眠る蜻蛉
七月は青い猫と共に過ごした。思い返せば、青い猫が一人暮らしの生活にもたらした変革はすさまじいものだ。
しかしながら一カ月間に俺がどれだけ彼女からの影響を受け、彼女に心をかき乱され、彼女との思い出を増やしたかを
これは小説であるから長ったらしく物語を足踏みさせるわけにはいかないし、やはり俺の記憶だけに留めておきたい会話もあるのだ。
昼行性の夏虫たちが眠りだす時間帯に仕事が終わり、明日の資料をまとめて会社を出る。帰路では必ずといっていいほど国道の渋滞に巻き込まれ、アパートの駐車場に着くまでに身体中の気力が抜け落ちている。
重たい足を引きずって階段を
一連の変化を合図にして、俺は玄関のドアノブに手を掛ける。内部のおびただしい光にもてなされ、ある種の達成感に満たされていく。
「おかえり」沙耶はあくびを噛み殺しながらいう。「今日は遅かったんだね」
「ごめん、仕事で遅くなった。今から夕飯を作るけど、何がいい?」
沙耶と再会してから生活の大きな変化は二つあった。一つは、家に帰ってからの仕事が増えたこと。
口約束ではあるが、絵を買う対価として俺は彼女を養う契約を交わした。俺のなかでは養子に迎えたという認識だ。
「食べられるものなら何でもいい」
「はいはい」
なので、こうして余裕があれば簡単な手料理を振る舞った。俺の精神が参っている日は、インスタントラーメンやコンビニ弁当で我慢してもらう。
食後にシャワーを浴びる習慣があるらしく、その間に俺は画用紙が散らばった床を片付ける。すべて沙耶が生み出した没作品だ。実はその没作品たちは捨てずに保管してあるなんて、彼女の前では口が裂けてもいえない。
もう一つは、俺の帰りを待つ人がいること。
沙耶はどんなに帰りが遅くなっても起きていて、「おかえり」と声を掛けてくれる。勘違いしそうになるけれど、それは一途な愛情でも優しさでもない。彼女の生活サイクルは固定化されているため、夕食後のシャワーを浴びるまでは絶対に眠らない。
要するに、ただ起きているだけだ。
特別な意味はない。
それでも知らず知らずのうちに、家に帰るのが楽しみになった。この青い猫は存在するだけで、疲れ切った心をどうしようもなく癒してくれる。
七月の半分が過ぎる頃には、シャンプー、ボディソープ、洗剤、柔軟剤、バスタオル、歯磨き粉、ティッシュ、冷房の設定温度。部屋中の生活用品が沙耶好みに入れ替わった。
さすがに泊まることはなかったものの、まさしく同棲中のカップルのように、アパートの一室に二人のものが増えていった。
本音をいえば、生活用品を二人で共有する行為には憧れていた。思い描く理想の大学生活に恋人との同棲があり、社会人には愛する人との結婚があるように、俺も人並みにぬくもりのある日常を欲した。彼女が頻繁に訪れるようになり、図らずも憧れは叶ってしまったのだ。
そうなると自然と沙耶を異性として意識する。好きとはいわない。しかし彼女の言動がアーティスティックな視点によってのみ発せられるのか、そうでないのかで頭を悩ませるくらいには意識した。
青い猫は散歩が好きだった。週に二回、火曜日の夜中と日曜日の正午は二人して町を歩き回った。夏の町で彼女の琴線を震わせる造形物や風景を見つけると、海外ブランドのトートバッグを俺に押し付け、道端にしゃがみ込んで観察する。遮断桿が折れ曲がった踏切。中央分離帯に咲く花。錆びにまみれた廃墟ビル。切れかけの誘蛾灯。片足のない野良猫。季節とは関係なく、かすかに死の香りがするものを好んだ。
一方で昆虫の死骸や墓場など直接的に死を連想させるものや、入道雲や花火といった夏の風物詩には興味を示さなかった。「苦悩が足りない」と声を漏らしたのを憶えている。
フェルメールの描いた
俺はというと沙耶のはしゃいでいる姿を見ているか、暇潰しの相手になるくらいだ。
そして青い猫は気まぐれに行動する。
たとえばそう、関東甲信地方の梅雨明けのニュースが流れたとき。沙耶はブラック・アイド・ピーズの「ホエア・イズ・ザ・ラヴ」を大音量でかけ、デスクにて執筆中の俺の髪を撫でる。
「今夜は星を見にいこう」と何の脈絡もなくいいだす。
呆気にとられながらも、俺の胸はすこし高鳴る。
「山のほうに行くなら車を出そうか」
「文彦は知らないだろうけど」と沙耶は首を左右に振る。「フェルメールは歩いたんだよ」
