チッペンデールと青い猫 4


「けっこう面白いじゃん。笑ってやろうと期待してたのに」


 沙耶は小説の原稿を持ったまま、ベッドで仰向けに寝転んでいる。彼女を部屋に招き入れ、最初に飛び込んでから一歩も動いていない。

 普段はベッドも布団もない部屋に住んでいるのだから、当然の反応だ。


「あれから五年も経ってるからね。そこそこ上達はするさ」

「ふぅん」


 興味なさそうにいうと体勢をうつ伏せに変え、鼻歌で「ストレンジカメレオン」のサビを歌い始めた。

 好きな曲なので自然と聴き入ってしまう。

 俺みたいに空っぽな人間は、突然、自分が世界から爪弾きにされたような疎外感に苛まれることがある。アルコールを摂取しても眠れない夜などは、こういう音楽を用いて孤独と折り合いをつけた。

 彼女も生きにくさを抱えているのだろうか。

 漠然と考えていると、声がかかった。


「どうしたんだい」と彼女は振り向きながらいった。「出来損ないのカメレオンくん」

「驚いたんだよ。沙耶がピロウズを知ってるとは思わなかったから」

「まァ、家でかかってた。今はお母さんが嫌がるけど」


 智香さんが嫌がるということは、離婚した父親がかけていた曲なのか。女子大生が積極的に聴くものではないし、俺が親なら心配する。実体験に基づいた偏見に過ぎないけれど、若いうちからゆがみを肯定するような音楽にすがって生きているやつはろくな人生を歩まない。

 小説を読み終えた沙耶は、原稿の束を綺麗に揃えてテーブルの上に置いた。原稿の一枚目のタイトルの部分を指でなぞり、寂しさを訴えるみたいに口を開く。


「私は好きだけど、これ、たぶん売れないね」

「知ってるよ。売れたくて書いたわけじゃないから」

「じゃあ、何で書いたわけ?」

「何でだろうな」


 売れないと知りながら書いた理由。

 純文学みたく芸術的なこだわりがあるなら、胸を張って答えられる。だが俺には薄っぺらくみっともない動機しかないのだ。

 口下手だから、文章を選んだ。

 大きな声を出せないから、金にならない物語をつづる。そうすることでしか、他人に自分の考えを伝えられないから。


「ひょっとすると」俺は慎重に言葉を探った。「きみに読んでほしかったのかもしれない」

「私のためってこと?」

「恥ずかしいけれど、そうなる」


 きみのために書いた小説というと、何やら重たすぎる愛の告白に聞こえるが、そのような意図はなかった。

 この小説は明確に誰かのために書いたわけではない。余命幾ばくかの少女は出てこないし、時間を遡行するわけでもないし、爽快なカタルシスが味わえるストーリーでもない。

 読んでいるひとを想像して、一番しっくりくるのが仲野沙耶なのだ。

 いや、違う。

 沙耶のためではなく、彼女に読まれるために生まれてきた作品というべきだ。


「馬鹿だねー」と沙耶は笑い飛ばした。「売れないわけだ」


 遠慮ない笑い声に、俺は頭をいた。一人で恥ずかしさや気まずさを感じているのが馬鹿らしくなってくる。

 ひとしきり笑った彼女はおもむろにスケッチブックを開き、革製のペンケースから鉛筆を取り出した。


「ちなみに文彦はどっち? 猫?」

「俺は椅子かな。文字通り猫の尻に敷かれてそうだろ」


 沙耶は軽く頷き、スケッチブックに鉛筆を走らせる。出来栄えがよかったのか色鉛筆まで使っていた。

 しばらくすると描いた絵を俺に見せてくる。完成した絵を眺め、俺は小さく吹き出してしまった。

 そこに描かれていたものは、チッペンデールの椅子の上に乗ってピアノを弾く猫だった。猫の体毛は青く、なぜかマフラーとニット帽をかぶっている。

 青猫と椅子からはそれぞれ矢印が引いてあって、青猫には「わたし」、椅子には「ふみひこ」と細い字で記してある。

 絵の真上には小説のタイトルと同じく、〈チッペンデールと青い猫〉と太字で強調されていた。


「小説の表紙を描いてみた」

「よくできてる。俺にもファンができたみたいだ」

「その原稿を私にくれるなら、なってあげる」

「考えておくよ」


 沙耶が小説を気に入ってくれたようで、俺は嬉しくなった。書き手としてはこれ以上ない褒め言葉だ。

 しかし喜びを感じると同時に、とてつもない罪悪感に胸を締め付けられる。痛みとも苦しみともつかない何かが喉につっかえて、上手く息ができなくなる。ナイフが手元にあれば喉を切り裂いてしまいたくなるほどだ。


「あぁ、そうか」


 冷めた目で、沙耶は呟いた。

 俺は苦悶に満ちた表情でもしていて、それを見られたのかもしれない。

 身体の不調、沙耶の豹変した雰囲気に戸惑っていると、彼女の口から信じられない言葉が放たれる。

  

「荻原唯」


 俺は耳を疑った。沙耶の口から、荻原が出てくるはずがない。


「なんで……」


 その名前を知っているんだ。

 

「きみが思っている以上に、私は文彦のことを知ってるんだよ」


 目だけでなく、声も冷たかった。

 沙耶は我に返ったのか、一瞬、張りぼてみたいな笑顔を作ると部屋を出ていった。すれ違いざまに、ほのかに香水のにおいが漂う。

 今更、彼女が香水をしていることに気がついた。その香りは静かな夜のとばりに紛れて消えていく。

 そういうふうにして、六月は終わった。



  



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る