夏の雪解け 2

 俺が見ていたものは夢で間違いない。夢を見ていると気づく頃には、錆びと雑草に覆われて放置されたプレハブ小屋の天井に視界を奪われる。

 壁際に沿って針葉樹の木材と角が潰れた段ボールが積み上げられ、その手前に煙草の吸い殻が散らばっており、わずかに人間の痕跡が残されている。瞬時に「錆びに覆われたプレハブ小屋」だと把握できた理由は、この夢を見るのが初めてではないからだ。毎年、夏の風景に秋の匂いが混じるまでに一度、俺は悪夢にうなされる。

 四季折々の生命が与えられた命の役割を全うするかのごとく悪夢はその一部として、あるいは単に苦しませるだけの目的で、枕元に忍び寄ってくる。

 舞台は決まってプレハブ小屋だ。

 夢の登場人物である俺は必ず、意思とは関係なく砂埃に埋まる吸い殻を一つ拾い上げる。

 すぐさま、時間が飛んで場面が切り替わる。

 見覚えのある制服を着た少女の腹部にまたがり、乱暴にシャツを脱がそうとする男が視界に入る。男に押さえつけられた少女は激しく抵抗し、小さく口を動かして何かを訴えた。「やめて」といっているのだろう。

 怒鳴り声。泣き叫ぶ声。それらは公園で聞いたものより遥かに鋭く、怒りと恐怖とが混ざり合う。泣いているということや怒鳴っている状況は分かるが、二人の顔の輪郭はぼやけ、声が聞こえたという認識はあるのにどんな声なのか分からない。五感が酷く曖昧な夢で苛立ちがつのる。

 苛立っているのはそれだけではない。俺は夢の中の男の正体を知っていた。少女に暴行を働くその男は、他の誰でもなく俺自身なのだ。顔も声も匂いもはっきりとしないが、俺であるという確信があった。

 どうやら夢の中の〈俺〉は、越えてはならない一線を越え、震える少女を押さえつけている。

 何をしているんだ、と叫んでやりたいほどに苛立つ。実際には何度も叫ぼうとしたが、喉に力が入らず、駆け寄ることもできない。

 俺は夢の中の出来事に対して無力な存在だった。そして自分の犯行を延々と見せつけられる光景はまさしく悪夢と呼べた。

 むしろ夢であってくれと祈った。

 しばらくそうしていると、埃と泥で汚れた少女の制服の裾が力なく地面に垂れる。彼女は抵抗を諦めたのだ。

 すすり泣くだけとなった彼女の衣服を取り去った〈俺〉は、目を大きく見開き、少女の身体に手を伸ばした。


 やめてくれ、と再び祈る。 

 


 窪田くん――。

 耳元で囁かれた誰かの声は救いだと思った。夢の景色は内側に折り畳まれるようにして消えていく。

 俺は飛び起き、胸元に手をやる。額に汗が滲み、激しい動悸がした。隣には誰もおらず、ばりばりとブルーシートが音を立てるのみだ。

 溜め込んでいた息をゆっくりと吐き出しながら、あれが悪夢であることを再確認する。

 悪夢を終わらせてくれた囁き声は、おそらく沙耶だ。精神的に追い詰められた俺は、彼女に縋ったのだ。

 ただ呼び方には違和感があった。沙耶は俺のことを「窪田くん」とは呼ばない。その呼び方をするのは谷崎先生と、荻原おぎわらだけである。

 つい先ほど沙耶に昔話を披露したばかりなので、眠っているあいだに記憶が混同したのだろう。

 絵を探している沙耶の背中を見たとき、俺は本当の意味で緊張から解き放たれた気がした。彼女がなぜ絵を探しているのか、今はどうでもよかった。

 動悸が治まってくると思考力も正常に戻りつつあった。缶チューハイの底に残った数滴を口内で転がし、直前に交わした会話の記憶を辿る。

 高校三年生の秋から凍結された荻原との関係を話し、「ありふれた作り話」だと笑われ、次作のタイトルは〈夏の雪解け〉で……そうか、合鍵と交換した〈名の無い絵画〉を見せるよう頼んだのか。

