十 山口大乱
「平和な山口」とたびたび語ってきたが、その「平和」とは、実は砂上の楼閣のようなもの――「平和ぼけ」と言ってしまってもよいようなものであった。
天文十一年(一五四二)に大軍を率いて出雲国(島根県東部)の大名・尼子氏への遠征に挑んだ大内義隆だが、翌年二月に大内軍は総崩れとなり、大敗を期して帰還した。大内領内、山口近隣の村里は、負傷兵や帰らぬ人の遺族となった者らの嘆きが各地でとどろいた。
一方で義隆は、出雲での大敗から極端なまでに厭戦的になり、出雲遠征を主導した
かつての豪傑は、今やすっかり愚将に成り下がってしまったのだ。そして、大内領政の主導権を巡って、武功派の陶隆房・内藤
天文十九年(一五五〇)になると、相良武任と陶隆房との対立が決定的となり、武任の暗殺が謀られたが、事前に察知した武任は義隆に密告して難を逃れた。しかしこの頃から、隆房が謀叛を起こすという噂が大内領内の各地で流れるようになった。
そして、その時は来た。時あたかもザビエルが豊後へ旅立ってほどなくの天文二十年(一五五一)八月二十日、陶隆房は内藤
この明らかな謀叛の挙に対して、義隆の態度は何とも悠長なものであった。二十三日には豊後大友氏からの使者を接待する酒宴を続けており、運命の日の前日・二十七日に至っても能の興行などに耽っていた。
「運命の日」八月二十八日。陶隆房率いる叛乱軍は東方二方向から、すっかり平和ぼけに耽っている山口の街に、破竹の勢いで侵攻した。「陶隆房軍山口へ向け進攻・防御隊壊滅寸前」の報が届いてようやく危機感を覚えた義隆は、大内氏館・築山館を出て、
継室のおさいの方こと大宮佐井子は、山口の北東側・宮野の妙喜寺に逃れた。これを聞いた大宮伊治は、娘を追って山口宮野へ向かって屋敷を飛び出た。
「殿、宮野の方は敵方の本隊がおります……危のうござります」
「なるものか、おさいはわしが命を懸けてでも守る! 命を捨てる覚悟がある者のみ、共に従うがよいぞ!」
宇治丸ももちろん、物心ついてからほとんど顔を合わせたこともないとはいえ、実母の身柄が気になった。また何より、祖父にして養父である伊治に従う心積もりだった。
まだ見ぬ父の別れ形見として渡されていた、暦道の書と式盤をしかと懐に抱き、大宮家の一同とともに走り出した。しかし――
「痛っ……!」
逃げ道の道中で、広が躓き転んでしまったのだった。
「広! 大丈夫!?」
「ええ、これくらい平気よ……っ、いたた……」
先陣を切る伊治と、我先に逃げ走る家人たちは、振り返り気づくこともなくわずかな間に走り去って行き、宇治丸と広の二人は取り残されてしまった。
(どうしよう……八幡様、神明様、天主様……あっ!)
走り行き交う街の大路で、一心に祈っていた宇治丸は、ふと思い立った。
「広、大道寺なら近いよ! 負ぶさって!」
「ちょっと……おじ上様とおさい様はいいの?」
「大丈夫、祖父上様ならきっとなんとかなるよ。それより今は、僕たちが無事逃げることが一番大事だ!」
「……分かった、宇治丸を信じるわ。肩を貸してくれるだけで平気、自分で走れるから」
「僕じゃなくて、天神地祇と……天主様を信じてみよう!」
片足をやや引きずった広の肩を組んで、宇治丸は「南蛮寺」大道寺を目指して走った。
大道寺の近くまで来たところで、伴天連とそれに続いて脱出を試みる信徒たちの一行が見えた。
「伴天連様! どうかお助けを……!」
「おお、君は京の天文学者の……」
山口を任されていた伴天連・トーレス司祭は、二人の顔をしかと覚えていてくれた。
「ジョアン、薬箱を!」
「へいさ! 君ら大丈夫かい?」
同い年くらいのキリシタンの少年が同行しており、薬箱とともに医者を呼んできた。すぐに広の応急処置を施し、共に海の方へ向かう道を急いだ。
「広、大丈夫?」
「ええ、お陰でだいぶん楽になったわ。それより、大宮のおじ上様は……」
「大丈夫、きっと大丈夫だよ。それよりも、広の母君・広徳院御新造様が心配だね……」
「お母上、なのかな……一度も会ったこと無いけど、そうね、きっと大丈夫よ」
「うん、大丈夫だね、きっと……」
後ろ髪引かれる思いの広をなだめつつ、宇治丸は何よりも自分にそう言い聞かせ奮い立たせた。
「君ら公家の子なんだって? おいらは案じるものなんてなんもねぇから、平気さ」
