Mama's Song 2


 公園に戻ると、幼い子の泣き喚く声が聞こえた。鼓膜を刺し貫くけたたましい泣き声。あの特有の叫喚音が辺り一帯に響き渡っている。

 声量から推測するに男の子だろう。なんにせよ、ただならない雰囲気だ。

 俺たちは声の聞こえてくる方角に目をやる。そこはストリートピアノが置いてある東屋で、さきほどベートーヴェンを弾いていた男がベビーカーに向かって前かがみになり困り果てた表情をしていた。

 周りから浴びせられる非難の視線が気になるのか、彼の声かけに余裕がなくなっていき、男の子は反発するように激しく泣いた。

 隣を歩く沙耶に、どうしたんだろう、と声をかけたときだった。

 彼女はほとんど反射的といったふうに駆け出し、ストリートピアノの鍵盤に指を置いた。

 騒音に包まれる公園に響いたその一音は、奇跡の音だ。

 男の子の泣き声がぴたりと止み、また強く泣きだす。「なるほど」と沙耶がいって、音をいくつか増やす。

 泣き声は止み、また泣く。音を増やす。

 泣き声は止み……また泣く。リズムを変える。試行錯誤を繰り返していくうちに、彼女はいつの間にかある曲を弾いていた。

 俺も知っている曲だ。ビートルズの「ゴールデンスランバー」という、子守唄。天才ピアニストの少女によるビートルズの生演奏。これだけで人だかりができそうなものだが、誰一人として寄り付こうとはしなかった。

 それもそのはず、彼女の奏でるゴールデンスランバーは下手だった。ひどく不安定で、片手の自由が利かないような弾きかたをする。

 ピアノを辞めた原因は何かの後遺症なのか? と思ったけれど、沙耶に憑依する暗い雰囲気は五年前と変わらない。ならば、彼女の持つ天才は未だに健在だ。

 さらにリズムを崩し、いよいよ聞くに堪えない域に達したとき、まったくもって不可解なことに男の子が笑い声を上げた。

 いや、聞くに堪えないと感じられるほどに演奏を聞き取れた時点で、子どもは泣き止んでいたのだ。邪魔する音がなくなったから、ピアノがよく聞こえるようになった。

 不自然に音がずれると、男の子は喜んで笑った。

 あぁ、これだ。と俺は思い知らされる。理解の及ばない領域にある才能。絵描きとしての沙耶は芸術活動への哲学を持ち、ひたむきに努力を重ねる善良なアーティストだが、ピアニストとしての沙耶はそれとは相反する邪悪なアーティストだ。

 子どもが好きそうなリズムだとか、誰もが唸る圧倒的な演奏で泣き止ませるのなら納得できるが、彼女は聴衆に不快感すら与える演奏で男の子だけを笑わせた。

 傍からみれば子どもの感情を直接操作しているようで、戦慄する。もはや人間の域を超えている。

 男も唖然としていた。

 曲の終盤に差し掛かるころには男の子はあっさりと眠った。よくもまぁ、あれで眠れるものだ。

 沙耶はベビーカーを覗き込み、男の子の寝顔を確認するとやたらと格好いい後奏をつけて曲を締めくくった。

 どうだ、とでも言いたげに俺のほうを向いた彼女に拍手を送ってやる。眠っている子どもへの配慮で音は鳴らさず、ふりだけをした。

 

「ありがとう」と男は深々と頭を下げた。「僕はピアニストの端くれだから訊ねてもいいかな」


 めんどくさそうな表情をした沙耶に、俺は吹き出しそうになる。出逢いはそんな感じだった。


「私に答えられるものなら」

「……わざと音を外したのはなぜなんだい? 君はおそろしく正確にピアノを弾けるのだろう」

「理由はその子に聞いてみなよ」沙耶はベビーカーを指差す。「私にはママ、ママって聴こえたけど」

「君は心が読めるのかい?」

 