「そりゃ、車がなかったからね」
結局、この日は徒歩で一時間以上もかけて町の高台まで登った。砂埃がうっすらと被さるガードレールを背に、俺たちは天体観測を行う。
分かりきっていたけれど、天体とやらは行方不明だった。目を
どう見積もっても一時間の苦労には不釣り合いな夜空。だからといって失望はしない。
そもそもの話、失望できるほど美しい星空を俺は見たことがなかった。厳密には思い出せないだけで、過去にそれらしきものを見てはいる。
二〇〇一年、日本の上空に出現した大規模なしし
記憶に残っていないのは、流星群にかぎった話ではないか。最後に見た打ち上げ花火や雨上がりの虹も、そうだ。思い出そうにも心を動かすための何かが致命的に欠けてしまう。自分とはまったく別の誰かの体験を、文字に起こして朗読したような気分にさせられる。
衰えきった想像力では、頭で理解はしていても、闇の向こう側に無数の輝きがあることを上手く想像できないのだ。
想像できないものを比較する
彼女は持参した折り畳み式の椅子に腰を下ろし、街路灯の明かりを頼りに絵を描いている。
邪魔にならないよう背後から覗く。この女の子は微妙な星空でも町の夜景でもなく、街路灯の真下に伸びる光の
実際に街路灯の下には雑草が生い茂っているものの、夜間に
「私たちは見えないものを描かないといけない」
俺が訊ねる直前、沙耶は顔を上げていった。
「それでトンボなの?」
「うん」
俺はわざとらしく「なるほど」と頷き、眼下の町へと視線を移した。沙耶の思考回路についていけないのはよくあることだ。
彼女は描くのをやめ、俺の隣に並んで立つ。見計らったように風が吹く。咄嗟にベレー帽を押さえた細い腕と、俺の肩が触れあう。触れた部位が不自然に熱を帯びる。
「タイトル、文彦がつけてもいいよ」
「俺がつけるのか」
「ただし小説家っぽく」
「まいったな」どうやら俺は窮地に立たされているらしい。「〈眠る
「いいじゃん。採用するかもしれないし、しないかもしれない」
「不採用なら俺は恥ずかしいやつになる」
ふふ、と沙耶は笑みをこぼす。これで恥ずかしいやつになることは決定した。とはいえ、こういった掛け合いは楽しかった。
俺の胸はまた痛む。いずれは沙耶が荻原を知っていた理由を聞きださないといけないが、少なくとも今はその時ではないだろう。穏やかに流れる時間に、水を差したくはなかった。
「最高の夜だったね」と帰り道の歩道橋で笑いかけてくる彼女に、「そうだね」と俺は相槌をうつ。
そこで、美しさに他人を納得させる理屈などはいらないのかもしれないと俺は思いなおす。
青い猫との関係は良好といえた。
*
梅雨が明けると雨のかわりに
俺はよく、蝉の鳴き声を「正義」にたとえた。世の中は悪を見つけた正義の声でやかましい。
皮肉めいた文章で夏を描写すると、それを読んだ沙耶に「よくもそんなにひねくれた解釈ができるね」と呆れられた。
世間に対して恨みつらみがあるだとか、蝉を
夏の多くの時間を二人で過ごしたわけだが、当然ながら一人になる時間もあった。
沙耶が大学の友人と出かけている日などは、部屋の環境音を聴きながら集中力の続くかぎり文章を書き連ね、作業効率が落ちてくれば気分転換に町を散歩した。答えのない芸術分野での行き詰まりは、ひたすら歩き続けることが一番の解決方法だと知っている。願いが願うことを諦めた瞬間に叶うことがあるように、発想というものは、芸術と関わりのないときに降ってくるものなのだ。
この日は風が少なく、清々しい青空が頭上に広がっていた。照りつける日差しは生命に爆発的な成長を促すと同時に、行き過ぎた熱量が水分を根こそぎ奪い取る。歩いて五分と経たないうちに身体が悲鳴を上げ始めた。額から顎にかけてしたたる大粒の汗を拭い取り、付近を流れる
むせかえるような異臭に息を止めた。嗅覚を遮断しようとすればするほど、アスファルトを踏みしめた足にその熱が伝わる。
それは焼けるような熱さだとでも表現すべきだろうが、濁りたくって見るだけで病気になりそうな汚水のにおいが上回った。
人だかりの絶えない商店街を通り抜け、目的もなく歩いていると駅の高架下に辿り着く。壁には客引き行為禁止の張り紙と、美術館のイベントに関するポスターが貼ってあった。それを見て、今日は町の美術館に隣接する公園を目指そうと思った。
