械じゃない。そういった反発で内臓がえぐられそうになるのも健全な人間のあかしのはずだ。

 しかし反発だけをふとらせる芸術家には賛同できない。人殺しの俺が何をいっても説得力はもたせられないけれど、他に冴えたやりかたがあったんじゃないか。

 沙耶はやれやれといったふうに肩をすくめる。


「きみの言葉を借りよう。だがこれでよかった。他に冴えたやりかたなんてない」


 静かにそういった。

 俺は自分の目が大きく開いていくのがわかった。


「本物のアーティストは、自分の作品がひとを殺すことを知っているんだ。

 フェルメール・ブルーと呼ばれた青い塗料……ウルトラマリンはもの凄く高価なものだった。フェルメールが光に満ち溢れた作品を描くたび、世界のどこかで多くのひとが死んだ。

 ベートーヴェンは数多あまたの作曲家を殺し、聴衆の人生を狂わせた。私たちが大好きな芸術家たちは、新しい作品を発表するたびにひとを殺してきた。同じように私たちの作品も、必ず誰かを殺してしまう。

 命をけずって生み出した私たちのアートは、繊細な心で受け止めるには鋭利すぎるから、どうしようもなく他者を傷つける。

 私のメッセージボトルはアザラシを殺すかもしれない。アザラシが死んでしまえば、アザラシを食べるはずだったシャチは餌をれず、アザラシに食べられるはずだったオキアミは生き延びる。それらは無限に繋がって生態系を破壊し、百年後に人間を殺すかもしれない。

 でも、私は目の前で苦しんでいるきみのためなら、未来の殺人をいとわない。世間になぶられることを厭わない。

 きみもそう。

 法律で性犯罪を抑えられないなら、きみが過激な性描写で身代わりを作るんだ。法律で殺人を抑えられないなら、きみがひとを殺す文学を書いて発散させるんだ。たとえ未来で犯罪を助長する結果になろうとも、この瞬間の同胞をまもるためなら未来で誰が死のうが構うものか!

 どれだけ後ろ指をさされても、法で裁かれても止まらない。なぜなら私たちの作品こどもはひとを殺してしまうけれど、手の届かないところでうずくまっているたった一人を救うと信じているから。


 それこそが美しいから。


 その美しさのためならなんだってする。私のメッセージボトルはきみを救えると本気で信じたから、これは冴えたやりかたなのさ!」


 曲がりなりにも文章を扱っているおかげか、沙耶の言葉が正しくないことは理解できた。

 芸術家といっても美しさの基準は千差万別で、ひとを救う芸術に美しさを感じられるかはそのひと次第だ。

 それなのに俺は間違いを指摘できなかった。間違った彼女の思想を、美しい、と思ってしまったのだ。

 はるか高みに立つ少女のかたる景色は、穢れきって、それでいて綺麗だった。


「ひとを殺す覚悟のない人間は本物の芸術家にはなれない……ちがう。誰も殺さずにいられるほど芸術は甘くないんだ」


 彼女は笑顔で付け加えた。 

 筆をった瞬間、鍵盤にれた瞬間、ひとを殺したことを意識しないといけない。だから誰一人も救えない程度の作品で満足してはいけない。

 芸術至上主義のふりをしながら、沙耶は人間を愛している。なんでもできるくせに不器用な女の子。

 そりゃ、好きにもなるよな。

 

「……自殺を止められないなら、新作を読むまでは生きようと思えるものを書く。医療で助からない命なら、俺が小説で生き返らせる」


 自分なりに考え、言葉にする。

 俺たちはアーティストとして違う方角を向いているが、互いにそっぽを向いたまま、手を握るくらいはできる。

 わずらわしさは増えるけど……孤独よりはましだ。

 ひとりぼっちのしあわせより、ぼろぼろになってもふたりで手を繋いでいるほうがずっといい。

 それだけのこと。〈きおく泥棒はいいました〉の伝えたかったことが二十五になってやっとみわたった。


「文彦は優しいね」

「沙耶がいるから優しくなれただけだ」

「ふぅん……点数稼ぎ」

「嫌なこというなぁ」

「うそうそ。お詫びに私の体温をあげよう」といって沙耶は俺の手を握った。

 