 沙耶が控えめに首を縦に振ると、彼は自分の口元に手をやって頬をなぞった。


「それでビートルズなのか。確かに、僕の妻はビートルズが好きだった」


 初めて明確に心を読む力を行使する姿を目の当たりにし、俺は戦慄しているというのに、男は平然と受け流した。


「そっちではあまり驚かないんですね」とたまらず俺は口を挟む。「心が読めることに」


「昔、お世話になったひとが特別な耳を持っていたからね。そのひとは音楽家ではないけれど、声だけで心が……過去まで分かるのかもしれない。会うたびに教えてもない僕の生活について怒るんだ。それほど特別な耳を持っているのに本人は全然すごいと思ってなさそうだったから、僕は慣れてしまった」


 特別な耳というのは言い得て妙だと思った。心を読む行為は視覚的なものだけだと誤解しがちだが、沙耶の発言から分かるように聴覚の発達にもよるのだろう。仕草や表情などの視覚からくる情報と、声音や息づかいなどの聴覚からくる情報を解析する力が飛び抜けて高い。

 心を読むためのトリガーがピアノである理由は、一つの物事に集中するとき突如として感覚が鋭敏化する現象だろうか。役柄にのめり込む女優を憑依型と呼ぶのなら、彼女は憑依型のピアニストで、その副産物として聴覚の処理能力が高まる。

 悪くない仮説だ。

 俺は脳科学やら脳神経学の専門家ではないし、シナプスときけば香辛料の類いを想像するくらいの疎さなので断言できないが、理解しやすい形に組みなおすのが大切なのだ。


「よかれと思って連れてきたのは、逆効果だったか……」と男は肩を落とす。「亡くなった妻を思い出させてしまった」


 会話が過去形になっていたのはそのためか。察するに、男の子は母親にベビーカーを押してもらいながら公園を散歩するのが日課だったのだろう。


「どうして……こんなにも奇妙なリズムのゴールデンスランバーなんでしょうか。まるで糸の切れた操り人形が宙吊りになってるみたいだ」


 幼い子どもは耳がよくない、なんて話は聞いたことがない。人間の胎内で最初に開かれるのは内耳感覚だから、耳はもっとも完成された感覚器のはずだ。


「ゴールデンスランバーはね、妻が歌ってきかせた子守唄なんだよ。でも彼女は歌が苦手でね。この子は、ずれたリズムを覚えたのかもしれない」


 男は優しい眼差しを薄い雲に向けながらいった。それを聞いた沙耶は、男の子のあどけない寝顔に微笑みかけた。


「これはきみのお母さんの歌なんだね。そういうことなら、夢のなかでえるよう私からあらためて曲を贈ろう」


 彼女は椅子に座って奇跡の音を鳴らす。


「亡き母による〈Mama's Songゴールデンスランバー〉だ」


 聞くに堪えない二回目のリズムは、不思議と好きになれた。下手くそなのに、目頭が熱くなる。

 

 

 ピアニストの親子を見届け、俺たちは何をするわけでもなく東屋でくつろいだ。言葉を交わすことはなかったが、一日のなかで最も充実した時間だった。

 往路で買った飲み物を分け合い、飲み干すころには日が沈みかけていた。頃合いとみて、俺は立ち上がる。

 沙耶も空になったペットボトルのキャップをつまんで立ち上がり、街路樹の立ち並ぶ散歩道を歩いた。


「ピアノ、辞めたんじゃなかったの?」


 わざと性格の悪い質問をした。


「私さ、ああいう、ありったけの叫びに弱いんだ」と沙耶は首をひねった。「施設に居たからかな」


 その慈しむような瞳にどきりとする。心臓を掴まれるような、沙耶に対して激しく込みあげるものがあった。

 施設に通っていた本当の理由が、虐待を受けた子どもたちの心を癒すためだったとしたら。

 きっと俺はどうしようもなく年下の女の子に惚れてしまうのだろうな、と考えた。


「沙耶はピアニストなんだよ」と俺はいった。


 亡き母による〈Mama's Songゴールデンスランバー〉は世界でたった一人、仲野沙耶にしか弾けない曲だろう。

 芸術に正解はないけれど、あの場において、泣きじゃくる子どもをあやすには正解の楽譜を探り当てるしかなかった。それも男の子の頭のなかに流れる、かつて彼の母親が歌った通りの完璧な楽譜が必要だったのだ。