「そうか、独り身なのか……気の毒に」
「お気の毒ね……」
ジョアン少年と道すがら語り合う宇治丸と広。途中何度か軍の詰問を受けたが、
「なぁに、庶民なんてなぁみんな大概そういうもんさ。それより、君らこそ気の毒だな……おやじさんとおふくろさん、無事だといいんだが」
「心配ね……天主様……」
「そうさ、俺らには天主様がついておられる。きっと大丈夫さ!」
「そうだね。天主様のお助けがあって、僕らこうして生き延びられたんだ」
この「キリシタン」の群れにあっては、生まれの身分は関係なく、みな家族なのだ、と伴天連が言っていたとおり、三人もすぐに打ち解けて話す仲となった。
「了斎殿も、くれぐれもお気をつけて……お手を」
「おお、かたじけのうござります。声と杖で大体はわかるのじゃが、段差があると危のうて……」
一行の中には、かつての琵琶法師・ロレンソ了斎もいた。彼とも二人は打ち解けた旅仲間となった。
「これは私めの私見にござりますが――真言密教では大日如来こそが本初にして普遍万有の宇宙の真理であり、釈尊もまた人間としてこの世に生まれ給うたのは一刹那なれど、その本性は釈迦如来として大日如来と本性一体にして久遠なる存在、と説きます。父なる神は大日如来、子なる神は釈迦如来に喩えられましょう。しかして聖霊なる神は、仏の慈悲の象徴にして永遠なる命の源たる阿弥陀如来に喩えられましょう」
彼はさすがは元琵琶法師、説法がうまく、卑近なたとえ話から、キリスト教と仏教教理との類似性など高度な話まで、日本人に分かりやすい巧みな講話で道中の一行を飽きさせず、かえって励まし元気づけた。
こうして五時間ほどの道のりを歩き通し、晩には無事港町
二十八日の夕刻頃には、叛乱軍はいともたやすく山口の中心部を制圧し、空となった大内氏館や周辺の近臣邸は火をかけられ、宝物を掠奪された。火の手は山口の街に燃え広がり、「平和」な砂上楼閣は一夜にして阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。
京より下向していた公家も多数殺傷された。十三年前に在富と京へ戻る旅路を共にした持明院基規も、この時再び山口におり、手にかけられた。彼は特に、首を半分だけ斬られた生殺し状態で放置された末に事切れるという無惨な最期だった。義隆を取り巻いていた公家達は、謀叛を起こした武断派の憎悪を買っていたのだった。
そして、宇治丸の祖父にして広と二人の養父・大宮伊治も、二人と別れて宮野の娘の元へ向かった末、叛乱軍に捕まり、その手にかかって命を落とした。しかし、伊治の最期の嘆願が聞き届けられて、おさいの方こと大宮佐井子は助命された。命懸けで娘を守りきったのだ。
法泉寺の大内義隆軍は逃亡兵が相次ぎ、翌二十九日には山口を放棄し、山口から峠を越えて北西にあたる長門(山口県北部)の港町・仙崎に逃れた。ここから海路で、縁戚に当たる石見国(島根県西部)の大名・吉見氏を頼って脱出を図ったが、嵐のために逃れることはできなかった。仙崎に引き返した義隆らは、そこから少し山手に入った長門深川の大寧寺に籠城したが、四方を追手に囲まれてしまった。命運尽きた義隆は、翌九月一日(この年の和暦八月は「小月」で、二十九日が晦日であった)に大寧寺で自害した。さらに翌日には捕らえられていた義隆の子にして、佐井子の第二子・宇治丸にとって異父弟、広にとっては異母弟にあたる、わずか七歳の大内義尊も殺害された。
大寧寺まで逃れた義隆勢はわずかであったが、その中には共に逃れた公家衆もいた。元関白にして当代関白の父・二条
これが世に云う「大寧寺の変」の顚末。山口大内氏三代の栄華は、わずか三日にして夢の過ぎ去るように潰えた。三代目義隆の晩年はまさに砂上楼閣であり、それは蜃気楼のように儚くも砂へと帰ったのだった。助命された義隆の妻にして、宇治丸の母・大宮佐井子と、広の母・広徳院御新造こと広橋光子は、その後山口で尼となり、日夜戦没者の弔いに勤めた。
・山口大乱の顚末はほぼ史実。
・大宮伊治は、史実では山口湯田縄手路にて殺害死。
・宇治丸と広の脱出エピソードは架空。
・ジョアン・デ・トーレスという少年が山口から豊後府内へ救出されたという記録があり。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます