煙晴るく

 

 沙耶がアパートを空けてからいよいよ三週目に入り、八月も残り少なくなった。最後に部屋の鍵をかけたのは俺で、彼女は一度も取りに来ていない。

 元の生活に戻るだけ。簡単なことだ。最初はそう考えたが、人間に踏み潰されるのを待つだけとなった蝉の抜け殻のように、ベッドの上で過ごす日々が続いた。執筆作業は停滞し、筆を握る気力すらなくなった。

 一カ月半の生活で、俺は一人でいることの寂しさを知った。元々、たった一人で支え続けた自分の世界に沙耶が加わり、二人で負担を分かち合っていたから、いざ一人に戻ったときに孤独と世界の重たさに愕然とさせられた。

 夜間の散歩や、休日の午後も手持ち無沙汰になった。すべては沙耶の不在がまねいた事態だ。

 ルイス・キャロルの小説に登場する赤の女王はこういった。「その場にとどまるためには、全力で走り続けなければならない」と。

 良好な二人の関係を維持するために、俺は自分の感情を抑制してきた。

 膠着状態を保ち、見かけの上では静止する俺たちの陰には、その場にとどまるための生存競争が常に行われていたのだ。沙耶が俺を振り回し、どうしようもない高揚を後ろ向きの解釈でしずめる。その繰り返し。彼女がいて、心のせめぎ合いがあってこそ、俺は自分自身を成り立たせた。

 かたい実を好む鳥に合わせ、狙われやすいよう果実を堅くした植物がいたとして、その鳥が絶滅し、他に堅い果実をくだく捕食者がいなければ、植物は種を残せずに滅びてしまう。

 同様に沙耶がいなくなったことで、俺の感情は制御不能に陥った。恋の相手がいなくなったことで感情が溢れ出した。

 絶望と呼ぶのは大袈裟おおげさだろう。

 決して珍しいことじゃない。誰しもあることだ。どうせ見向きもされないからと諦め、思いの丈を打ち明けることなく別れの日を迎えたとき、恋慕の情は後悔へと姿を変えて胸を締めつける。そして目が合った一瞬、指先が触れ合った一瞬を、意味のある偶然として捉えなおし、一生の思い出として大切に仕舞うことで胸のうずきを克服する。

 そういった成長の過程では自然に行われるはずの経験を、俺はしてこなかった。二十五にして、初恋だった。

 どう対処すればよいのか分からず、何も手につかない。これが失恋というやつなのだろうか。

 四六時中、沙耶のことばかりを考えている。彼女の私物が目に入ると、あの夜を思い出し、唇が熱くなる。やがて甘美な幻想から現実に引き戻され、幸福は行くあてを失って痛みに変わる。

 もう二度と会えないのならば、一刻も早く、部屋に残された沙耶の痕跡を消し去りたかった。

 とはいえ、俺たちの関係は本当に破綻はたんしたのだろうか。単純に嫌われたとは考えにくい。

 彼女自身が口づけの理由を証明だといっていた。それに、犯罪者とも。失踪の手掛かりとなるものはこの二つだけ。

 俺は綺麗な人間ではなかったこと。そのことを沙耶は知っていた。知っていた上で、俺と関わった。

 益々、分からなくなる。



 失われていく時間と引き換えに、手元には得体の知れない恐怖だけが残った。記憶を消し、罪の意識すらなくのうのうと生きていた事実が、たまらなく恐ろしかった。

 恐怖が刻々と増大するにしたがって、身体の末端はひどく冷え込み、ベッドの上から動けずにいることが増えた。

 会社にも行かず、ベッドの端でうずくまり、外界の音から耳を塞いで一日の大半を過ごすようになった。

 デスクには書きかけの原稿がそのままになっており、開けっ放しの網戸から入ってくる雨によって変色してしまっていた。

 それは強烈な腐臭を漂わせる死体のように思えてならなかった。実際、その通りだったのだ。

 俺は自分の書いた作品に価値を見出だせなくなっている。きたない手で綴られた綺麗な物語など、見たくもなかった。


 