 ほどなくして、「あった、あった」といいながらキャンバスをイーゼルごと抱えて戻った沙耶が、怪訝な目を向ける。「何してるの?」


「何でもないよ」俺は自嘲の意を込めて鼻を鳴らす。「寝ぼけてたみたいだ」

「真っ青な顔を隠してから言いなさい。悪い夢でもみたんでしょう」


 この子には見透かされているな、と嘆息する。

 俺は軽く頷き、簡潔に同じ夢をみることを彼女に説明した。


「同じ夢をみるのはね、きみがその季節に大切なものを忘れてきたから」


 といい、沙耶が意味ありげに口角を吊り上げた。夏から秋にかけて大切なものを置き忘れている? 

 酔っ払いの戯言だ。馬鹿げた話だと思った。けれど、繰り返される悪夢が過去からのメッセージだとってみると、不吉な憶測がしこりのように凝固し、後頚部こうけいぶの血流を妨げる不快感を拭えなかった。

 返答が思いつかず、沙耶が持ってきた絵に話題を逸らす。


「沙耶が描いたなかでもこの絵はとくに好きだ。完成が待ち遠しい」

 

 タイトルをつけたら譲ってもらえるという話だが、その後の進捗は不明だった。


「急かしても思いつかないけど」

「気長に待つさ。隣人だからいつでも見られるし」


 待ち遠しいの言葉に嘘はない。ただ仮に譲ってもらえたとして、本人が頻繁に出入りする部屋に飾るのは気恥ずかしく、飾らないのは失礼な気もする。


「たしかに」と彼女は肩を揺らしていった。


 それから自らが描いた絵をまじまじと眺め、「私も同じかもしれない」と沙耶はてのひらで顔を扇いだ。アルコールで赤みを増した頬が得もいわれぬ妖艶さを放っており、俺の身体は声だけで溶かされても不思議ではなかった。


「同じって?」

「私も、文彦に見てほしくて描いたのかも」


 それを聞き、沙耶のアトリエであるブルーシート上の空間に視線を巡らせる。画材道具とわずかな家具しか置かれていないにも関わらず異様に散らかった部屋で、彼女が愛用するスケッチブックを探した。

 そこには、〈チッペンデールと青い猫〉の表紙が描いてある。きみに読んでほしかったのかもしれない。くすぐったい記憶がよみがえる。

 

「馬鹿だねー」


 つい、沙耶の口調を真似ていってしまう。


「あっ、盗作だ!」と沙耶は指を差して笑った。


「今のは見逃してくれ」と俺は懇願し、中身の入っていない缶チューハイに口を付けた。

 酔っぱらっているせいではない。思考は冴えていた。この行為は本能による正しい選択だ。

 会話というものは基本的に音楽に近しいと思っている。波長と表現されることがあるように、生き写しではないかと疑うほどに思考が似通った人間がいれば、絶望的に異なる価値観を有する人間がいる。

 会話の速さ、相槌のタイミング、まず最初に他者を肯定するか、否定するか。各々が独自のリズムや音程を持っていて、同じジャンルの音楽を奏でるもの同士で繋がっていく。好みをもたない人間は誰とだって仲良くなれるだろうし、飽きやすい人間は一定期間ごとに繋がりを消去するのだろう。

 加えて人間の本能は自分の持つ音楽の最高の状態を維持しようとする。リズムや音程が崩れることを嫌い、異物を排除し始める。

 極端な例になるけれど、昨日までヒップホップのバンドを組んでいた相方が、今日になってブルースに目覚めたら、その瞼を無理矢理にでも閉じさせるに違いない。もし許容しようものなら、これまでの努力がすべて水の泡になってしまうから。本能は失うことを何よりも恐れる。

 つまり、双方に理想たる会話の流れが存在し、互いにそうなるように寄せているというわけだ。

 この場合、今しがたの会話に生じた刹那的な空白により、二人の演奏が乱れてしまうのを避けるため、一見すると全く無意味な動作を挟むことで調和をとった。俺の理想の会話は、空の缶チューハイをあおることによってのみ完全なものとなり得た。ならば、正しい選択だったとはいえないだろうか。

