チッペンデールと青い猫 2

 

 俺が選んだのは、グリザイユ画法を用いて描かれた暗い絵画だった。なかでも顔だけが不自然に描かれていない人間から目が離せなかった。

 肝心な部分に穴が空いている、空っぽな人間。まるで俺のように。

 その絵を見ていると、胸の中心に痛みを感じた。長い針をじわじわ刺し込まれていくような痛みだった。


「まだなら完成してからでいい」


 答えに悩んでいるようだったので、急かすつもりはないと伝えておいた。

 配慮は的外れだといわんばかりに、彼女はくすくすと笑った。


「それは未完成に見えるかもしれないけれど、絵としては完成してる」

「描きかけなのにか」

「そう、描きかけなのに。でもタイトルは決まってないし、本当は二枚で一つの作品にするつもりだったから、永遠に未完成ともいえるかな」


 どうして一枚しか描かなかったのか、とは訊ねなかった。

 俺はこう考える。ストーリー性のある二枚の絵画のうち、結末にあたるほうの絵を描かずに終わらせたというもの。

 彼女は空っぽな人間に結末を与えなかった。そこには救いも絶望もないが、本来は二枚あったという情報だけが存在する。

 間違っていてもそれでいい。芸術の世界に正解はない。作者の意図と読み手の解釈が異なっていたとして、芸術における誤解は正解と同様の意味を持つ。もっとも、目先の利益ばかりを追求した作品はその限りではないが。


「余計に欲しくなった。ただ、沙耶の絵に値段をつけるなんて行為はしたくないけど」


 そのまま褒めるのは嘘くさい気がしたので遠回しにいった。みっともない照れ隠しでもあった。


「ほんとう?」


 意外なことに、沙耶の声にはかすかな震えが混じっていた。


「こんなことで嘘はつかないよ」

「よかった」と彼女は胸をなでおろした。

「そんなに?」

「絵では心が読めなくて、すこし不安だったから」


 このとき、彼女の青いベレー帽を見つめていた。目を合わせるのが恥ずかしかったからだ。

 テレビもベッドもない部屋にぽつんとあるテーブル、染みだらけの段ボールに投げこまれた画材道具たち、壁に飾ってある古い映画のポスターに視線を移し、結局、目の前にいる女の子の顔を見てしまう。

 俺は、今すぐにでも彼女を抱きしめてしまいたい衝動に駆られた。唐突に激しく全身を駆け巡った感情の名前を知らなかったが、その一瞬だけは訴えられても構わないと思ってしまった。

 あと一秒でも長く沈黙が続けば、何もかも失う覚悟で抱きしめていた。


「自信はあったけどね」


 鈴を転がしたような声で、正気に戻される。


「だろうね。そんな気はしてた」

 

 努めて平静を装ったが、内心は動揺していた。俺は危険を伴う賭けを避けたがるつまらない人間だ。空っぽだと自覚しているように、感情だけで動こうとする人間ではない。

 衝動的な性格ならもっと活発になっていたし、過去のことばかりに囚われてはいないはずだ。

 俺という人間を構成する歯車が狂いかけていることに苛立ちを覚えた。最低な気分だった。

 沙耶の感性は抗いようもなく理不尽に、俺のなかの冷めきった感情を引きずり出してしまう。

 ピアノにしろ、絵画にしろ、心が振り回されてばかりいる。


「なにか変なことを考えていたでしょう」


 聞こえたときには、遅かった。


「うわっ!」


 ぬめり、とした感覚にたまらず声を上げる。

 沙耶が手に持っていたのは水彩絵の具がついた丸筆で、紅紫こうし色の絵の具を頬に塗りつけられたのだと知る。

 彼女はいたずらが成功した子どもみたいな、意地の悪い、けれども無邪気な表情を浮かべていた。


「これで許してあげるから忘れなさい」


 唖然として、間の抜けた息が零れる。苛立ちも最低な気分もどこかに霧散してしまっていた。


「きみのおかげで」俺は降参するほかなかった。「考えてたこと全部忘れたよ」


 彼女の思いきりのよさに呆れ、全身の力まで抜けていく。

 このまま倒れてしまうのではないかと思った。いっそのこと倒れてやるのも悪くない。寝かせてくれそうなベッドはないけれど。


「いい顔になったよ」といって、彼女はパレットの真横に置いてあったタオルを差し出す。

 タオルには乾いた絵の具の跡があり、俺は受け取るか否かを逡巡する。散らかった部屋を見渡し、自分の視覚を信じることにした。


「やめておく。せっかくいい顔になれたんだから、拭ってしまうのはもったいない」

「文彦って変わってるよね」

「沙耶にだけはいわれたくないな」


 まともな人間は再会したとき、開口一番に「絵を買ってくれ」とはいわないだろう。

 変わってない要素を探すほうが難しい。


「それで、絵は譲ってくれるのか?」


「いいけど」彼女は口角を吊り上げる。「すごく高いかな」


 すごく高い、という表現にたじろぐ。


「使ってないとはいえ、高価な絵に手を出せるほどの余裕はないよ。毎月の家賃くらいなら払ってあげられるけど」


 情けないことに、学生の女の子に値引き交渉を持ちかける。無理ならせめて分割払いにしてくれと。


「合鍵を渡してくれるだけでいい」


 名案だろ? とでもいいたげな視線を向けてくる。


「え、なんの?」

「きみの部屋の合鍵」

「いやいやいや、ちょっと待ってくれ。合鍵はさすがにまずくないか」


 彼女を信頼していないわけではない。ピアノを辞めてまで絵描きを選んだこと。そして生活に必要な家具すらない部屋を見ていると、金に興味がないのは明白だ。下手すると家族や教師よりも安全といえる。

