きおく泥棒はいいました 2


 俺たちは徒歩で駅に向かったため、地元の高校には電車の乗り継ぎを含めて二時間ほどかけて到着した。フェルメールの時代には電車もなかったけれど、だからといって地元まで歩くのは正気の沙汰ではない。そのあたりの常識を沙耶が持ち合わせていたことに助けられた。

 高校は勾配こうばいのきつい坂の途中にあり、古くさい住宅がその周囲で退屈そうにひしめいている。田畑と案山子かかしが連なる田舎の景色が羨ましいくらい、かえって語るところのない寂寥感に満ちた町だ。

 運動部のえるような声を堪能しつつ、職員室に足を運んだ。廊下の壁は黒ずみが目立ち、階段の手すりには皮脂や砂泥の跡がくっきりと残っており、潔癖症でなくともおびただしい数のばい菌を連想させられる。

 夏季休暇中なので出勤している教職員は少なく、室内はコーヒーのにおいが充満していた。

 来室の理由を訊ねにきたのは近藤こんどうという女性の教師だった。葛城先生にうかがいたい話があるむねを伝えたところ、彼女はためらいがちに口をひらいた。


「ごめんなさいね。葛城先生は今年転勤されたのよ」

「そうでしたか……」


 期待していなかったといえば嘘になる。自分たちの思い通りに事態が動かない歯がゆさに苛立った。いつだって現実は予定調和を嘲笑あざわらう。それだけの話だ。「運が悪かった」といって沙耶と顔を見合わせた。

 用は済んだので退室しようとすると近藤先生に声をかけられた。「まって」と呟きながらこめかみに指を当てる仕草が可愛らしい。


「ちょっと。あなたの名前は?」

「えと、窪田です」

「窪田くん……窪田……あぁ!」と彼女は手を叩き、デスクの抽斗ひきだしから折り目のついた封筒を掴み取った。

 宛名あてなが俺のもので間違っていないかを確かめた後、差し出された封筒をおずおずと受け取る。


「それ、葛城先生にあなたが来室したら渡してほしいと頼まれたのよ。前々から教え子が訪ねてくることを知っていらしたようだけど、何かあったの?」


 別になんでもないです。と俺は答えをはぐらかそうとしたが、「結婚の報告だよ」と沙耶がいった。

 とんでもない内容にどきりとする。

 近藤先生は俺たちを交互に見やり、「まぁ」といったきりそれ以上の追求はしなかった。

 忘れていたが仲野沙耶という女の子は、なんでもないふうにとんでもないことをいってのける。

 顔色一つ変えずに平然と嘘がつけるものだと、俺は感心する。どうやら現実は予定調和にすこしは微笑んでくれるらしい。



 次に向かったのは二階の渡り廊下で繋がった特別教室棟にある音楽室だった。吹奏楽部と入れ替わりになるかたちで教室に入る。

 部員から鍵を入手する際も、「夏休み期間にピアノの調律を依頼された調律師」という違和感のない嘘をついた。沙耶は詐欺師だったのではないかと疑いたくなるほど鮮やかな手口だ。


「ちなみにピアノの調律はできるのか?」と俺は何となく訊ねた。


「できないできない。音叉おんさを鳴らして四十九番目のラの音を四百四十ヘルツに合わせて音階を整えるんだよ? 私なら吐いちゃう。ピアノはそんなこと望んでないし」


 沙耶はぴしゃりと否定する。


「ピアノは何も望まない」

「ううん、ピアノは誰かに弾いてほしいだけ。自分の鍵盤が沈んだら音が鳴る。それだけで満足なんだ。きみだって、黒のインクじゃなくても小説は書けるでしょう」

「書けるけどインクは黒のほうが読みやすくないか」


 俺なら全文がピンク色の小説を読むのは遠慮したい。

 それと同じで、ピアノも「四十九番目のラ」が四百四十ヘルツのほうが聴きやすいだけでは? 