 くだらない屁理屈を並べつつ、再度あやまって伸ばしかけた腕を引っ込める。酒を飲めば判断力が鈍る。馬鹿でもわかることだ。

 

「きみは酔いすぎ」

「あぁ、完全に飲みすぎだ。頭が痛い」

「大丈夫?」


 這うようにしてこちらに近づき、頭を撫でてくる。沙耶も酔いすぎだ。という言葉を飲み下し、飼い犬のように彼女の為すがままに目を閉じた。

 二十五の大人が学生に頭を撫でられている状況は、どうにも居たたまれなく、単純に喜べるかは微妙なところだった。素面ならば避けていただろうし、そもそも撫でようとは考えないはずだ。

 何はともあれ、このままでは心臓が持たない。


「もう充分だ。だいぶ楽になった」

「ふぅん」と沙耶はつまらなさそうに手を放す。「私は眠たくなってきた」


 唐突にいいだしたかと思えば、沙耶は身体を横に傾けた。彼女の隣には使いっぱなしの木製パレットやら、ペインティングナイフやらが転がっていて、寝ようものなら惨事は免れない。

 慌てて沙耶の身体を抱き起こし、ブルーシートの外側へと避難させた。慎重に後頭部を右腕で支え、フローリングとの隙間に枕をく。途中、髪を巻き込んで悲痛なうめき声を上げたが、十秒も経たずに穏やかな表情を見せた。

 この部屋に寝具と呼べるものは枕しかなく、普段は床の上で眠るらしいので、これが沙耶にとって最も自然な状態であろう。

 こうして寝巻きは事なきを得たわけだが、俺は一人、静かなアトリエに取り残されてしまった。

 酒類は飲み尽くしており、買い足しにいくのも億劫だった。ひとの気も知らず、無防備に寝息を立てる姿を見せられると、鼻を摘まんでやりたくもなる。しかし悪戯を実行に移すまでの勇気はなかった。

 その代わりに今夜は沙耶と並んで眠ることにした。知らぬ間に眠っていたともっともらしい言い訳を用意し、彼女の規則正しい呼吸に耳を澄ませたほうが有益だと考えたからだ。

 横になると一日の疲れがどっと襲い掛かってくる。寝顔を一方的にさらすのは気味が悪いだろうと思い、背を向けて睡魔が訪れるのを待った。あるいは、既に眠っていたのかもしれない。

 背中越しにもぞもぞと動く音や、その息遣い、部屋に充満する匂い。透き通った声と笑いかた。美術館。心を読む力。ピアニスト。

 暗闇の中、思いだけが馳せる。

 それぞれの記憶と感情の断片が積み重なり、ようやく気づかされてしまった。意識しているだけ。そんなものはただの強がりだ。

 もはや自分では抑えつけることができないほどに、俺は年下の女の子を愛してしまっているらしい。

 そして、これも夢だ。夢でなければ、自分自身の感情をこうもあっさりと認められようか。

 俺はいっそう強く瞼に力を込める。臆病でひねくれた文章しか書けない人間が目を覚まし、自らの感情をいつわるくらいなら、二度と起き上がることなく、このまま寿命が尽きてしまえばいい。惨たらしく殺されても構わない。彼女を愛したまま死ねるのなら、本望だ。

 


 わずかばかりの眠りから目覚め、上体を起こす。部屋の明かりが橙色の常夜灯に切り替わっていたことから、沙耶が一度は起きたと考えられる。

 寝返りを打つと記憶よりもずっと近くに彼女の横顔が見え、俺は目をみはった。肌に触れたい衝動にも駆られる。芽生えた悪意がその存在を主張し、指先に痺れをもたらした。

 伸ばせば容易に手が届く距離であることが、強烈に劣情を掻き立てる。顔を寄せるくらいは許されると思った。

 だから、声をかけられたとき、時間が凍りつく感覚があった。


「文彦」とたしなめるように沙耶は名前を呼んだ。「見られてると眠れない」

「ごめん、邪魔した」

 

