Mama’s Song
美術館に隣接する公園は、彫刻と樹木が立ち並ぶ散歩道、虹を
俺は、噴水前の
純粋に遊具として楽しむ子どもがいるなかで、驚嘆しながら写真を撮る外国人観光客や自撮りに
いつかのカフェと似て、輝かしい光景だった。俺のような日陰に生きる人間には、目を
我ながら面白い例えだと自賛する。これだけで短い物語が浮かんでくる。
そうだな、やがて深海魚は思うだろう。辛うじて届く光が本当はどれほど美しいのか確かめたいけれど、
道端にでも転がっていそうなほど、ありふれた絶望。臆病者が
ひねくれた人間が好んで書きたがる話だ。俺は、例え話から脱線した「哀れな深海魚」の解釈へと思考を切り替える。
文面から後悔が
けれども深海魚は賢い選択をしたのです。もしも表層に行こうものなら、その日は運悪く人間の仕掛けた漁網に引っ掛かっていたことでしょう。その後、自由を
とすれば、明確な答えはなくなる。だが結局のところ、臆病者だから何もできないという思考の
そんなことを考えていると眠たくなってくる。うたた寝をし始めたあたりで、「お待たせ」と声がかかった。
男物のゆったりとしたシャツにショートパンツ、スポーツサンダルとお馴染みの青いベレー帽。俺がこの日の服装を
少し息を切らして赤みがかった頬はどこか扇情的に思え、変な気を起こしてしまいそうだった。
「早かったね。あと三十分は待たされるのかと覚悟してたのに」
「きみは私のこと、なんて思ってるわけ?」
「ピアノを弾けばわかるんじゃないか」
「……そうだね。辞めてなければ、ここで確かめたよ」
そういえばイベントのポスターに、夏季限定でストリートピアノを開放するとの情報が記載されていた。
辺りを見渡す。公園内の一角に噴水前とは別の東屋があり、その中央にカラフルな配色のピアノを発見した。
それとほぼ同じタイミングで、ベビーカーを押して歩く男が立ち止まり、椅子に座った。鍵盤に両手をおろし、しばらく
知らない曲だが、複雑なリズムを奏でるのに相当な技術を要求されること、そして彼自身が十分な技術を有しているのは疑いようがなかった。
俺たちは歩くペースを緩め、聴こえてくる旋律に耳を傾ける。
「ピアノソナタ第三十二番ハ短調」と沙耶はいった。「ベートーヴェンは好きだから、わかる」
「それで苦悩を求めるのか」
ベートーヴェンとフェルメール。音楽と絵画の差はあれど、どちらも苦悩を抱えた芸術家だ。
一つ、謎が解けた気がした。
「沙耶ってさ、他のひとが弾いたピアノでも大丈夫なの?」
「どういう意味?」と彼女は訊き返す。
「今、あの人の心が読めるのかなって」
訊ねたのは興味からだった。ピアノを聴いた人の心が読めるのは、自分が弾いた場合のみなのか、他人が弾いてもいいのか。
興味であると同時に、今現在、俺の心は読まれているのか? という探りでもあった。
長い沈黙の後、沙耶は静かにくちびるを動かした。
「……いいや」
谷崎先生に教えてもらった嘘を見抜くための心理学的なコツだとか、声音の変化だとか、見落としがないように注意深く観察し、こう結論付けた。
沙耶は心を読めていない。
その特殊な力は、彼女自身がピアノを弾くことによってのみ発揮されるのだ。
「便利なのか不便なのか分からないな」
「まァ、そんなものだよ」
そういって、肩をすくめる沙耶は可愛らしくていけない。なんて考えてしまうのは、夏の暑さのせいだと思い込むことにした。
「すごく、安心した。今、きみに心を読まれていたらと思うと、俺は恥ずかしくて死にたくなっていたところだからね」
誇張ではなく、赤面で済めばましなほうだろう。
「ねぇ、本当になんて思ってたの?」
俺はもう一度いった。「ピアノを弾けば分かるんじゃないか」
「聴きたいだけのくせにー」
「そいつは確かめてみないと分からない」
微笑ましいやり取りをしながら、思う。この少女といれば、俺も輝かしい光景の一部になれる。
冷たく暗い海の底を泳がなくてもいいのだ。
「着いた」といった彼女の声に、顔を上げる。
美術館はこの町で育った建築家が設計したもので、日本の伝統的な建築技術を取り入れた外観となっている。
俺たちはイベントのチケットは買わず、一般料金で入館した。受付の女性に慣れた手つきで学生証を見せていたことから、美術館の常連だと推測できた。先導する沙耶に続き、テーマごとに分かれた常設展示室を巡る。
ここでは中世ヨーロッパで勃興し、ミケランジェロ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ダンテなど数々の偉人が活躍した美術史の王道たる「ルネサンス」に始まり、二十世紀前半にパリを中心として栄えた「エコール・ド・パリ」、第二次世界大戦以降の現代美術と訳される「コンテンポラリー・アート」の作品を主に取り扱っていた。
沙耶が並々ならぬ関心を寄せるバロック期の絵画は展示されていなかったが、もともと美術館に通い詰める人間には
