チッペンデールと青い猫


 芸術家はどうしようもなく惹かれあう。その予言通り、二週間も経たないうちに俺は仲野沙耶との再会を果たすことになる。それは彼女の唐突な訪問がきっかけだった。

 最近のやり取りは再会の前触れを意味していたのだろう。

 日曜日の早朝はめずらしく晴れていた。夜通し執筆に励んでいた俺は、まだ外が涼しいうちに息抜きがてらベランダに出る。

 三階建てのアパートだが借りていたのは二階のため、昨日の雨で湿っぽい町を眺めるには物足りない。かわりに薄い雲がまばらに浮かんでいる空を見上げ、自分の過去に思いを馳せる。

 六月の思い出は空っぽで何もない。強いて言えば、荻原唯の転校してきた日が六月の終わりだったこと。

 思い出というよりは、ただの記憶だ。

 もし世界の終わりが来るとしたら、こんなふうに何もない日がいい。

 六月の終わりに世界も終わる。

 誰も苦しまず、本を閉じるみたいに静かに生物は息絶えていく。そんな都合のいい話があるなら、自ら命を絶つ人がいくらか減ってもおかしくない。

 残念なことに、現実には都合のいい話など存在しない。だが都合のいい話を書くことはできる。

 作家だけは救いようのない世界をあっけなく終わらせてもいいのだ。好きではなかったはずが、文筆は唯一の趣味になっていた。

 荻原の残した無責任な言葉が発端となり、沙耶との出逢いが書き続ける原動力に繋がっている。どちらか一つでも欠けていたら、俺は無趣味のまま生きていた。

 こうして物思いに耽ることもなく、明かりのない部屋で惰眠をむさぼるだけの休日を過ごし、幸せそうな人々を見ては自分の置かれている境遇を呪う。次第に湧きあがる理不尽な怒りの矛先を社会に向け、酒を飲むことで虚しさのすべてを忘れ去ろうとする。

 考えるだけでぞっとした。

 二十歳から酒を飲めるようになるのは、そういうことだ。酔ってさえいれば、精神を病んでいたとしても生きてはいける。

 俺は、部屋にもどってシャワーを浴びた。一時間ほど続きを書いているとだんだん眠たくなってきたので、欲求には逆らわないことにした。

 昼を過ぎたあたり、インターフォンの音で飛び起きる。誰かを部屋に招く予定はなかった。独り暮らしの男のもとを訪ねてくる人間にろくなやつはいないため、居留守を決め込むつもりだったが、あまりにもしつこく鳴らしてくるので根負けしてしまった。

 これで宗教の勧誘か、訪問販売のたぐいだったら文句の一つでもいってやろうと玄関のドアを開け、訪問相手の顔を見た瞬間、俺は言葉を失くした。

 目の前に立っていたのは、茶髪のボブカットで夏らしい生地の服装に、青いベレー帽をかぶった女の子。

 見間違いではなかった。五年前とくらべて随分と垢抜けていたが、彼女の顔は間違いなく仲野沙耶だった。

 ある意味で一番会いたくない人物が来てしまったことに頭を抱えたくなる。


「久しぶり、文彦。早速だけど絵を買ってくれない?」

「……はい?」

「やっぱり。文彦なら私の絵の価値が分かってくれると思ってたよ」

「話についていけないんだけど、絵を買う? なんで?」


 何もかも突然すぎて思考が追いつかない。

 確かに相手は訪問販売だったが、予想外の人物で文句など出てくるはずもなかった。

 有名アーティストも下積み時代は貧乏だったという話はよく耳にする。彼女が音楽活動で金銭的に追いつめられているとしたら、日々の生活費以外のすべてを渡してしまってもいいと思っていた。

 きみの曲を聴くためなら、いくらでも出せるのに。

 なぜ、絵なんだ?