 気がつけば、俺は町を歩いている。足の感覚はなかった。ほとんど寝たきりでいたため、身体は鉛のように重く感じられた。

 特に自律神経の狂いは深刻で、炎天の下ですら指先は冷たく、かじかんだみたいに動かしづらい。

 眩暈がするほどの気温と日差し。うだるような暑さを振り撒く夏であることを忘れるくらいに、頭が重く思考力が鈍っている。

 外部からのあらゆる刺激が靄がかった気怠さに塗りつぶされる。俺の身体が自分のものではないように感じてしまう。解離症状というべきか。自分のものではなくなった手足が意思を持ち、やがて胴体から離れていくのではないかとありもしない不安に駆られ、何度も両腕をさすって確かめた。

 自分が何の答えを求めているのか。何を解決すればいいのか。どうして宛もなく町を彷徨さまよっているのか。

 何も分からなかった。沙耶が俺のあやまちと繋がっているのだとすれば、彼女は何を考えて今まで接していたのだろうか。

 一方的な感情ばかり抱いていた俺は初めて、沙耶の心を知りたいと思った。心が読めれば手っ取り早い話だが、俺は沙耶のような特別な力も才能も持たざる人間だ。

 こうして歩くことしかできない。それで何かが変わるとも思えなかったが、俺は黙々と歩き続けた。

 置き去りの状態でちた自転車。ごみ袋から染み出た不快な液体。陰鬱とした気分のため、暗いものばかりが目に留まった。

 一時間が経過しても気怠さは消えてくれない。消えるどころか増している。歪んだ感覚器のフィルターが美しい景色の情報を遮断してしまうせいだ。俺は一切といっていいほど、鳥のさえずりや路傍の花の色を憶えていなかった。これではいくら歩いてももやは晴れてくれるものか。

 雨が降っていれば――と、雨嫌いの俺は思う。

 酷く気が滅入っているときは、ひとは何も楽しめない。光が強いほど影が濃くなるのと同じで、明るさに満ちた町では心の闇が浮いてしまい、穢れた黒に飲み込まれそうになる。 

 逆に嫌いなものが周りに溢れていれば、場違いな黒色も同程度に馴染んでくれる気がするのだ。

 顔を上げる。ここは二人で行き来したことのある通りだが、未視感があった。まるで知らない土地にいざなわれたように感じる。

 未知の場所に放り込まれてしまう感覚は、それはそれで悪くはなかった。しばらく俯きながら歩き、不意に顔を上げた瞬間に訪れる未視感を味わう行為を、意味もなく繰り返した。

 意味はないが、多少の気は紛れた。

 そうして最終的に街路樹の歩道に行き着いたのは、本当に偶然だった。風にさざめくけやきの影が舞ったアスファルトのみちの先から、自動車の排気音に紛れ、シャッターを切る音がする。

 物静かな工場を囲う金網を越えたあたりで、彼は今日も幽霊を探していた。頼りなく揺れる背中と、不衛生に伸びきった髪。枯れ草を思わせる表情とは対照的に、肩にぶら下げたカメラだけは新品同然の光沢を放っている。

 スモークさん。と心の中で呼び、「お久しぶりです」と俺は声を掛ける。彼は振り返り、わずかに背筋を伸ばす。


「あんたか」とスモークさんはくぼんだ目を擦りながらいった。「いい顔になったな」

「そうでしょうか」

「まさにこの世の終わりって顔だ」


 俺は少し驚いた。スモークさんから見れば、窪田文彦という人間は絶望しているらしい。

 大袈裟な表現ではなく、これは絶望だったのか。

 沙耶がいなくなったことも影響しているが、強いていうならば、自分自身への絶望のほうが大きかった。

 自分が犯罪者だということ。会社を無断欠勤していること。それらを打ち明けると彼は嬉々として声を弾ませた。


「……なら教えてやる。二十年前、おれはハルという女に出会った。そいつは世間では集団自殺として処理された焼死事件の重要参考人……端的に表すなら、彼女は放火殺人犯だった」

 

 放火殺人という言葉に、俺は身をすくめる。


「あんたが思ったほど物騒な話ってわけじゃねぇ。

 夏だっていうのに、えらく寒い夜のことだ。都会とはいうが、駅前から少し離れたところは昔から閑散としててよ。夜は街灯の明かりくらいしか灯らねぇような、暗い路ばかりの町なんだ。

 そんなところに、まだ学生くらいの女が一人、ふらふらと歩いてくるわけだ。雰囲気からして普通じゃないと思ったさ。

 当時のおれは真っ当に稼いで暮らしてたもんだから、できれば厄介ごとには関わりたくなかった。

 だが、女の見てくれはガキだ。若者がどうしようもないことに巻き込まれて、どうしようもなくどうしようもない状況に追い込まれてンのなら、手を差し伸べてやるのが大人の役目だ。つって正義をかかげて意気込んでた時期でもある。

