きおく泥棒はいいました


 もしやと思い、急ぎ足でアパートに向かうと部屋の鍵が開いていた。土間に脱ぎ散らかされたサンダルを見て、深いため息がひとりでにとぐろを巻く。けゆく氷山を目撃したホッキョクグマも同じくらい深いため息を漏らすに違いない。

 次いでドアの開閉音を聞きつけた沙耶が、「文彦!」と声を張りながら物凄い剣幕で詰め寄ってくる。

  

「きみが戸締りをおこたったせいで原稿がびしょ濡れ!」


 破れかかっている原稿の束を突き出していう。半月にわたり行方をくらました人間のものとは思えない口ぶりで、俺は呆気にとられる。わずかに遅れてじわじわと笑いが込み上げてきた。


「ごめん、ごめん。雨が降るとは思わなかったから」


 俺の取ってつけた弁明に、沙耶は眉を吊り上げる。はらわたの煮えかえる音が今にも聴こえてきそうだった。

 

「いいかい、文彦。アデニン、グアニン、シトシン、チミン……かつて神様は四種類の塩基と奇跡を組み合わせて生命をつくりだした。

 数ある生命のなかでもとりわけ人間という種族を愛した神様は、ミトコンドリア・イブとも称される女性にすべてを混ぜれば白色になる三つの光と、それらを反射することでみえる三つの色を与えたんだ。

 それだけでは飽き足らず、神様は自らに似せようとイブの心に七つの大罪をきざみつけた。ミケランジェロが手掛けた『システィーナ礼拝堂の天井画』には原罪げんざいと楽園追放、ダンテの『神曲プルガトリオ』ではあがなうべき七つの罪を冠した山としてあるように!

 人類が神様の寵愛ちょうあいによって押しつけられた罪だらけの二重螺旋らせん辿たどる過程で、先祖から脈々と受け継いだ七つの大罪のうちの一つは、文彦もわかるよね?」


 でたらめな話を早口でまくし立てる沙耶の意図は、わからない。


「全然わからないけど」

「私の楽しみを奪うことだよ。きみは戸締りを怠ったことで、私の楽しみの一つを奪うという大罪を犯した!」


 それは不注意、すなわち怠惰の罪なのではないか。と突っ込みたくなったがこらえる。


「あぁ、そう」俺は自分のひたいを指で押さえた。「他にも余罪がありそうだ」


「んーまァ……久しぶりに私が帰ってきたのに、おかえり、すらもいってくれないことかな」


 沙耶は意地の悪い笑みを浮かべていった。そういわれると、俺は頭をくしかなかった。「……おかえり」


「うん、ただいま。きみの罪はゆるしてあげよう。私は寛大な心の持ち主だからね」

「ありがたいよ。この場合は何かしらを神饌しんせんとして沙耶にそなえておいたほうがいいのかな?」

「お金か高級そうなものがいいな。文彦の財布がとびきりの悲鳴をあげるやつ。ついでにきみの悲鳴がきこえると私はうれしい」

「欲望に忠実すぎないか」

「それはそうと、執筆がはかどっていないみたいだね。スランプ?」

「きみのせいだよ。毎日のように訪ねてきた女の子が、二週間以上も音信不通になったら誰だって心配する。もっとも別の事情が重なってはいたけれど」


 別の事情については、スモークさんのおかげでいくらか取り除かれた。

 しかし犯行当時の明瞭な記憶はなく、気持ち悪さだけが胸のなかでのたくっている。

 沙耶はやや申し訳なさそうに目を伏せた。


「……ごめんね。遊んでいたわけじゃないから。わけあって、きみの大学の心理学教授のところに滞在してた」

「谷崎先生?」

「そうそう。ほんとうは用事が済めば帰ろうと思ったんだけど、揉めごとになって帰るにかえれず……」


 明らかに不自然な態度だった。説明もまわりくどく、要領を得ない。


「痴情のもつれとか」

「あのねぇ……これも教えてなかったけれど、私の旧姓は谷崎。つまるところ私は心理学教授である谷崎たにざき雅也まさやの娘なんだよ」

「それできみの名前は、さや、なのか」


 沙耶が谷崎先生の娘であるならば、彼女がひとの心を読めることに納得がいく。五年前のボランティアで感じた智香ともかさんの温かい感情は、二人が親密な付き合いをしていた過去があったためだ。

 何よりも俺を驚かせたのは、谷崎先生と沙耶との血のつながりが判明したことよりも、彼のようなひとがピロウズの「ストレンジカメレオン」を聴いていたということ。

 生きにくさとは無縁そうにみえても、ひとは簡単に払拭ふっしょくできない闇を一つくらいは抱えている。一つや二つどころではない。いくつもあるのだ。生きていれば解消されない悩みに翻弄ほんろうされる。たいていは忘れてしまうので、真剣に向き合いすぎると徒労に終わるけれど。