「ぜんぶ人間の都合だよ。私はあくまで楽器の話をしてるんだ」

「でも楽器は人間のためにあるのだろう」

「はァ……きみのような正論を振りかざす大人たちが、いたいけな子どもに絶対音感なんていうかせめようとするんだろうね。私たちはまず、音の世界に法律がないことを教えなきゃいけないのに、そうやって躍起になって楽器の音色に点数をつけるんだ。

 弦を弾けば音が鳴る! 鍵盤を叩けば音が鳴る! 声帯を震わせれば声が出る! これこそが本物の音楽だということを忘れてしまったきみたちは厚顔無恥にもほどがあると思わないの?」


 とてつもない言い回しで罵倒されてしまった。逆鱗げきりんに触れるとはこのことだと反省する。


「……知らなかったんだ。ごめん」


 沙耶の神経を逆なでしないように注意を払う。今日は謝ってばかりな気がした。


「文彦の『理由はよくわからないけど雰囲気で謝っておく』みたいなところは、けっこう好きだよ」

「いいたいことはわかったつもりだ。楽器は人間のためにあるのではなく、音楽のために楽器があるってことだろう」


 音楽が自分たちのものだと信じて疑わない人間の傲慢ごうまんさに、彼女が怒ったのだということは伝わってきた。

 しかし沙耶がどれだけ美しく崇高な思想をかかげていても、人間社会で生きていくにはビジネスの側面を避けられない。

 金にならない芸術よりも、金になる芸術を求められるのはしかたないことだ。芸術が生業なりわいになればなるほど、彼女のいう本物の音楽とは乖離かいりした人工物が出来上がる。


「わかってさえいればいい。たとえお金と名声に目がくらんで大切なことが見えなくなったとしてもね。文彦はいい音楽家になれるよ」

「俺は音楽家にはならないけど、芸術家のくくりでは考えさせられる」


 沙耶の主張は音楽にかぎった話じゃない。芸術至上主義そのものなのだ。芸術は富や名声を得たり、社会の秩序を守るための目的や手段ではなく、それ自体に価値があるのだという。

 芸術のための芸術。天からパンと飲み水が降ってきて、飢えのなくなった世界なら支持できる。

 だが地球の資源が有限であるかぎり、絶対に正しいとはいえないし、俺には壮大すぎて頭がこんがらがってくるのだ。

 俺は小説のことしかわからない。文学のための小説を書くのか、大衆のための小説を書くのか、自分のための小説か、或いはもっと漠然とした何かに向けている小説か……実のところ小説のこともわかってない。

 何かの「ための」小説は、それ以外を拒絶してしまう。何かのための芸術は、それ以外を受け入れない。

 そのことを沙耶もわかっているから、量産品の芸術を否定せず、音楽は自由であることだけを主張した。

 優柔不断な俺の背中を押してくれてもいる。あとはきみが選ぶことだと。

 自分の道を突き進んだスモークさんがいて、芸術至上主義の沙耶がいる。俺はどちらにもなれない。


「……けど、俺は沙耶みたいには考えられない。音楽も、文学も、笑ってはくれないだろ。俺はひとが笑ってくれたほうが嬉しい。きみが俺の小説を読んで、面白いといってくれたときに嬉しかった」

 

 自分の本音を口に出すと、地に足がつく感覚があった。吹けば飛んでしまいそうにふらついた意思が、確固たる意志として定まったように。

 これから沙耶の力でどのような過去が明るみになったとしても、俺はもう筆を折ることはない。


 その決意をさせるために彼女は――「あはははははっ!」


 無情にも俺の思考は沙耶の笑い声によってかき消された。おかしくてたまらない、というふうに腹部をおさえて笑う。

 笑ってくれたほうが嬉しいとはいったものの、これはちょっと違うのではないだろうか。

 

「ふふ、きみは馬鹿だねー」


 馬鹿だ、馬鹿だ。というわりに軽やかな足取りでチッペンデールのピアノ椅子にまたがる。


「始めようか。きみの記憶の盗掘をね」

「お手柔らかにお願いするよ」

「先に断っておくけど、私の心を読む力は万能ではないから、文彦の感情がどの記憶に繋がっているのかまでは知らないよ。心の奥で眠っているつよい感情を揺さぶったとき、思い出すのは昔好きだった女の子の記憶かもしれないし、自慰行為による快楽の記憶かもね。しかも私に知られてしまう」


