きおく泥棒はいいました 3
荻原宅の侵入に成功したのは、彼女を襲ってから三十分以上が経過した後のことだ。金属バットと金槌を購入するために近場のホームセンターを経由したので、大幅な狂いが生じた。
立ち去った直後に通報されていたら危なかったが、あの様子では落ち着くまでに相当な時間を要するか。
寝室でいびきをかいて眠りこける男を発見したとき、俺は自分の運の良さにほくそ笑んだ。リビングのテーブルにビールの空き缶が散乱していたので、昼間から飲んでいたのならこの時間帯に睡魔に
俺は金属バットを握りしめ、今一度、自分の選択が絶望的に間違っていることを確認する。
この男を殺害すれば、俺は未来を失う。両親はつらい思いをするし、悲しませることだろう。
未来だけでなく積み上げてきた過去も踏みにじる。親戚や友人には忌避される。絶対にやってはいけないことだ。
荻原にとっても義父の
深くは考えないでおこう。どうでもいい少女の人生の転びかたでいちいち悩んでいるようでは、人殺しはできない。
――先ほどの暴行によって荻原が俺を恨んでくれたら。逮捕された俺に、ざまあみろ、といってくれるはずだ。
最悪の選択による最良の結末を思い描き、俺はベッドに忍び寄った。自分の心臓と気管の歓喜する音がうるさい。
ついに俺は金属バットを致命傷を与えうる高さまで振りかぶる。興奮が高まる。怒りの感情が
この
殺意を再点火してくれたものは、皮肉なことに道徳だった。
ひとの命は尊いもの。
ひとを傷つけてはならない。
ひとを殺してはならない。
秩序を
ひとを殺したい人間の価値観は存在を許されないらしい。法は許さないが、俺は許そう。
荻原唯を大義なく虐待した彼女の義父は間違っていないと俺は思う。彼以外の自由を脅かすことは、彼の自由なのだから。
だから俺は、今から荻原唯を虐待した彼女の義父を特に理由もなく殺す。俺以外の
正しくないと分かりきっているならば、こうして正当化するしかないのだ。思い違いの正義に陶酔しきった俺は、男の眉間めがけて凶器を振り下ろす。
鈍い音が寝室を切り裂いた。後に出逢う天才ピアニストの少女が鳴らすのが奇跡の音なら、空っぽな俺が鳴らしたのは悲劇の音だ。
男の呻き声を
肩で息をしながら、状況を確認する。寝具や壁は飛散した血液による痕で汚れてしまったが、荻原の身体についた傷の数よりは少ない。
死ぬだけで済んだのだからましなほうだ。制服は上下とも返り血に染まっていたので遺体の顔面に被せた。荻原に無残な義父の
指紋のついた凶器も近くに捨て置いた。証拠隠滅をするつもりはなく、むしろ荻原が疑われないように証拠を残す必要があった。
それから汚れを落とすためにシャワーを借りた。冷静に脳は作動していたが、シャンプーとボディソープを使う手が震えていたことに苦笑する。
さすがに裸で外に出るのは
人殺しとなった後に見た世界は以前とはまるで違って映った。白色だった風景に色彩がつけられたようだ。
色のある世界に、俺はいる。例えようのない生の
信じられないことに、俺は他者を
この歓びに居ても立ってもいられなくなる。
俺は駆けた。
疲労も忘れ、秋めいた町を駆けずって、近隣を流れる河川に
俺は生きている! おまえらのいう正義の理屈では少女一人も救いだせなかっただろう! 俺は許されざる悪によって成し遂げたぞ!
喉が枯れるまで喚き散らし、俺は自らの意思で川に飛び込んだ。しかし身体が川底から浮上し始めるあたりで、異変に気づく。
疲労のせいか手足がいうことを
地獄とやらがあるのなら、ほどなく俺はあの男と再会するだろう。そうしたら、もう一度殺せるじゃないか――
そこからは息苦しさだけしか
*
天井を見つめながら、七年の凍結から融解した記憶を整理する。あの日、俺は殺人で快楽を得た。それは怒りが罪悪感を薄めるために見せた
俺が意識を手放してから記憶喪失になるまでの過程は、谷崎先生の推測と一致しているのだろう。
これほどの出来事があったのなら、荻原を忘れられないのは当然だ。異常な出来事に対する正常な反応だっただけ。
落ち着いてくると様々な場面でのピースが
自室で沙耶に〈チッペンデールと青い猫〉の表紙を描いてもらったとき。幸福を拒絶するように胸が痛み、首を絞められる感覚に苛まれたのは、
自殺したハルさんの気持ちがわかったのも、
「
ボランティアで沙耶がいっていたことを思い出し、俺は独りごちる。
「たまげたよ。きみたち二人は人殺しだったんだね」と沙耶はうれしそうにいった。
「荻原は……俺を庇っただけだ」
現場に証拠を残したにも関わらず、荻原は殺人罪で逮捕されている。遺体ごと証拠を消し去るために彼女は自宅に火を放った。俺の殺人をなかったことにした。
「荻原唯はきみの罪を殺したんだよ。七年前に生まれた窪田文彦という名前の殺人鬼は、彼女が燃やしてしまった。れっきとした殺人だ」
「そんなものは屁理屈じゃないか」
「屁理屈がなければきみは大変なことになっただろうね。幸いというべきかわからないけど、荻原唯は未成年で、その身体には虐待の動かぬ証拠が大量にあった。遺体に火を放っているし、凶器を用意する計画性もみられ、残虐な殺しかたではあったが、境遇を