 無駄な思考から抜け出した俺は、沙耶に湧きあがった疑問を投げかける。


「ひょっとして、ボランティアできみに逢ったのは」

「偶然じゃない。文彦がボランティアに参加することを知っていて、私は逢いにきたんだ」

「なるほど」


 さして驚くことはなかった。施設で沙耶がピアノを弾いている時間に、谷崎先生と「つえ」の職員が打ち合わせをおこなったか、当日のメンバーを知らされた智香さんが廊下を通りかかるだけで彼女は情報を掴むことができるだろう。心が読める沙耶にとって俺の参加を事前に知ることはそう難しくない。

 だが、顔をみたこともなければ話したこともない人間に逢いにきたというのはおかしな話だ。

 それを肯定するように沙耶は頷いた。


「普通のひとなら興味は持たない。うれしいことに文彦は普通じゃなかった。だから私はきみの心を読みたくなった。きみたちが高校三年生だった十月の末に、ときみの関わりがないか、その真偽を確かめるために。まァ――」


 話しを続けようとする沙耶を、俺は手で制した。


「待ってくれ……荻原が殺人だって?」


 聞き間違いではないか再度確認する。


「とても衝撃的な事件だったよ。日頃の虐待で蓄積されたうらみを晴らすため、荻原唯は義父をむごたらしく殺している。おそらくきみが最後に話した日の夕方だろうね。寝室で就寝中だった義父を金属バットで撲殺し、遺体の顔面を金槌かなづちで五十回以上にわたって叩き潰した後、家ごと燃やしたというのだから、胸の内にはらんだ狂気がどれほど大きかったことか。想像するだけで興奮しちゃう」

「俺は……」

「知らなかった、でしょう。あれだけ大きな事件があって、ニュースにもなって、それはあり得ない」

「ほんとうに記憶がない」


 荻原の事件。記憶をたぐろうとしても、すくいとった水が指の隙間から流れ落ちてしまうようにうまくいかない。

 すると、沙耶はトートバッグの中身をまさぐり、診療記録とおぼしき書類を俺に手渡した。


「お父さんに頼んでカルテを貰ってきたのだけれど、文彦は過去に水難事故で入院したことがあるそうじゃないか」

「恥ずかしいことに」


 公園で荻原と別れた後、俺は河川に転落して死にかけたという恥ずかしいエピソードがある。たまたま河原で休憩していた男性に救助され、三日ほど意識を失っていたらしいので、その間の記憶はない。

 目撃者や自殺につながる動機が見つからず、足を滑らせたのだろうと主治医から説明を受けた。

 敢えてその話にれなかったのは、入院の経験くらいは珍しいものではないし、話したところではじをかくだけなので周りにはいいふらさなかった。

 日常生活に支障をきたすほどの目立った後遺症はなく、十日間ほどで退院し、大学入試にのぞむ受験生の日常に戻った。


「水難事故で記憶喪失になる原因はお父さんから習ったことがあるでしょう」

「低酸素脳症や心的外傷だろ?」

「……うん。荻原唯が逮捕されてから一時間後に、きみは水難事故にった。偶然で片付けるにはできすぎた話だ。

 そこで私のお父さんは、きみが彼女を忘れられないという過去の話を聞いたとき、荻原唯の共犯者だと疑ったんだ。共犯といっても殺害を助けた程度のね。もしそうなら、彼女が義父を惨殺する強烈な視覚情報があり、きみの脳は極度の興奮状態にあっただろうから……注意力が散漫さんまんになった結果、きみはあやまって河川に転落してしまい、心的外傷による防御機制ぼうぎょきせい、もしくは急激に酸素を奪われたことによる低酸素脳症が部分健忘の原因だと推理した」

「都合のいい話だが筋は通っている」


 俺の脳が事故前の数時間の記憶と、それ以降の荻原の情報を無意識に抑圧よくあつしているというのなら強引に説明できる。

 いわれてみると退院後に不審な点が皆無ではなかった。当時の教師たちがこぞって俺を休み時間や放課後に呼び出しては、入院期間中に進んだ授業内容を丁寧ていねいに指導してくれたことだ。進学に力を入れている学校だったので熱心でありがたいとは思っていたが、一人の生徒に対していささか過干渉すぎる。

 空っぽな人間だった俺には目標とする大学はなく、成績も期待されるほどではなかった。

 もし俺が、その殺人事件とやらに加担していたのだとしたら。周囲の大人が勘づき、俺を遠ざけようとしたのか?