 危険を伴う賭けはしない俺でも、彼女が盗みや他人のプライバシーを侵害しないことには賭けられる。家を留守にしているあいだ、ひたすら絵を描いているだけの姿も想像できる。

 問題はそこじゃない。再会したばかりの、ボランティア施設で話したことがあるだけの女の子が、合鍵を持つことで半同棲状態になることが極めて大きな問題だった。

 意味が伝わらなかったのか、沙耶はきょとんとした顔をする。


「もしかして彼女さん?」

「彼女はいないけど! いないけども!」


 柄にもなく声を張り上げてしまう。


「だよね。ここ一カ月で文彦のところに訪ねてきた人は、一人もいない」

「あらためて告げられると悲しくなるよ」


 知り合いだからこそ、気にも留めないはずの隣人の情報を覚えているのだろう。訪問する機会を窺っていたなら、尚更だ。


「だから悪くない条件でしょ。一緒にご飯食べたり、話したりするのは楽しいと思う」

「悪くないどころか沙耶みたいにお洒落な女の子が来てくれたら、俺は喜びのあまり部屋のなかを駆け回るだろうね」

「犬みたいに?」

「猫みたいに」


 沙耶は大袈裟に首をひねる。

 

「猫は駆け回らないと思う。飼ってたことないから分からないけど」

「夜中にうるさいとは聞いたことがある」

「そうなんだ」

「俺も飼ってたことないから分からないけど」


 ふっ、と頬が緩んでいく。

 言葉の掛け合いがちょうどいいリズムを刻んでいる。

 あぁ、この子と暮らしたら楽しいのだろう、と思わずにはいられない。


「それに」といいかけた彼女を咄嗟にさえぎろうとした。それ以上はいわせてはいけない。断る理由をなくしてしまう。


 しかし喉の筋肉は間に合わず、あっ、というかたちを作ったきり声にもならない掠れた息を漏らす。


「文彦のことは信頼してる」


 俺は何も言い返せなくなる。

 女の子が使う「信頼してる」は、ずるい。臆病者の逃げ道を容赦なくふさいでしまう。

 また胸の中心が痛みを訴える。頬がだんだん熱くなる。


「……まいったよ」俺は大きなため息で誤魔化した。「合鍵は沙耶に預けることにする」


 部屋の外から不規則な音が聴こえてくる。雨が降り出したのだ。

 雨粒が町を叩く音は、どこか調子が取れずにもたついて、不器用な人間みたいにずれている。


「交渉成立だね」と彼女は嬉しそうにいった。


 こうして隣人の美大生に合鍵を渡すことが決定した。胸の内では複雑という一言では片付けられない感情が渦を巻いている。

 もし母親の智香さんに目撃されたときはなんて説明すればいいのか、考えるだけで頭が痛くなった。


「確認しておくけど……きみを養うって認識でいいのかな?」

「構わないよ」


 構わなくはねぇよ。とは突っ込まなかった。

 小説を書くこと以外に趣味はないし、食事にこだわりもない。資料として数冊程度の本を買えば一カ月は過ごせてしまうので、使いみちのない貯金が減っていくだけだ。

 納得できないこともあった。やはり、ルームシェアでも恋人でもない人間に合鍵を渡すことには抵抗を感じる。

 そこで仲野沙耶を恋人代行サービス――いわゆるレンタル彼女だと思い込むことにした。もちろん恋人になりきってはくれないので、友達代行サービスか。レンタルフレンド。そこはかとなく虚無感に満たされた響きだ。

 勝手に想像して落ち込んでいると、沙耶は深刻そうな表情で〈名の無い絵画〉を指差した。


「あれをすぐには渡せない。タイトルが決まるまでは待ってほしい」

「そんなに重要なことなのか?」

「重要だよ。芸術家が残すのは思想の子どもたち。子どもの名前は親が決めてあげるべきだから」


 芸術家が残すのは思想の子どもたち。彼女の言い回しを気に入ってしまった俺は、作品の完成を待つことにする。

 ブルーシートの床に腰をおろして沙耶の話を聞いていると、あっという間に時間が過ぎ去ってしまう。

 ヨハネス・フェルメールがどれほど素晴らしいか、とか。おかげでアルバイトを辞めて絵を描くことに専念できる、とか。

 他人のにおいがする部屋にも慣れ、落ち着きから眠気がやってきたあたりで肩を小突かれる。


「今からお気に入りのカフェを奢ってあげる。文彦のお金でね。アパートの近くにあるんだよ」

 

 アパートの近くにあるカフェといったら、思いつくかぎり一箇所しかない。しかもそこは道路を挟んでアパートと向かい合わせの場所で経営している。


「隣人なめんな。あとそれ、奢りっていわないからな」


 すっかり目が覚めてしまう。

 俺は苦笑して立ち上がると、玄関のドアを開けて待っている沙耶のほうを見る。


「はやく行こう。この雨が止んでしまわないうちに」


 ビニール傘を持って催促する彼女に、普通は止んでから行くんだよ、と伝える。




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