 俺は謝罪し、視線を暗闇に向けた。


「変なことを考えていたでしょう」と沙耶は訊ねる。


 過去に絵の具を塗りつけられたことがあったので、反射的に頬をかばう。


「うん……考えごと。ある人のことを考えていたんだけど、誰のことか当ててみてくれないか」

「荻原唯だね」

「残念。沙耶のことだ」


 沙耶が間違えたことにほっとする。的確すぎる表現に疑いかけたけれど、やはり普段から心を読めるわけではないらしい。

 すると沙耶も上体を起こし、そのままの体勢で腕を伸ばした。彼女のひんやりと冷たい手が髪に触れる。

 そこからは一瞬の出来事だった。沙耶は空いている手で俺の肩を掴み、躊躇ためらいもなく唇を重ねた。行為の意味を理解する頃には、それは終わっていた。

 唇を離してからも、俺たちは至近距離で見つめ合った。電源の切れた機械みたいに硬直して動けない俺に、沙耶は微笑みかけた。

 

 ほんの少し、彼女の唇が動く。これはね。「キスだよ」


 再び、優しく包み込むような口付け。考える暇も、言葉を発する隙も与えられず、どうしようもなくなって、唇を塞いでいるものの柔らかさに浸った。


「驚いた?」


 閉じていた瞳を開けた沙耶は、くすぐったそうに頬を緩ませた。


「なんのつもり」と俺はやっとのことで声を出す。


「まァ、証明だよ」

「証明?」

「私が文彦のことを嫌いじゃないっていう」

「どうして……」


 そんなことのためにキスをする必要があるんだ。訊ねることはかなわなかった。

 なんだっていいじゃないか、とでもいわんばかりに、沙耶は俺の手首を掴んで引き寄せる。

 そして、三度目のキスをした。興奮が冷めきらない、艶めかしさをもって、左肩に顎を乗せながら彼女はいう。


「いいよ」


 臆病者といえども理性は限界だった。俺は本能のめいに従い、沙耶を押し倒した。彼女は抵抗しなかった。華奢な身体がフローリングで跳ね、乾いた音を響かせる。

 部屋をたす常夜灯のかすかな明かりは、沙耶の表情まで詳細に暴いてはくれない。

 どうでもいいことだ。俺たちの欲望にはもう、言葉も、色彩も、光の行為すら必要ない。

 おそるおそる、俺は沙耶の衣服をめくる。橙色の明かりに染まった肌があらわになり、そこに指を這わせた。きつく閉じた口の端から漏れる吐息は、俺の心のたかぶりを助長させる。

 俺は、幸福の最中にいる。

 そのはずだった。

 ところが、酷い既視感があった。耳に突き刺さる悲鳴の幻聴。少女の肢体を押さえつける感覚。罪にまみれた高揚――。

 俺の身体に克明に刻まれたもの。その記憶の鮮明さに驚愕する。あれは事実だ。悪夢などではなかった。

 叫びたい衝動を抑え、俺は沙耶の上から飛び退いた。手足の末端の震えが止まらなくなっていた。


「やっと思い出したみたいだね」と沙耶は冷たく言い放った。「犯罪者くん」

「どういうことなんだ」

「きみが一番、知っているはずだよ」


 はだけた衣服を脱ぎ捨て、沙耶は部屋の電気をける。白光の下に彼女の裸体が晒されてもなお、興奮は冷めたままだった。

 沙耶はしばらく無言で見下ろしていたが、やがて俺の肩を乱暴に突き飛ばして覆いかぶさった。行き場のない手を腰に回すと一瞬、身体を震わせたものの、浅い吐息で応える。

 行為が終わるまで、俺は目を逸らしていた。彼女の双眸そうぼうに宿っているであろう欲望の、その向こう側に隠された感情を直視するのが怖かったのだ。

 翌朝には沙耶の姿が部屋から消えていて、ラップをかけた朝食の皿と部屋の鍵がテーブルに用意してあった。

 雪が解けたのだと、俺は思った。

 幸福とは、いわば地面に降り積もった雪だ。それは美しく幻想的に光を反射するが、子どもの足跡一つであっけなく崩れ去る。



 それから二週間、沙耶の訪問は途絶えた。

 


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