彼女の母親が事件の五十日前に失踪していた背景があること、母親の目の届かないところで性的虐待を受けていたこと、それらはほとんど報道されなかったけれど、例外的な減刑に貢献したんだ。
報道されなかったというより、
「捏造された……」と俺は繰り返す。
「わるい意味じゃないよ。
過去に尊属殺人を改正する契機となった『栃木実父殺し事件』でも、当時の報道機関は実父による鬼畜の所業をほとんど報道しなかった。
荻原唯の場合にしても、ありふれた事件であればあるほど、人々には忘れられやすい。そういった
だから文彦は今まで荻原唯の事件を知らずにいられたのか。学校側もおそらく生徒に悟られないように徹底した。彼女は嫌われていたから、自宅を知る生徒はおらず、転校したというだけで処理できた。
間違った歯車がこんなにも綺麗に噛み合うなんて……奇跡としかいいようがない」
事実を歪めるフェイクニュース。マスメディアの偏向報道。負の側面ばかりを見ているけれど、使いようによっては誰かを残酷な事実から救いだすことができる。
罪を被り殺人犯となった荻原は、優しい嘘が成り立たせた奇跡によって保護された。
あろうことか奇跡は俺を七年間も記憶喪失にするという、真相を
「まァ自首するのは手遅れだし、荻原唯がきみを庇ったことからそれを望んでいないのは明白。奇跡のおかげで彼女の経歴にはたいした傷はつかなかった。素晴らしい結末じゃないか」
第三者の視点で語るなら結末は素晴らしいものといえる。だが当人にとっては変えようのない真実が存在する。
記憶を
さらに頭蓋骨を叩き潰す感覚よりも、荻原のことを悔いている自分が怖い。
「俺は人殺しだ。沙耶は
「軽蔑したらもったいないじゃん!」と沙耶は勢いよく椅子から立ち上がり、ほっそりとした手で俺の頬を包んだ。というより、掴んだ、のほうが正しい。「文彦は最高だよ。人殺しはもちろん、殺された人とも話すのは初めてなんだ」
鼻息がかかるくらいに顔を寄せる。唇が
沙耶はすこし笑った。
「きみはひねくれているから、荻原唯を救うのにたくさんの言い訳が必要だった。選んだ方法は最悪だけど、美しく装飾すれば、きみは自分の人生を捨てて彼女の人生を
そして荻原唯も自分の人生を捨ててきみの人生を護った。心を読まなくてもだいたいの見当はつくけどね」
俺は首を傾げる。
自分を暴行した人間を庇う。あの事件で荻原は深く傷ついたはず。しかも現場を見て取り乱したであろう彼女が、瞬時に判断を下せたのは不思議でならない。
「きみには一生かかってもわからないから、考えても時間の無駄。女の子の心理がわかるのは女の子だけなのさ」
「もしかして馬鹿にしてる?」
「うん、馬鹿にしてる。まァそういうわけだからさ、文彦を生かすも殺すも荻原唯が決めること。勝手に思いつめて自殺したらいけないよ」
「自殺はしないけど……」
幸せになってはいけない人間だとは、思う。
「あのさぁ」と沙耶は呆れた口調でいう。「耳を塞いで生きてたってなーんにもいいことないんだよ。幸せになれるかどうかは神様が決めてくれる。私たちはただ息を吸って歩けばいい」
「沙耶のように前を向いて歩けるひとばかりだったら、自殺者はいない。なかには後ろとか、足元をみないと上手く歩けないひともいる」
俺は歩きかたどころか、息の吸いかたもわからなくなるときがある。それが今だった。
「めんどくさいからこうしよう。きおく泥棒に盗んでもらうんだ」
「聞いたことのある名前だ」
「〈きおく泥棒はいいました〉っていう童話……絵本かな。文彦の記憶に混入していたんだけど、憶えてない?」
「……忘れてた。特別な本だったのに」
その本が特別である理由を沙耶に話す。
俺の通っていた小学校では国語教育の一環として、「物語を書いてみよう」という宿題が長期休暇中に出た。
地域の小学校が合同で行うイベントなのだが、優秀な作品はまとめて学内通信に掲載されるのだ。
そこで掲載されたのが〈きおく泥棒はいいました〉だった。ひとの記憶を盗むことができる「きおく泥棒」にまつわる童話なのだが、同じ小学生とは思えないほどに卓越した文章と内容に度肝を抜かれた。
「俺は子どもだったから作者には興味なくて、誰が書いたのか思い出せないけど、物語は何度も読み返したんだ。
小学生のときの俺は本が嫌いで、
作者から一方的に語りかけられる感覚を毛嫌いしていた俺が、物語に興味を持ったのは同じ小学生が書いた話だった。このとき夢中になって読み
沙耶はピアノの鍵盤
訊ねようとすると雰囲気を察したのか顔を上げ、「待ってて」といったので俺は待った。
紙の上を万年筆が滑る音を聴くのは心地よかった。空調の効いていない夏の教室の暑さに汗が滴る。
あまり発汗しない体質の彼女も汗ばんでいた。しっとりとした肌に視線を吸い込まれていると、沙耶は
「さて準備はできたよ。これからきみが溺れた川に向かおう」と
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