 母親の歌いかたを再現するなんて芸当は、心が読める彼女以外の何者にも真似できない。


「そうかもしれないね」と悲しそうな声を漏らす。


 歩道に出ると、浴衣を着たカップルに追い抜かれる。制汗剤と虫よけスプレーの香りが鼻腔をくすぐった。


「今夜は夏祭りだったのか」

「寄ってもいいよ」と沙耶がいう。それはつまり、寄りたいと言外にいっているのだ。

「せっかくだからね」と俺は同意する。「人混みは苦手だけど」


 すると、彼女の瞳がいたずらっぽく輝いた。私、名案を思いつきました。瞳が今にも喋りだしそうにしている。


「やっぱり宅飲みにしよう」


 ほらきた。

 合鍵を寄越せといわれるよりはまともだ。一カ月も一緒にいるのだから、宅飲みの誘いくらいはあるだろう。くれぐれも期待するなよ、と自分にいい聞かせる。


「いいんじゃないか。俺としてはそのほうが嬉しい」

「決まりだね」


 復路にはスーパーがないのでコンビニに寄り、俺たちは大量の缶チューハイとつまみになりそうなものをかごに入れた。

 アパートの階段をのぼっていると沙耶は思い出したように、あっ、と声を上げる。


「うち、足の踏み場ないから片付けてくる。あとで呼びに行くから、五分くらい部屋で待ってて」

「沙耶の部屋で飲むのか? 五分?」


 俺の部屋で飲むものだと思っていたから、完全に虚をかれた。あの散らかった部屋を五分でどうするんだ。

 

「なに、五分も待てないの」

「そこじゃないんだけど」

「分かってるよ」と彼女はくすぐったそうに笑った。「記念日だから特別にね」


 案の定、時間の設定が無謀すぎたのか五分では来なかったし、部屋は相変わらず汚いし、呼びにきた沙耶は寝巻きでシャンプーの香りがして……でもそういうのは普段から見ている光景で、希薄きはくだった感情が今になって一つひとつの出来事を忘れまいとしていた。

 人間に未来を予知する能力が備わっているのだとしたら、俺の本能はこのとき、ありふれた幸せをつづった楽譜に終止符が打たれることを知っていたのだ。

 ブルーシートの床の上で二人きりの乾杯をして、ばかばかしい話で盛り上がって、酔いがまわってるせいか俺たちなら何でもできる気になって、永遠をこいねがった瞬間に彼女はその言葉をいった。


「文彦の過去が知りたい」


 やけに透き通る声だった。 


「何もないよ」

「あるでしょー」と沙耶はなじる。「荻原唯の話」


 夢からめていくような、そんな感覚があった。

 沙耶の口から荻原の名前が出てくるのは二回目だ。奇しくも彼女の部屋に訪れた日と重なっている。

 荻原とのやり取りは隠すべき話ではないが、かといって酒のさかなとするには盛り上がりに欠ける。


「……つまらない話だ」

「それでもいい」


 沙耶は五本目の缶チューハイに手を伸ばす。アルコールの影響で距離感が掴めず前のめりになった体勢が、風にさらわれた帽子を取りにいくようにも見えた。


 俺はどこから話そうか、まとまりのつかない思考で懐かしい記憶をたぐる。「荻原が転校してきたのは――」


「あ、待って!」と沙耶はお決まりの顔をする。「俺は巧い文章が書けますー、って感じなのに冒頭から滅茶苦茶つまらない小説家みたいに」


 このところ意地の悪い笑みが板についている。


「なにその嫌がらせにまみれたリクエスト」

「いいから早く」


 観念し、俺はわざとらしく咳払いをした。



 見慣れた他人というのは、ひどく曖昧な存在だと俺は思う。それは互いの存在を――。




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