 喉元まで出掛かった言葉を飲み込んで、俺はいったん彼女の話に耳を傾けることにした。


「色々あって美大に通ってる。そして金欠。今月はとくにピンチ。よって、助けてほしい」

「その色々が聞きたいんだけど」

  

 沙耶はピアニストを目指して音楽学部のある大学に進学したのではなく、絵描きになるために美術大学を選んでいた。

 彼女の通っていた高校は普通科だったので、美大進学を決めた高校三年生の春から一年間の浪人生活を経て入学したという。

 にわかに信じられなかった。

 とても合理的とはいえない決断。無謀とまではいかないけれど、狂っている。


「ピアノは?」と俺は訊ねた。

「辞めた」と沙耶は即答する。


 またしても、何でもないふうにとんでもないことをいってのけた。ピアノを弾いているときだけ人の心が読めることを暴露されて以来だ。

 世界中で彼女だけが持っていると思われる才能を、こうもあっさり捨てられるものだろうか。

 

「教えてなかったけど、私の趣味は絵を描くことなんだ」


 ピアノに未練なんて微塵も感じさせないような笑顔を見せてくる。危うく見惚れてしまいそうになった。

 

「あのときピアノを弾くことは好きじゃないとはいってたけど……。呼吸って表現するくらいだから、特別な思い入れがあるのかと」


 当時の会話を振り返りつつ、引きとどめようと粘った。

 

「……お気に入りの靴下みたいな感じかな。でもサンダルを履くほうが好きだから、靴下は脱いだ」


 一字一句、聞き漏らすことはなかったが、沙耶のいっていることが全く理解できずにいた。

 いっていることは、分かる。

 単純に趣味を優先したのだ。それは本人の自由だが限度はある。

 物心つく頃から野球をやっていて、高校生で百マイルの剛速球を投げるピッチャーがいたとしよう。メジャーリーガー並みの、剛速球。甲子園に出ることも確定している。しかし彼の趣味はテニスで、その日はテニスをやりたいから甲子園に出たくないといっているようなものだ。

 周りは血の滲むような努力を重ね、それでも喉から手が出るほど欲しいものを沙耶は持っていながら平然と期待を裏切った。躊躇ためらう素振りすら見せずに。

 理解できるほうがおかしい。

 

「ごめん、全然わからない」

「わからなくていいよ。それでお金は増えないから」

「そりゃ、そうだ」

 

 俺が同意すると、沙耶はかぶっているベレー帽を片手で押さえる仕草をした。そして俯きがちに口をひらく。


「それに音楽は少しだけ窮屈なんだよ。言葉を借りないと、正義だとか、貧困だとか、愛だとか、そういったものは伝えられない」


 何かを諦めた人が発する、力のない声だった。

 過去に俺たちが話したことがあるのは五年前の一回だけ。実際のところ仲野沙耶について俺は何も知らなかった。

 ただ一ついえることは、明日世界が終わるとして、彼女はもうチッペンデールの椅子には座らない。


「……わかった。まずは絵を見せてくれないか?」


 彼女は顔を上げる。発言の真意を探るようにじっと凝視してきたかと思えば、勢いよく手首を掴んで引っ張る。


「うちに、来て」


 おいおい、こっちは着替えてないし、靴も履いてないんだぞ。

 つんのめりながらも、頬が緩む。

 彼女のせいで無味無臭の日曜日が台無しだ。



 せめて靴だけは履いてアパートの共用廊下に出ると、二階の手すりと天井との隙間を染める蒼穹に目が眩んだ。

 今朝は薄かったはずの雲は厚みを増し、遠くのほうからどんよりとした暗灰色の集団が迫ってきているのが見える。

 このまばゆい光は、空が雨雲におおわれる直前に放った断末魔の叫びに思えた。迷惑な空の悲鳴と蒸し暑い大気を肌で感じているうちに、手首を掴んでいた彼女の手が離れる。


「ここだよ」と彼女は隣の部屋の前で立ち止まる。そしてドアノブに手を掛けたとき、俺は思わず声を上げそうになった。


 いや、まさか。そんなことが――。

 衝撃のあまり思考力すら奪われてしまう。奪われたものを取り返すのに数秒を要した。

 偶然にしては出来すぎている。

 信じられないことに、沙耶は隣の部屋に住んでいた。正確にいえば、俺は彼女の隣の部屋に引っ越してきた。

 運命じみたものに操られているのではないかと勘繰ってしまう。次の瞬間には運命を司るといわれる神話の女神が現れて、俺たちはその傀儡かいらいに過ぎないと宣告するのではないだろうか。常識を超えた不条理な存在が再会をもたらしたと考えたほうが自然だ。

 それほどの奇跡が起きた。


「嘘だろって思ったでしょ」と沙耶はいたずらっぽく笑う。「今のはピアノを弾いてなくても読めた」


 玄関のドアは開かれていた。

 いよいよ俺は奇妙な偶然を認めなくてはならなかった。認めてしまえば、彼女が部屋の住所を知っていたことに納得がいく。三カ月も隣同士で生活していれば片方が気づき、確信に至っても不思議ではない。

