煙晴るく 2
そこで話を区切り、彼はため息を吐いて路の端に座った。タール数の高い煙草を咥え、腕を組みなおす。
「ハルはとにかく笑わない女だった。笑わねぇし、話さねぇ。笑えるような心境じゃないのは分かるんだが、容姿が整ってるぶん、精巧に造られた人形みたいに思えたな。
ま、おれは冴えない男だったから、恋人に恵まれなかった。だから話し相手のいない一人暮らしは寂しかったんだろう。
どんな出逢いであれ、ハルの存在は嬉しかった。そしてどうにかして彼女を笑わせたかった。
鬱陶しいくらい毎日話しかけたよ。だが何を訊いても答えてくれるのは十回に一回程度。
答えても『うん』だとか、『大丈夫』としかいわねぇもんだから、二か月が経っても彼女のことは知らないままだった。
ハルという名前と、カメラが趣味でココアが好きなこと。教えてくれたのはこれだけだ。
十一月に入ったあたりか。おれは紅葉を撮りに行くという口実で、彼女をデートに誘った。
趣味を聞き出せていたおかげか、快諾とは行かずとも、ハルが当日のカメラを用意する条件付きで引き受けてくれた。
週末の正午。おれたちは彼女の両親の留守中に実家へ忍び込み、ハルの部屋からカメラを持ち出した。
理由としては保護から三カ月以上は経ってること。ハルの捜索願いを警戒し、見つかるのは避けたかった。
そんなわけで、おれたちは県外の紅葉スポットにまで赴いた。
いやァまったく、殺人犯とデートだなんて笑っちまう。
他所のガキを連れまわしてンのが未成年誘拐であることを含めたら、犯罪者同士のデートだ。
おれが笑えても、肝心のハルは笑わなかったけどな。端から笑えるはずがなかったというべきか。
車外に出て周りの景色を見渡した瞬間、あいつの表情は変わった。紅色に染まった木々を眺め、感情のない声でこう
燃えさかる炎を連想させちまう紅葉を撮りに行くなんて、ハルにだけは言っちゃいけなかった。
いますぐ帰るか、と
無理させちまってる自覚はあったが、おれは彼女の優しさに甘えた。後ろめたさが伝播しないよう、なるべく頭の中を空っぽにしてな。
とはいえ気まずさは残ったが……ハルは写真を撮るのに夢中になっていたし、楽しんでるのは何となく感じ取れた。
おれはいつもと違う顔を見せてくれたことに舞い上がり、帰りがけにつまんねぇ自分の話をべらべらと喋った。
そうしたら、まともな反応があったんだ。自分でも馬鹿だろって思うくらいに喜んで、仕舞いには『うざい』って煙たがられた。
それから――今日の出来事を誇張して話したり、仕事でヘマして怒鳴られたことだったり、作り話だったり――気づいたらおれは、あいつを楽しませるための道化を演じてた。
たぶん好きだったんだな。
同棲から一年が経っても笑顔を見せることはなかったが、ハルの表情は随分と豊かになった。
とっくに彼女が凶悪な人間である可能性は捨てちまって、おれはただあいつの幸せを願った。
……幸せになんかなれなくても、せめて真冬の湖みたいに凍りついたあいつの心が解けてくれたら、十分だと思っていた。しかしそれは魔法でもかからねぇ限り不可能だとも……」
スモークさんは深く息を吐き出した。立ちのぼる煙は、諦念によって
俺もスモークさんの隣に座り、薄れゆく煙を
「ところが、ある時期からハルはよく笑うようになった。記憶喪失。憑き物が落ちた。比喩は様々だがまさしくそんな感じだ。
事件のことなんか何も覚えてないみたいにして、作り物めいた笑みでもない、人間らしい笑顔で喋りかけてきた。
おれは戸惑ったが……ようやく意地を張るのを諦めたんだと思った。人を殺したことがないおれにはハルの心境の変化は理解できない。それが何を意味するのか、考えもせず、現在の彼女を楽観的に捉えた。
同時に努力が報われた気になった。目にみえないところで奇跡は起きてくれたのだと、おれは嬉しかった。