 鍵盤を指でなぞりながら、沙耶は意地の悪い笑みを浮かべる。いつも通りで安心した。


「俺にリスクしかないな」

「やるからには好き放題、覗かせてもらおう」

「大丈夫だ。沙耶はそんなことしない」

「……つまんない」


 ぼそりと沙耶はいい、一斉に指を沈めた。

 天才のピアノを静かな場所で聴くのは五年ぶりになる。ベートーヴェンの「テンペスト」で始まり、ショパン、パッヘルベル、チャイコフスキーと曲は変化していく。やがて彼女が自ら作曲した〈透明人間のために〉を演奏し、生き物のようにうごめく音は独特の旋律となって鼓膜を通過する。

 心を掴まれたときとは違う。似ているようで全く異質だ。聴覚をかいし、彼女の指が直接心を触っているような、不思議な錯覚に陥っていた。

 沙耶が演奏に緩急をつけるたびに、錯覚であったはずのものが、徐々にかたちを持ち始める。

 思いがけず、強烈な感情が心に生まれる。ぐちゃぐちゃで禍々しい怪物のようなものが産声をあげる。曲調が激しくなると血液が沸騰しそうなほどに全身が打ち震えていた。


 それは怒りだった。

 

 怒りの感情が強まるにつれ、どろりとにごった臙脂えんじ色の記憶の断片がよみがえる。凄まじい怒りの奔流が脳内に雪崩なだれ込む。七年前にうしなった記憶を余すことなく思い出した頃合いを見計らって、沙耶は手を止めた。

 感情と記憶を共有した彼女の鼻息はあらく、二人の冷めやらぬ興奮が音楽室の静寂を破りつづけた。

 額にうっすらとにじんだ汗を拭い、俺は手にした真実を言葉にする。


「荻原の父親を殺したのは、俺だったのか」





 昔から自分は冷めた人間だと思っていた。冷たく空っぽでがらんどうな人間。芯がなく常に他人の意見をあおぎ、その場の空気に溶け込むことだけを考える。無色透明を徹底する。

 昨日の自分をコピーし、今日にペーストするだけ。仲間はそこそこ、成績もそこそこ、未来もそこそこ。恋人もできた。

 周囲が毒なら俺も毒になり、周囲が笑えば俺も笑う。恋人には器用に生きているといわれたが、同調圧力が辛うじて「自分自身のようなもの」を形成してくれるだけで、生きているかさえ怪しいのだ。

 内心ではうんざりするほど想像力の足らない女だとあざけった。寄り添ってくれた女性に愛とよべる執着すら抱けないのだから、上手くいくはずもあるまい。

 しばらくすると擬態に失敗し、他人を傷つける。心は痛まない。カメレオンになりきれない自分にすらも興味がない。

 身の回りに起こる出来事を、高速道路の渋滞で苛立つ人間たちの頭上で優雅に旋回するとんびのように俯瞰ふかん的に見おろし、傍観者として生き、有象無象の波にまれて死んでいくのだと思っていた。

 しかし。

 荻原おぎわらゆいは、それを許してはくれなかった。


「荻原ッ!」


 怒鳴りつけるように他人の名前を呼んだのは、生まれて初めてだ。公園の車止めの前で振り返った荻原は、「どうしたの?」といった。

 俺はできるだけ感情を気取られないように顔を伏せ、接近し、無防備に垂れた彼女の腕を掴む。

 付いてきてほしい、とだけ伝える。

 公園の付近には空き地があり、そこに赤錆あかさびとつた類がびっしりと張りついたプレハブ小屋が放置されているのは、幼少期をこの地区で過ごした人間なら知っている。

 連れ込んだ先で荻原と向かい合ったとき、はっと息をのむ声が聞こえた。本能が自分の身に迫る危険を察知したのだ。おそらく俺は、彼女に危害を加える人間と同じ表情をしていただろうから。