「だが――どうにも俺には真実だとは思えない」


 俺が悪夢というかたちで思い出した犯行の一部始終は惨殺の現場ではなく、女の子を暴行するものだ。


「わかってるよ。くらい。心を読めないひとにしては頑張ったほうだけど、お父さんは間違っている。もし荻原唯が激情に身をゆだねて義父を殺害したのなら、まず文彦が殺されていないと辻褄つじつまが合わない」


 心を読む。その恐ろしいまでに理不尽な力に打ちのめされる。悪夢に登場する少女の見覚えのある制服は、母校のものであると予測を立ててはいたが、たったこれだけの情報で荻原だと断言できるのか。

 仮に少女が荻原だった場合、沙耶のいう通り、義父を殺害する前に俺は殺されるだろう。

 たとえ全ての不幸の根源が義父であると歪んだ思考にとらわれたというストーリーを作ったとして、逮捕後の取り調べで「俺に暴行されたこと」が発端だと供述するはずだ。


「私なりに当時の状況を調べてみたんだ。できすぎた水難事故に違和感をいだく刑事はいたそうだが、荻原唯はきみの関与を一切否定しており、会話したことが一度もないと証言している。しかもきみは記憶喪失で、証拠となり得るものは彼女が焼き払ってしまったからね。もともと動機自体に怪しいところはないし、警察もお手上げってわけさ。

 しかしきみには事件直前の彼女と公園で交わした忘れられない会話がある。そしてきみがうしなった数時間のどこかで彼女をおそったが、荻原唯はその事実をかくした。

 なぜ加害者であるきみをかばう必要があったんだろう?

 いったい、きみたちの間に何があったんだろうね。きたなくて美しいものに秘匿された真実が存在すると、アーティストの私は勘繰かんぐらずにはいられない。気になって仕方がないんだ」


 宝物を見つけた子どもみたいに瞳をきらきらと輝かせる沙耶の両手が、俺の肩を掴んだ。

 はやく教えてくれよ。特別な力を持たない俺でもわかるほどに彼女の瞳が語りかける。

 

「記憶喪失ならどうにもならない」


 俺は寄せられた期待をね退ける。待ってましたといわんばかりに、沙耶は自分の胸を叩いた。


「それがどうにかなっちゃうんだよ。わたしたちの感情と記憶はね、密接に結びついている。合鍵を所有するアパートの隣人みたいにね。

 私は心が読めるけれど、虐待を受けた子どもや多くの精神病をわずらっているひとたちのために演奏したところで気休めにもならない。でも記憶喪失だけは違う。たった一瞬でいい。私がピアノを使って正確に当時の感情を揺さぶることができれば、うしなった記憶を思い出させることができる」

「そんなことができるのか」

「……外傷による記憶障害をのぞけば、それが起きるのは忘れなきゃ生きていけない出来事があったから。忘れたままのほうが幸せでいられる。治療の手段としてはあまりにも暴力的だし、おすすめはしないけど、文彦がどうしてもと懇願こんがんするならやってあげよう」


 断れないとわかっていながら、彼女はそんなことをのたまう。


「頼む。俺の記憶を返してくれないか」

「まるで私が盗んだみたいだ」

「べつに深い意味はないよ」

「あながち間違ってはないかも。きみの記憶を脳の許可なく掘り起こすのだから、盗掘とうくつするようなものでしょ」

「それじゃあ、俺は盗まれたがってる変態じゃないか」


 そういいかえすと、沙耶が「へんたい!」といいながら指を差してきた。あはは、とわらって肩を揺らすたびにボブカットの髪が跳ねまわり、ほのかにシャンプーの香りを漂わせる。


「ほんとならね、荻原唯を担当した精神鑑定医に住所を聞き出して、彼女の心を読めればめんどくさいことをしなくて済む。

 それで今日は精神科に訪ねてみたけど、守秘義務とやらで教えてはくれなかった。まったく優秀で融通の利かない医者でうんざりだよ。でもまァ、葛城かつらぎという名前の高校教師が何度か病院に足を運んでいたようだ。彼なら荻原唯のことを教えてくれるかも」

「葛城先生は俺のクラスの担任だった」


 生徒に関わりすぎるせいで評判はよくなかったが、面倒見のよい先生だ。荻原のことを放ってはおけなかったのだろう。


「そう、なら話は早い。文彦の母校に案内してもらおうかな。学校の音楽室にはピアノが置いてあるし」

「今から?」

「今じゃなきゃ何時いつ行くんだよう」

「わかった」といいながら俺は考える。「フェルメールは歩いたんだっけ」

「そうだよ。車がなかったからね」

「……元気が出るよ、色々と」


 キーケースをテーブルに置き、楽しそうに外出の支度をする沙耶を横目に、何度目かわからないため息を吐き出した。

 


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