今まで拒絶していた距離を埋めるように、ハルは繋がりを求めた。一度断ったが、おれは彼女の要求を受け入れた。良識のある大人にあるまじき行為だ。あいつの幸せを考えるならな。肉体の快楽なんか一時的な逃避に過ぎない。しかし一方でこう考える。ハルがどうしようもない悪人だったとして、引き返せないほどに愛してしまっているおれは、良識のある大人とはいえない。
……おれも馬鹿な人間だったのさ。
そうして、おれたちの関係は深くなる。次の日も、その次の日も。言葉こそなかったが甘えてきたり、怒られたり……一つひとつ、ハルは欠けちまった感情の扱い方を確認するみたいに何度もぶつけた。
ひと月もしないうちに、ハルは人目を憚らず一人で買い物できるまでに快復した。順調だった。
ハルは大丈夫だ。後は時間が解決してくれる。傍目でみていたからこそ、おれはそう誤解した。
もうとっくにあいつの心は破滅していたのにな。
ある夏の昼下がり。前日の台風の影響で仕事が早く上がって、ハルを驚かそうと寄り道をせずに帰宅した。
部屋は暗く、そこにハルの姿はなかった。室内にカメラが残されているので、写真を撮りに出掛けたわけではあるまい。
食材の買い足しに行っていると考えるのが自然だが、妙な胸騒ぎがした。彼女と出逢った、えらく寒い夜のようによからぬことが起きると思い、おれは家を飛び出してハルを捜索する。
近辺を探し回ったが彼女を見つけられず、十七時、おれは自宅に戻った。一刻を争うと本能の警鐘は鳴り止まない。だから、おれは捕まる覚悟で警察に通報しようと思い至る。
いざ受話器を握りしめたとき、ハルから電話がかかってきた。
頭の中が真っ白になってたおれは、会話をほとんど憶えてねぇが、簡単にまとめるとこうだ。
消えてなくなりたいと思って自殺を決めていたこと。
でも怖くなったこと。
公衆電話からかけているので、通話が切れるまで付き合ってほしいこと。
了承したおれに、ハルは願いを付け加えた。
『今夜二十時に、二人が出逢った場所に来てください。あなたに伝えたいことがあります』
安心したおれは警察には通報せず、約束の場所でハルを待った。だが日付が変わっても彼女は来なかった。
冷静になって考えてみれば、公衆電話から掛けてきた時点でおかしいと思うべきだったんだよな。本当に消えてなくなりたいやつがよ、自分の居場所なんか教えるわけないんだ。
その日、ハルは自殺した。
行方不明の女子学生の遺体が見つかったと知ったのは、おれが会社を辞めた直後だった。
傍にいながら、なんにも気づけなかったんだよ――くそッ!」
煙草をアスファルトに叩きつけ、彼は怒りのままに火を踏み消した。スモークさんの無力感は計り知れない。
俺にはハルさんが自殺した理由が身に染みてわかった。自分が火を点けたという、抱えきれない罪の意識によって昼夜を問わず心を蝕ばまれる日々。それ自体は生きられなくなるほどの苦痛とまではいかず、許容できたはずだ。
犯罪者の自分は不幸になるべき人間だと言い聞かせ、
彼女は幸せになりつつある自分、或いは、更なる幸福を求めてしまう心を赦せなかった。
抵抗することを諦め、自殺を決意したから、無垢な笑みを晒すことができた。スモークさんはそれを
ハルさんは死ぬことで救われると思ってしまった。死の魅力にとり憑かれるともう、誰にも止められない。
かつて彼女が、集団自殺を止められなかったように。
けれども真実は本人にしか分からない。死人は語ってはくれないから、こうして身勝手な解釈と言葉を振りかざし、乱暴に掘り返すことしかできない。
「そんなことが」と俺は言葉を絞りだす。
「ま、ここからは笑える話だ」
「笑える話ですか」
あぁ、とスモークさんはいった。
「ハルが死んじまった後、いわゆる無気力状態に陥ってな。生きる楽しみはなく、食事も喉を通らず、精神と身体の両面から不健康でよ。いっそのことハルの後でも追って死んでやろうかと思ったさ。
死ぬにしろ、吹っ切れるにしろ、あいつを忘れるために身辺整理をしておきたくて、ハルの所有物を漁ってたらカメラを見つけたんだ。