 しかしながら逃げるには遅すぎた。咄嗟に腕を振り払おうとする荻原を力任せに押し倒し、制服のシャツに手をかける。劣情はなかった。

 激しく抵抗され、「やめて」と必死に訴える口を乱暴に塞ぐ。俺は荻原の表情が恐怖と涙でぼろぼろになっていくのを、冷めた目で見おろす。心は痛まない。大丈夫だ。背中越しの「荻原唯」という偶像には憧れを抱いていたが、生身は俺にとってどうでもいい存在に過ぎない。なら――なぜ俺は怒っている。

 冷えきった心をかす熱はどこからやってくる。どうして鋭い声が出てくる。お願いだ、教えてくれ。俺はどうしてしまったんだ。

 きみには見せてもいいって、なんで特別扱いしたんだよ。喋ったこともなく、ただ後ろを付いて回るだけの情けない男だったのに。

 わからないことばかりが増える。荻原もわからない。てのひらを押しつけて口を塞いではいるが、みついて助けを求めればいいのに……本気で抵抗してくれ。頼むから。「なんで俺のこと気遣ってんだよ!」

 返事はない。だんだんと荻原の抵抗は弱くなり、ついに腕をひろげて諦めた。好きに脱がせばいいとでもいっているようだった。

 俺は一枚ずつ、彼女の衣服を脱がす。自分が罪を犯している自覚はあったが、順序とやらを律儀にまもり愛をはぐくむ時間はなかった。この怒りを最も効率的に増幅させる方法は、こうするしかないのだ。

 下着に手をかけると彼女は首を激しく振ったが、「破りたくないから」といって従わせた。

 あらわになった肌には、無数の暴力のあとがみられた。胸から腹部には痣。背中には火傷。太腿ふとももには切り傷。性的暴行もきっとあるだろう。荻原は鼻をすすりながら「ごめんなさい」といった。謝るんじゃねぇよ、と俺は憤る。

 普通ではないと思っていた女の子が、どこまでも普通であることに気づかされ、俺は絶望させられる。

 果てに、決断する。荻原唯の義父をこの手で殺してやろうと。



 荻原が姻族からどれほど酷い仕打ちを受けていたとしても、自分の人生を捨ててまで救いだす理由にはならない。たいていは見て見ぬふりをするか、法に則って児童相談所や警察に通報するくらいだからだ。

 ましてや彼女は愛してもいないただのクラスメイト。正義感でどうにかするのは創作の世界だけに伝わるおとぎ話。

 俺は息をするだけで精一杯の人間だから他人を救う気はさらさらない。荻原を可哀想だとは思うが、それ以上に行動できる人間のほうがいかれている。

 だってそうだろ。そうじゃなかったら、世の中がこんなにも他人の悲鳴に無関心をつらぬけるはずがない。

 そんな無関心人間の一人だった俺が、荻原の義父を殺害するに至った理由を説明するのは難しい。

 たぶん理由はなかったのだ。みにくく膨れあがった怒りが通り魔的な凶行に及ばせた。

 どうにもならない怒りと絶望に支配された人間の取りうる行動は、決して多くない。その多くない選択肢のなかで俺が選んだのは、誰もが思いつく短絡的で稚拙な行為。それは他者を傷つけること。他害衝動。殺す相手は誰でもよく、たまたま荻原の義父だった。

 これで納得してくれないか。そうしないと俺が生身の荻原唯を愛していることになってしまう。

 俺は衝動のままに傷だらけの身体をまさぐった。怒りを忘れないように。絶望を忘れないように。

 両手に殺意を馴染ませるように、柔らかい肌に触れた。荻原には新たな傷を残すかもしれないがどうでもいい。

 そうして彼女の身体から退いて拘束を解き、制服の内ポケットから生徒手帳を抜き取る。住所はわかった。あとは凶器……。

 未だに泣き止まない荻原を一瞥いちべつし、俺はプレハブ小屋を後にする。



 

 

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