薄暗い高架下の中央に来たとき、金属の
反対側から荷台を押して歩く老女の姿が見えた。念のため脇に寄ると彼女は軽い会釈をして通り過ぎる。俺はその背中を見つつ、五十年後も小説を書き続けているのだろうかと考える。
だがすぐに考えることを辞めた。明日も生きていられるかを考えるのと同じくらいどうでもいい――ふと、足を止める。
児童養護施設が脳裏を
駅前の開けた歩道から美術館への道案内があり、それに従って三十分ほど歩けば目的地の公園に到着する。
引っ越してから何度か訪れる機会があったので、道案内には従わず細い路地を選んだ。
再び歩道に出る頃には喉が渇き、足も疲労がたまっていた。シャッターが下ろされた雑貨屋の手前で幸運にも自動販売機を発見し、冷たい飲み物を購入する。それから影のある場所で休憩していると、美術館の方角からカメラを持った男が
因縁でもつけられるのではと警戒する。目の前で男の足音が止む。いよいよ来るぞ、と俺は身構えた。
男は無言でカメラを持ち上げ、写真を撮りだす。レンズの先端は路地や自販機などに向けられていた。何枚か写真を撮るたびにそれらを確認し、顎に手を当てて低く
一向に声をかけてくる気配はない。
「あんた、あの女の連れだろ」
あらためて男の容姿を確認する。頬は不気味なほど痩せこけ、髪はぼさぼさで伸びきっていて、生気のない表情が枯れ草を思わせる。
ここ一カ月でまともに関わった女性は沙耶だけなので、あの女、が彼女を指しているのだとわかった。
だが見ず知らずの人間に、おいそれと個人情報を与えるわけにもいかない。
「何のことですか」
「とぼけなくていい。あんたとよく散歩してる美大生のことだ」
男は一枚の写真を見せてくる。そこには厚めのマフラーと肌色のカーディガンを羽織り、スケッチブックを小脇に抱えて手を振る沙耶が映っていた。おそらく俺たちが再会する前に撮った写真だ。
これで少なくとも沙耶と彼の面識があることは示された。
「……彼女と同じアパートに住んでます」
「あぁ、知ってる。二カ月前だったか、あの女が話してたからな」
二カ月前。つまり沙耶は五月の時点で俺が隣人であることを知っていたのか。
「えっと、彼女とは仲が良いんですか?」
「どうだろうな」といって男は煙草に火をつけた。「おれはあの女の名前すら知らない」
そして虚しそうに煙を吐き出す彼に親近感がわいた。何となく、俺と似ているのだ。
「あんたも吸うか?」
「じゃあ一本だけ」
受け取った煙草を咥え、ライターで火をつける。駅のベンチで拾った煙草とは桁外れにタール数が高く、俺は咳きこんだ。
「なんですか、これ」
「生きていたくないやつ向けだ」
「死にたいってことですか」
「まさか。おれは生きていたくないだけで、死にたいなんてこれっぽっちも思ってねぇよ」
「はぁ……」
「こいつを吸えば確実に寿命が縮まってる気がするだろ」と男は煙を吐き出しながらいう。「そういうのがいいんだ」
二本、三本と増える吸い殻を眺める。四本目を吸い終えたとき、男はノルマをこなしたかのように「よし」と頷いた。
不衛生さが滲み出ている鞄にカメラを仕舞い、代わりにアルバムを取り出すとそこから何枚か現像された写真を抜き取る。
「ほら見てみろ」といって男は写真を見せる。「映ってるか?」
写真の良し悪しの区別がつかない俺には、撮り慣れている人が撮った町の風景という感想しか出てこない。
「まぁ、綺麗に撮れてると思います」
「そうじゃねぇ、幽霊だよ」
「幽霊?」
「そうだ。身長は百五十センチ半ばくらいの、髪が長くて、いかにも薄幸な人生でしたって顔してやがる女の幽霊だ」
やけに具体的だな、と思った。
「残念ながら、俺には何もみえません」
「そうか……」
枯れ草みたいな表情がさらに暗くなる。突風が吹けば崩れてしまうのではないだろうか。
「あなたには幽霊がみえるんですか?」
「みえるわけねぇだろ。だからあんたに訊くんだよ」
「確かにそうですね」と俺は答えた後に純粋な疑問をぶつける。「幽霊が映っていたら何なんですか?」
男はすこしだけ考える。
「別になにもねぇよ」と吐き捨てるようにいった。「おれは幽霊を探してるだけだ」
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