カメラの中に手紙の文面だけを撮った写真が一枚あって。きたない字で『元気だせッ!』と書かれてた。
自殺する前に撮ったクソみたいな激励だ。なんだろうなぁ、ほんと。わかんねぇンだけど、好きな女にそういわれるとな、嬉しいのと腹立つのが混ざってぐちゃぐちゃになったのよ。
『お前のせいだ馬鹿!』って撮り返してやったのが、おれの最初の写真っつーわけ。
ンで、なんやかんや二十年も幽霊を撮り続け、おれは人生を台無しにした。笑えるだろ?」
彼は乾いた声で笑う。
「全然わらえないですよ」と俺はうなだれる。「聞いて損しました」
「損はしてないだろ。おれの人生を滅茶苦茶にした女はあんたに教えてんだ」とスモークさんは俺の背中を叩き、
「暗闇の底に沈んだやつは自力では浮いてこれねぇ。光あれ、と神がいわなきゃ世界に光はなかったのと同じで、誰かに引っぱりあげてもらう必要があるんだよ。寄り添うだけなんてクソの役にも立たないってな」
説教まがいのことを力説する。
同じ失敗はするな。優しい彼は、そう伝えたいのだろう。
「憶えておきます」
そして突拍子もなく、俺は思ったことを口にする。
「俺は好きですよ。幽霊探し」
疑問も浮かんだ。ハルさんの幽霊を探すのなら、ここではなく自殺した場所のほうがいいだろう。
「認めたくねぇんだ。あいつが死んだって。だから昼間の、全く関係ない場所でハルの幽霊を探してる。
かといって探さないわけにはいかねぇ。不甲斐ないおれは、あいつを救えなかった。そのことは謝りたい。謝った後で、逃げちまったハルの霊魂だけでも引きずって、亡くなった五人の墓の前で謝罪させる。それが
償いをさせるための、償いとしての創作。そういう生き方も芸術家としての一つの解答といえる。
芸術家というものは、ひどく不器用な生き物だと実感する。
「あいつの心を救えなかったから、おれは二十年も後悔してる。人は命を捨てられるが、心だけはどうやっても捨てられない」とスモークさんは胸を強く押さえる。「ここがクソみたいに重たくて動かせない」
「それを動かすのが芸術家なんだよ……と、いいそうな女の子を知っています」
「殴り倒してやりたいくらい生意気な顔でな。あんたはおれの話を聞いて、この写真たちをどう思った?」
不衛生そうな鞄からアルバムを引っ張り出し、真昼の心霊写真を見せつける。
「素敵な写真だと思います」
他の誰が何と
サン=テグジュペリの言葉を借りるなら、「いちばんたいせつなことは、目には見えない」ということ。
彼の芸術は、心で見なくてはいけないのだ。
「だろう? 言葉ってやつは価値を宿してくれる。言葉ありきの芸術さ。言葉がなきゃ、おれの写真はただのゴミに戻っちまうからな。後世になんざ残らなくても、あんたの心に残っていればそれでいい。芸術なんて、本来そういうもんだろ」
俺は何もいえなかった。自分の穢れた手で、不純な言葉で
路上を吹き抜ける風を浴び、スモークさんは立ち上がった。臀部に付着した砂塵を払い落とし、自販機でまたしても甘ったるいココアを購入する。
「それ……」
と、声が勝手に漏れる。
「二十年。飲み続けてはいるんだが、どこが美味いのかさっぱり分かんねぇ。やっぱり、ハルのことは分かんねぇよ」
関連はなく自分でも理解できないけれど、彼の台詞を聞き、まったく別の考えが
殺人犯のハルさんのカメラとココアに価値があるように、俺の物語にも価値はあるのではないか。
そうであるなら、命を懸けないといけない。
「少しだけ元気が出ました」
俺は、スモークさんに感謝する。その礼にココアをもう一本購入し、彼に手渡した。
「いらねぇよ。おれの話聞いてたか?」
「ハルさんの分です」
強引に押し返すと、渋々といった表情で受け取ってくれた。それから間もなく路上の鞄とカメラを回収した後、くたびれた衣服の皺を伸ばしながら背を向ける。
「頑張れよ、小説家」
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