荻原唯


『……はい』


 七年も待ち望んだ荻原の声。警戒しているようだったが、それ以上に俺の緊張が声帯付近の筋肉を硬直させてしまい、彼女の警戒心を解くための言葉を出せなかった。思考は巡らせないくせに、いたずらに血液だけを巡らせる馬鹿な心臓が嘆かわしい。

 ひとまず深呼吸を挟む。

 せっかく応じてくれたのに怪しまれて通話を切られたら元も子もない。


「俺だ。あの、高校のときのことで、荻原に電話しないといけなくて。急にかかってきて驚いただろうが。と、とにかく落ち着いてくれ」


 支離滅裂な台詞が口をついて出る。落ち着くのは俺だ。頭ではわかっていても、流暢にしゃべることを意識するほど理路が雑然となり、吃音きつおんは悪化した。

 肺が詰まりそうな沈黙が続き、荻原は大きく息を吸う。音が聴こえた。


『……窪田くん?』


 はっきりと、俺の名前を呼んだ。通じてくれた。俺はほっと胸をなでおろす。


「あぁ、クラスメイトだった、窪田」


 肯いたきり二の句が継げないでいると、痺れを切らしたのか沙耶が俺の手から端末を奪い取る。 


「はじめまして。文彦が緊張しすぎて役に立たないから代わるね。私、友人の仲野沙耶。私たちは葛城先生にゆいさんの番号をもらって、かけたの。いきなりでわるいんだけど、唯さんはどこに住んでるの? ……うちの近くなんだ。偶然。じゃあ明日の都合がよかったら公園に来てもらえる? 美術館の隣にあるところ。……うん、一時間だけでもいいから。文彦に会ってあげてほしい。唯さんに会いたがってる。……わかった。ありがとう」


 あっという間に再会の約束まで取りつけ、彼女は通話を切った。

 電話だと物腰が柔らかくなるのかと暢気のんきに思った矢先、冷めた目をした沙耶に端末の角で殴られる。


「午後二時に中央公園。遅刻したら標本にして出展するから」



 あくる日は朝方からぽつぽつと雨が降っていて、正午を過ぎても一向に止まなかった。待ちあわせの場所は噴水前の東屋あずまやだった。

 奇妙な縁だと思いながら、俺は軒先から垂れる雨水を目で追いかける。約束の時間は過ぎていた。

 標本にされる未来は回避できたが、荻原が来ていない。焦ることはないと知りつつ、一分ごとに時計を確認してしまう。

 足元の水溜まりにつま先を浸らせる。そのほんのすぐ先で柔らかい雨が波紋を描いていた。

 無数というには寂しく、頑張れば数えられそうだ。数えながら時間を潰してもよかったが俺は雨が嫌いだ。雨水と一緒に不安も溜まってきた。水けのわるい心とは長い付き合いになる。どうせなら荻原が日暮れまでずに絶望する妄想を楽しもう。生きるのが下手な人間ならではの時間の無駄遣いなのだ。

 十四時三十二分。ついに荻原が姿をあらわした。長袖のネイビーカットソーにベージュのフレアスカート、ストラップサンダル、星型のネックレス。見た目は様変わりしているが、こちらに向かって歩を進める女性のあしの動きは疑いようもなく……。

 判断材料に、脚、を用いたのは荻原の容姿に関する明瞭な記憶がなかったという一点に尽きる。俺は背中ばかりを見ていたし、彼女を襲ったときは激情に支配されていたので、おぼろげな輪郭をなぞるのがせいぜいといったところ。

 要するに俺にとって私服の荻原は別人ということになる。彼女がどのようなメイクで、どのような恰好であらわれても「様変わりした」と捉えただろう。

 まともな精神状態で対峙するのは初かもな、と心中で呟き、彼女の視界に入るように移動する。

 荻原は小さく手を挙げ、わずかに歩くペースを早める。彼女は軒下のウッドデッキに腰かけ、綺麗に傘を巻いてたたむと、俺との距離を詰めた。


「雨でバス停が混雑してたんだ」と電話越しより半オクターブほど高い声で弁解する。「待たせちゃったかな」

「このくらいなんでもないさ。荻原を七年も待たせてしまったことにくらべたらね」

「七年かぁ……。ほんとに長かった」

「俺は一瞬に感じるよ。満ち足りた日々とは呼べなかったから。俺の人生は干からびたスポンジみたいで笑えてくる」

「わたしにそれいう?」

「今のは忘れてくれ」俺は軽はずみな発言を訂正する。「ふつうに幸せだった」


 俺という人間は、自分の痛みには人一倍敏感なくせに、どうしてこうも他人の痛みに鈍いのか。


「深刻そうな顔をしなくて大丈夫だよ。わたしは気にしてないし、気にしてるって思われるほうが嫌だな」


 サンダルをぶらぶらと前後に揺すりながら、荻原はいった。

 もっともらしく聞こえるけれど、この程度の嘘を見逃すわけがない。痛々しい悲鳴じりの強がりだ。

 彼女の強がりが、俺はうれしかった。

 過去を乗り越えた――と表現するのはいささか不適切に思える。荻原の人生はたったの一文で描写できるほど軽くない。それでも暗い過去に呪われず、前を向いて生きていると知れたのは大きな収穫であった。