 彼女は開いたドアを片手で押さえ、空いているほうの手でこちらに向かって手招きをした。 

 深呼吸して息を整える。

 年下の、しかも女子大学生の部屋に入るのだ。疚しいことがあるわけではなかったが、思いがけない展開に緊張くらいはする。

 普通とはかけ離れているが沙耶も年頃の女の子だ。彼女の部屋がどうなっているのか期待と想像を膨らませ、俺は促されるまま玄関に入った。


「いや、まさか。そんなことが――」


 先ほど浮かび上がったものと同一の言葉が、今度は喉から飛び出した。

 部屋中にブルーシートが張り巡らされている。そう表現して差しつかえないほど青一色の空間で視界が埋まっていた。

 家具らしきものは見当たらないのに、床に置いてあるものが多すぎて足の踏み場はなかった。

 

「ようこそ、私のアトリエへ」


 想像を超えるどころか突き抜けた光景を前にして動けずにいる俺に、沙耶は一切の恥じらいを含ませることなくそういった。

 部屋が汚くて申し訳ない。散らかっているけど気にしないで欲しい。そのような言葉ではなく、自信すらうかがえる語調で「ようこそ」といいきった。


「散らかりすぎじゃないか」

「散らかしてるんだよ。芸術的だと思わない?」

「その手の芸術とは無縁なんだ。俺にも分かるように説明してもらえるかな」

「なんだか生きてるって感じがする」


 俺はもう、考えることを放棄した。

 裏を返せば彼女はどこまでも仲野沙耶で、短期間のうちに俺のなかに根付いた印象を壊されずに済んだ。

 足元に散らばっている紙類をよく見ると、それはスケッチブックに描きこんだ下絵を引きちぎったものだった。

 アイデアの墓場と表現するのがもっとも相応しいかもしれない。一部の色彩のある絵は半分ほど色を塗ったところで無残に捨てられていた。


「これだけ描くのに、何年かかったのか想像もつかないよ」

「二年くらいかな。引っ越したのは一昨年の夏だから」


 彼女の判断で大半が没になったとはいえ、たったの二年間で足の踏み場をなくすほど描いた事実は驚愕に値する。本当に描くことが好きでなければこれほどの量のアイデアは浮かばない。

 部屋の奥にはいくつか完成までたどり着いた作品があり、その左上にはタイトル付きの下絵がクリップで挟まれていた。

 絵は上手かった。途方もない熱意も伝わってきた。趣味を長い年月をかけて磨き、商品として成り立つほどにまで昇華させている。

 凡庸な人間である俺だからこそ断言できるが、沙耶の絵は凡人が鍛え抜いた上手さだった。理解の及ばない領域にある唯一無二の才能ではなかった。

 買い手がつかないわけではないだろう。だが五年前のあの日、俺の心を奪い去った旋律には絶望的に届いていない。

 極端な話、今ある収入のすべてを捧げてまで支援しようとは思えなかった。もしピアノであれば二つ返事で頼みを引き受けていたはずだ。

 俺はどうするか決めかねていた。沙耶のことだから、たいして感動もしていないのに善意で絵を買えば怒るだろう。正直に告白し、定期的にピアノを聴かせてもらう条件と引き換えに生活費を援助しようと思った。

 ここで一つ、俺は致命的な勘違いをしていた。天才というのは、過程を飛び越えて結果を残してしまう人たちばかりを指すのではない。適切な手順と地道な作業を繰り返した果てに、ほんの小さな発想を加えることによって生まれるものだ。

 彼女の場合はピアノを聴いた人の心が読めるという特殊な力によって、常に人間の聴覚が求める正解が分かってしまう。新生児が言葉を覚える以前から万有引力の法則を理解しているに等しい。

 だからといって物理学が好きになるかはともかく、多くの天才とは別の手段を用いて同様の結論を導いた。

 凡人がゼロから鍛え抜いた上手さもまた才能で、世間から天才ともてはやされるまでわずかに隔たりがある程度だ。それは、運とよばれる曖昧で不確かなものが背中を押してくれるだけで容易に届いてしまう距離。

 カーテンを閉めきった窓の手前に置いてある描きかけの絵を見て、俺は自分の勘違いに気づいてしまった。


「なぁ、沙耶」俺は懇願するようにいった。「この絵を譲ってくれないか」

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