 どうしたんだ? って訊いてみたらよ、青ざめた顔でおれの脚にしがみついてきたんだ。人を殺した、人を殺したってうわ言みたいに繰り返しながら。正直、訊かなきゃよかったって思ったね。

 おれは肝の据わった人間ってわけでもなく、どちらかといえば小心者だ。すぐにでも逃げ出したかったさ。でも逃げちまったら、格好がつかねぇ。

 だからまぁ、経緯くらいは聞いてやろうと思ってな。持ち合わせがビールしかなかったから、それ渡して、自販機の横のベンチに座らせた。今は撤去されて残ってないが……この辺りだな」


 と、スモークさんは顎を持ち上げ、向かいの路地を指し示す。彼のいう通り、夜は暗くなるだろう。


「その女は缶ビールを両手で握っててよ、うなだれたままの体勢で微動だにしなかった。

 知らない女との沈黙ってのは耐え難く苦痛でな。適当に会話を挟んでやりたかったが、事情が事情だ。

 おれから切り出すなんて野暮な真似はできねぇ。仕方なく三十分以上は沈黙に付き合ってやったさ。

 ようやく決心がついたのか、女はラベルを親指でなぞりながら、細い声で話し始めた。


『私は今日、会ったばかりの五人を殺した』 


 その言葉を発したときの憔悴しきった表情に、おれは衝撃を受けた。ガキのしていいカオじゃねぇってな。

 聞くところによると、五人とはインターネットの自殺系サイトを通じて知り合ったらしい。

 父親の再婚がきっかけで転校し、もともと引っ込み思案だった彼女は、新しい環境に馴染めず孤立してしまった。家庭には先日まで他人だった人間が入り浸り、自分が邪魔者のようで居場所があるとは思えない。

 双方での孤独を深めていった先に辿たどり着いたのが、自殺系サイトだった。

 見ず知らずの他人同士が死の願望について語り合うってのは、今では珍しいものじゃなくなったが、二十年前といえばそこまで身近にあるともいえなかった。

 過激な文章が飛び交うコミュニティ自体は腐るほどあったけどな。彼女らが不幸だったのは、集まった人間が揃いも揃ってガキばかりだったってことだ。

 自殺といっても最初はお遊びみたいなものさ。自称死にたいやつらが集って世の中への不満をぶちまけたり、現状を憂いたり、特定の人間へ復讐する計画を練って披露したり、不幸自慢で慰めあったり、書き込むことでストレスを発散するための場所でしかなかった。

 歪んではいるが、心の拠り所になるという意味では健全だろう。

 やり取りを重ねるうちに、ハルはだんだんとその魅力にとり憑かれていった。自分を否定する人間がいなかったからな。居心地はよかっただろうよ。

 普通からはみ出た人間が、歪んだ文章でどす黒い感情を浄化しようとする。それはある程度までの期間、正常に作用した。

 歯車が狂いだしたのは、事件の前年にあたる十二月の中頃に投稿された、『復讐を実行した』という内容の文章だった。対象者の反応やら、その後の達成感など事細かに書かれたストーリーをサイトの利用者は称賛し、祭りのように賑わった。事実かどうかは分からないが、以降に投稿される文章は抽象的なものから具体的なものへと、より攻撃性を帯びたものが目立つようになった。

 現実世界でのハルは学校生活を送っているわけだから、彼女自身の状況も変化する。

 容姿は整っていたし、時期が悪かった。学年でそこそこの人気を集める男に告白され、それに対する妬みからか、孤立していた彼女への嫌がらせが始まった。さらに同時期に似通った境遇の友人とつるむようになり、日常的に自殺の仕方などを話し合ううち、破滅願望は強固なものとなった。

 破滅願望をふとらせたのは、彼女だけでなくサイトの一部の利用者もだった。

 梅雨が明けて間もなく、死にたがりの一人がサイトの持つ意味を一変させた。追い詰められたと思い込んでる人間は、極端な思考に陥りがちだ。とりわけ精神がガキのまま成長してねぇやつは死ぬだの生きるだの、どうでもいいことで悩みやがる。そいつは一人で死ぬ勇気がなく、サイト内で自殺仲間を募った。『実際に集まって死のう』と呼びかける投稿が、同一人物によって夜通し行われた。