 まさか本当に繋ぐことになるとは夢にも思わず、うろたえる。動揺する俺をみて、彼女はくすくすと笑った。

 手を繋ぐ。実際に沙耶の体温を意識したのは数分程度。歩きだしたときには忘れていた。

 橋を渡りきる間際にはやすような風が吹きすさび、沙耶は空いているほうの手で髪を覆った。

 違和感に気づく。


「ベレー帽はかぶってないのか」


 いまさら、と沙耶は小さく吹きだした。


「今日はピアノを弾くつもりで来たから、私にフェルメールの青は必要ないと思って」


 なんだそれ。

 不可思議な理由に俺はつられて笑ってしまう。一緒にいるとすべての悩みがどうでもよくなる。

 沙耶にしかない、魅力なのだ。

 繋いだ手を離すのが惜しく、俺はわざと遠い駅に向かった。歩幅も狭くした。下心は見え透いていただろうが、こちらのペースに黙って合わせてくれたので、「お詫び」の恩恵を享受できた。 

 横断歩道での待ち時間に携帯を開くと一通のメールが届いていた。谷崎先生から。講義以外で彼からのメールは珍しい。急いで本文に目を通す。

 

『いきなりですみません、窪田君。仲野沙耶さんについて、窪田君と話をしたいのですがよろしいでしょうか』

 

 明らかに不穏な空気の文面だ。静謐せいひつなる怒りというべきか。心当たりはなかった。


「なぁ沙耶。谷崎先生と揉めごとになって帰れなかったといってたよね。それって、このメールと関係あるのか?」


 俺は、先生の娘である沙耶にメールを見せる。心当たりが俺にないのなら彼女にはあるはず。


「お父さんとは会わないほうがいいよ。きみのカルテとかを貰うために、私たちのこと話したから。合鍵もらったり、キスしたり……セックスしたり」


 あの夜のことを父親に話したというのは信じられないが、とんでもないことをいう子だ。

 彼女は平気で噓をく。まだ何かあると確信する。


「それだけ?」


 追い討ちをかけると、沙耶はあからさまに目を泳がせた。


「えっと……文彦がね。すごく私に依存してて。結婚しなきゃ死んじゃうってくらいやばい人で、私と結婚するために自分の過去を知りたいとか、鳥肌が立ちそうな設定いっぱいつけました。それでまァ、しばらく引き離そうってお父さんが判断したっぽくて……ね?」


 俺たちの関係(沙耶の嘘)に危機感を覚えた彼は心理学教授らしく、共依存にならないように頭を冷やす期間を設けた。なるほど。


「しばらくにしては短いな。ぜんぶ吐け」

「……めんどくさかったからさァ、大学の友達に頼んで架空のメールアドレスから毎日『愛してるよ』『会いたい』『さみしくて死にそう』って送らせて、お父さんに見せたんだ。涙ぐましい努力の甲斐かいあって私は三週間で帰れた!」

「帰れたじゃねぇよ。二度と帰ってこなくてよかったのに。これからどうやって先生と顔合わせりゃいいんだ」

「わるいと思ったよ。だからお詫びしたでしょ、ほら」


 沙耶が手に握力をめる。なるほど。


「どうりで。キモチワルイ提案すると思った」

「キモチワルイはしつれい!」

「はいはい」

 

 謝って、と抗議する沙耶を適当にあしらう。この女はいかれてる。


「きみがいかれた女の子でよかったよ」

「うれしくない」

 

 心外そうに彼女は唇を尖らせた。


 

 閑散とした無人駅のバス停前にあるベンチに腰を下ろす頃には、すっかり日が暮れてしまっていた。

 疲労が限界を迎えたのは俺だけのようで、沙耶は路面についたわだちに沿って歩いたり、くさむらを眺めたりしている。

 地元の駅では十八時を過ぎると電車の本数が極端に減るため、二十分以上は待たされる。

 俺は沙耶のトートバックを漁り、あらかじめ預けておいた封筒をさわる。


「封筒の中身はみた?」と沙耶は叢から俺に視線を移した。

「うん」


 すでに封は切ってある。封筒のなかにはメモ用紙が一枚入っていた。何の変哲もないメモ用紙。


 電話番号と「荻原唯」の名前が添えてある以外には。


 手紙でもしたためているのかと思ったが、葛城先生は俺にアドバイスをしなかった。大人になった教え子は彼の管轄外なのだろう。


「文彦はさ」と沙耶は遠くを見つめていった。「荻原唯に会うべきだと思う」

「うん……」

 

 同意見だった。

 俺は数えきれないほどの優しさに助けられ、偶然にみちびかれて、荻原の未来に追いついた。

 たかが十二桁にも満たない数字の向こうに彼女がいる。沙耶も背中を押してくれた。

 後悔なんか、今更だ。

 携帯に番号を入力するのは緊張したが、数字の羅列をみると思考が停止する。このわずかな時間を利用して、俺はコールボタンを押した。

 一回、二回、三回、四回、五回……コール音が響く。人生で最も長い十五秒が経ち、六回目のコールで電話は繋がった。


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