「荻原のいうとおりだ」ついつい思考に没頭してしまうせいで下がってきた視線をもとの高さに戻す。

「……これ?」荻原は袖から露出した自身の肌をさすった。「わたしにしては勇気を出したつもり」


 どうやら腕を見ていると思われたらしい。長袖のカットソーが軽くまくられている。七、八分くらいの長さ。

 浅い外傷は治っているのかもしれない。時間では治せない透明な傷が長袖の下にはあるのだ。

 その透明な傷は、ふとした瞬間に訪れるフラッシュバックに伴い、幻肢痛に似た症状を引き起こす。

 皮膚の深部に根を張る古傷を、彼女は見せまいとするのだろう。

 

「とても魅力的だよ。でも用心してくれ。感情をコントロールできない幼稚な男がここに座っている。果たして我慢できる保証がない。なにしろ、俺には前科があるからな」

「ひどいよねー。暴力には慣れているけど、傷ついたんだよ?」

「……ろくでなしだと自覚してる」

「懐かしいな。あの日はっけ」

「そのことなんだけど」と俺は切りだしかけ、過去の話を掘りかえすべきか逡巡する。「……やっぱりなんでもない。いいたかった内容を忘れてしまった。なんていうか、荻原はすごいと思ったんだ。懐かしいって言葉にしてしまえる強さを、心からたたえたい」

 

 荻原と会い、答えは決まった。

 俺を庇った理由を直接きだすことを再会の目的の一つとしていたが、やめておこう。

 純粋に楽しんだほうが互いのためだ。


「強くないよ。わたしは周りの視線が怖くてたまらない。今でも長袖じゃないと外を歩けないの。窪田くんには見られているから、平気だとは思うけど……他のひとの視線はだめかな」


 かぶりを振って弱音を吐露する彼女に、惨めな身の上話をおくってやる。


「俺は半袖で歩けるが、ときどき外の歩きかたを忘れてしまう。トラウマもないのに引きこもってばかりで、会社を欠勤している。本来なら今日も出社していなきゃおかしいのにな。遠からず失業するだろうね。そこで待ち受けるのは酒びたりの日々だ。絵に描いたように坂道を転げ落ちていく。対してきみは、二本の足で歩いている。きっと町中の人間が、荻原を称賛する。俺は褒められるどころか世間の笑いもの……この埋まらない差が荻原の強さの証明になる」


 一人、自堕落な生活を送る俺を褒めそうな女の子を知っている。あれは例外だ。


「窪田くんなりの褒め言葉として受け取っておくよ。……ここで提案があります。きみとは明るい話をしたいな」

「賛成だ」

「あっ、窪田くんの電話びっくりしたんだよ。あと沙耶ちゃんだっけ。お友達の。わたしもなに話せばいいんだーって。頭が真っ白だったから、助けてもらったな」

「よく助けてもらってる」

「大事なひとなんだ?」

「うん。とても大事なひとだ。仲良くなれたらと思っているが……どうもいまいち伝えられなくて」


 自分のものとは思えないくらいにすらすらと言葉が出てくる。俺たちは気の置けない姉弟のようだった。


「恋愛相談だねー」

「あー……久しぶりに会ったひとにするものではないか」

「別にいいよ、わたし、きみの恋には興味あるし」


 学校の帰り道に交わすような、若々しくもありふれた話題に変わる。俺たちは、二人の距離を凍結していた分厚い氷をかし、高校三年生の精神で語りあうことを選んだ。

 もしも荻原が虐待を受けず、俺が事件を起こさなかったら。別のきっかけで親交を深めた俺たち。同じ駅で降車した彼女は、俺にこういうのだ。


「ところで。窪田くんには気になるひとがいるんだってね?」「やぶから棒だな。まぁ否定はしない」「だれなんだい」「きみの想像に任せるよ」「よかったら相談に乗ってあげようか?」「俺以外に友達のいない荻原が相談相手ね。お礼は友達のつくりかたでどうだ」「うるさいなー」


 引っ越すことにした、ではなくて。あるべき二人の姿だと俺は思う。だから少しでも多く交わしたい。

 何一つの意味もなく、刹那的な楽しみを追い求める、青い会話。初めから結末が用意されていたみたいに、俺たちは失くした青色を塗り直していった。

 再会の終わりはすぐにやってきた。 

 公園の時計が十六時を指したとき、彼女は名残惜しそうに俺を見つめ、傘を開いた。


「食事にでも行けたらよかったんだけど、時間なくてごめんね」

「急に誘ったのは俺のほうだ。今日は話せただけで満足だった」

「また会う気なんだ」

「荻原さえよければ何度でも」

「おおぅ。きみも成長したね。頑張ったみたいでよろしい」


 といって荻原は目を細めた。視線は東屋のはりに向けられていた。


「窪田くんに会いにきて正解だった」

「俺もだ」

「明日さ、うちに来てもらえないかな。今日は忙しいけど、明日なら大丈夫だから。窪田くんとはゆっくり話がしたいし」

「もちろん。荻原がいいなら俺は喜んでいかせてもらうよ」


 二人並んで、傘をぶつけ合い、帰路にく。俺は幸福を噛みしめる。息苦しさがなくなったのは、沙耶のメッセージボトルの効力だ。

 そんな俺たちのあいだに割って入るようにして、音が駆け抜ける。不意に聴こえたピアノの旋律に身が硬くなる。


「あれ――」 


 頓狂とんきょうな声を上げたのは俺だったのか。荻原だったのか。

 薄々勘づいていた。俺が荻原を七年間も忘れられなかったということは、同様に彼女も俺を忘れられなかった可能性があることに。そしてそれは、必ずしも好意的な感情によるとは限らない。

 突然世界が優しくなったりはしないように、虫のいい展開ばかり散りばめられた物語が現実に転がっているものか。

 だが願わくば、この瞬間だけは、ストリートピアノの奏者が仲野沙耶ではありませんように。


 




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