 これまでほぼ形骸化していた、『死にたい』という挨拶が本来の意味を取り戻したのさ。

 学校くらいしかまともに世界を知らないガキ共を、歯止めのない危うい環境に放っておけば、いつ現れてもおかしくはなかった。

 呼びかけに反応した、ハルを含めた六人が山間部の廃墟で自殺をくわだてた。

 選んだのはよりにもよって焼身自殺。呼びかけた本人は免許を取得していたため、車を。顔見知りだという男はガソリンを。別の女はライターを用意した。全員が役割を分担するなかで、彼女は点火する役目を担った。

 皆が最も苦しむであろう焼身自殺で合意したのには、ワケがあった。静かに息を引き取るよりも敢えて凄絶せいぜつな最期をげることで、怨念を残そうと考えたらしい。オカルトに通じる人間がいたのだろう。ガキの考えそうなことだ。

 事件当日の早朝、廃墟でガソリンの入ったポリタンクを中央に置き、六人が輪をつくるように座り、雑談に耽った。

 命を絶つに至る理由は様々だった。身体的特徴でいじめられたり、経済的困窮、家庭内暴力。集まった数だけ絶望とうらみに満ちていた。

 呪いの言葉を吐き出せば吐き出すほど高まっていく場の雰囲気に反し、彼女は徐々に冷静さを取り戻す。

 簡単に命を投げ出そうとする時点で馬鹿な女には変わりないが、その中でも賢い女だったのかもしれないし、単に絶望が浅かったのかもしれない。ハルは、ここにいる六人が友人関係になり、助け合うことで問題の多くが解決するのではないかと考えた。正しいが理想論だな。理はあるものの、物語じゃァあるまいし、現実に生きる人間ってのはそう単純にはいかない。

 何よりカルト宗教みたく、密室において極限まで高揚しきっていた彼らの狂気を正すなんてのは、もはや不可能といっても過言ではなかった。

 ついに自殺を呼びかけた男が叫び声を上げると、躊躇なくガソリンを頭から被り、残りの五人にも被るようにいった。

 そして自分の番がまわってきたとき、ハルは自殺を思いとどまるべきだと主張した。当然ながら彼らは聞く耳を持たなかった。それどころか直前で怖気づいたと思われたらしく、男はポリタンクを揺すってかけようとした。咄嗟に身をよじったため、彼女の足元を濡らしただけで済んだ。

 いよいよ生命の危険を感じた彼女は、逃げ出したかったが、逃げたところで集団自殺が止まるわけではない。状況がそうさせているだけで彼に殺意がないことは、彼女も知っていたし、時間が長引けばいずれ誰かが我に返ってくれると信じ、説得を続けた。

 ライターを持ってさえいればすぐには火が点かないと思ってもいた。しかし、話し合いに埒が明かないとみるや、別の女がライターを取り出して高笑いを始める。予備を隠し持っていたんだな。

 ハルは咄嗟に女から奪い取ろうとした。二人は揉み合いになり、やがて女の髪に引火する。

 ガソリンは揮発性が高く、極めて燃えやすい。火は一瞬で炎となり、あっという間に女の身体を包む。

 肉の焦げるにおいと凄まじい熱量に、彼女は後ずさった。すると炎は地面を伝って他の四人にも燃え移る。

 ハルはその光景に腰を抜かす。手遅れだった。女は呻き声を上げ、炎をまとい焼けただれた腕を彼女のほうに突き出した。

 それを振り払うようして、ハルは廃墟から逃げた。頭蓋骨がコンクリートにぶつかる音と幾重にも重なる呻き、そして確実に訪れるであろう死の気配を背後で感じながら、彼女は走った。

 頭の中には恐怖しかなく、ただただ恐怖に駆られ、一度も振り返ることなくここまで徒歩で帰ってきたという。

 おれはにわかに信じられなかった。後日、廃墟の焼け跡から五人の遺体が発見されるまではな。

 人間性としても、現時点では半信半疑といわざるを得ない。快楽殺人者とまではいかなくとも、動転しているだけで、故意に火をつけた可能性はゼロじゃない。あくまで彼女の主観によって語られた出来事に過ぎず、都合よく事実を歪曲わいきょくし、自己弁護を図っている可能性も捨てきれない。

 だが様子をみる限りでは、故意に人をあやめられるほど凶悪な人間とは思えなかった。

 悩んだ末、おれは彼女をかくまう――保護することにした」



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