俺がほとんどのテーマを素通りした彼女に追いついた場所は、赤いカーテンと曲がりくねった通路の奥の現代アートの展示室だった。
現代アート、すなわちコンテンポラリー・アートは数ある展示室のなかで最も異質な印象を受けた。
馴染みのない人間からすると、美術館という言葉から連想されるのは、豪華な装飾が施された
自然を上手く真似できる画家が優れていて、作品に驚きと仕掛けを埋める。そんなことを誰かがいっていたように、近代までの画家はいわば古い時代のカメラなのだ。
バロック期に写実的な作品を残し、ひねくれものだったカラヴァッジョの「リュート弾き」では、水を
そういう自然を描ける画家が優れているとされてきた。しかし、現代アートはとても
子どもの落書きみたいなものに、よく分からないタイトルがついていて、なんというかよく分からない。戦争やら平和を冠するタイトルでも関係なさそうな造形をしているし、どれを見ても「想像はあなたに任せます」といわれているようで釈然としなかった。
俺にはぼろ切れみたいな布や謎に満ちた絵を、どうして沙耶は食い入るように見つめているのか理解できないのだ。
「美術館に行きたかったのはね」と沙耶はこちらを向いた。「きみに現代アートを知ってほしいからなんだ」
俺は首をかしげる。「現代アートを?」
彼女は肯定し、ぽつぽつと話し始めた。
「……少し、歴史の話をしよう。
現代アートの原点とされるものは、男性用小便器を倒してそこにサインしただけの『泉』という作品。作者であるマルセル・デュシャンの制作意図は所説あるけれど、意味のある芸術に対する宣戦布告なんだろうね。
既存の美という概念への挑戦が
ドイツ軍のポーランド侵攻が直接的な始まりとなる第二次世界大戦は、ゲルニカの時代から数えて八千万人近い死者を出した、人類史上最悪の戦争といわれている。
そのなかでも日本に住む私たちにとって重要なのは、太平洋戦争。各国の
第二次世界大戦が終結し、日本国憲法の公布によって平和は訪れたけれど、海の向こうの戦争はなくならなかった。東西冷戦におけるコンゴ動乱、イラン・イラク戦争。冷戦後のルワンダ紛争、湾岸戦争。うんざりするくらいに人の血が流れた。そうしたなかで、芸術家の思想に変化が起きた。
芸術は時代を反映する。重苦しい現実をありのままに描写するひとがいれば、悲しみを一グラムの重さにして笑い飛ばそうとするひともいる。戦争の時代で広く浸透していった思想は、見たひと、聴いたひとに『考えさせること』だった。
日本における現代アートは、電子機器の発展に合わせて、
同意を求める沙耶の雰囲気に
「けれども戦争は昔からずっとある。二十世紀だけじゃない。十九世紀だって、十八世紀だって、人間は争って愛し合った。こう考えていくと歴史が重いのなんて当たり前のことなんだ。それらは今に繋がっているから、現代アートはぞっとするくらいに重い」
遠慮がちに、俺は口を挟む。
「……肝心なところが分からないな」
現代アートは重い。
これだけが俺に現代アートを知ってほしい理由ではないだろう。
「きみが小説家だから」と彼女は優しく答える。それから、例えを出すのは苦手なんだけどな、と困ったように笑った。
「もしかしたら、きみの身の回りにいる大人たちはいうかもしれない。どうせなら英語のほうがよかったじゃないか。こんな複雑で使いにくい少数民族の言語なんて捨ててしまえばよかったじゃないか。
それを耳にしたらね、アーティストである私たちは怒りを覚えなくちゃいけない。
数えきれないほどの多くのものを犠牲にして、そうまでして守った、たった一つの言語を捨てることだけは許してはいけない。
サブカルチャーもそう。映画、漫画、アニメ、ポップス、アイドル。私たちの芸術は、ほんの少し前に息をした同胞が、命がけで守り抜いた
だから私たちの漫画が
時代の潮流の真っ
今を生きるアーティストの私たちは、私たちの言葉による私たちの芸術を、思想の子どもたちとして次の世代に繋げていく。
……もう、分かるよね?
これは言葉の大切さを誰よりも知っている、小説家であるきみにしか頼めないこと」
俺は、沙耶の瞳から目を離せなくなっていた。喉の力を振り絞って、「自分の趣味が好きになれそうだ」と口に出すのがやっとだった。
「ほらね。小説家なら、絶対に現代アートは見ておくべきでしょう」
「沙耶のいう通りだ。でも俺は……白状してしまうと、そんな深くまで考えたことなくて、その」
「いったでしょ。始めるのは何となくでいいんだよ。命はこれから懸けていけば――」
急に沙耶は口を
感心して頷く人や、奇妙なものでも見るかのように眉をひそめる人の視線が集中していた。
「……そろそろ出よう」と沙耶は消え入りそうな声でいった。「喋りすぎちゃった」
「いつになく饒舌だったからね」と俺は苦笑する。
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