お披露目ライブでの出会い

『湯島3兄弟』


 10時35分28秒。

 ー明神さんぞな! 急ぐぞな! あと25分で開演ぞな! ー


 10時37分04秒。

 ーまりえ氏発見でヤンス。明神さんでヤンス。ー


 10時39分16秒。

 ーもう直ぐ、明神さんで新しい時代がはじまるかもですよー


 3つのつぶやきが、またしてもとんでもない奇跡を起こしてくれた。例大祭の前夜、家出したまりえを救ってくれた謎の集団、『湯島3兄弟』。その3人が揃って「はねっこ」のお披露目ライブに注目してくれたんだ。まりえが頼んだとかそういう訳ではない。3人とも別々に行動していて、偶然明神さんの対バンイベントに参加する『はねっこ』が、光龍大社の巫女を中心に結成されたユニットだってことを知ったんだ。そして、知ってしまった以上、応援しない訳にはいかないって思ったんだって。ラッキー! といっても、お披露目ライブまではほとんど時間がなくって、開演前に会場入りした人は20名位だったんだ。急だったからね。


「思ったよりも少ないんですね」

「地下アイドルの相場って、これくらいでしょう」


 優姫とあゆみが話している。俺も知らなかったけど、対バンライブっていうのは出演者がそれぞれにファンを呼び込むんだって。このライブがお披露目となる『はねっこ』がファンを呼べるわけがない。早い時間に来る人はDDと呼ばれる、基本料金のみでみんなと騒ぐのが好きなアイドルファンが多いらしい。DDは『誰でも・大好き』の略。



『影アナ』


 開演5分前。200人収容のホールにはまだ20人しかいない。そのほとんどがDD。普通、お披露目ライブの前には規模にもよるけど何らかのプロモーションをするものなんだ。動画投稿とか、公式のつぶやきとか、何週間も前からビラ撒きをするとか。ものすごい時間をかけて、みんなで汗をかいて、それでも20人来てくれれば上出来。『はねっこ』の場合は、直前の10時30分から40分の間だけ、ビラ撒きをしただけ。そこに偶然、件の3人組がいたんだ。DDとしてね。


 ーみなさん、おはようございます!

 ー盛り上がる準備は、できていますか! イェーイ‼︎

 ー祝・令和元年 アイドル夏の陣2019、間もなく開演でーす


 アイリス・まこと・しいかの3人が、アイドルのライブ業界では、『前説』とか『影アナ』と呼ばれる放送を入れる。公演中の諸注意をコンパクトに伝えるだけなんだけど、対バンライブでは普通は行わない。加茂権禰宜さんにあおいが自ら頼み込んでやらせてもらったんだ。あおいなりにこのお披露目ライブを楽しもうという気持ちでいるみたい。それから、この時間帯は人目があるからタライの恐怖に怯える必要もないしね。


 ーそれでは、まもなく、開演です。ー

 ーもうしばらく、お待ちください! ー

 ー以上、巫女アイドル『はねっこ』のしいか! ー

 ーまこと! ー

 ーアイリスでした。ご静聴、ありがとうございます! ー


 巫女アイドル『はねっこ』のスタートは、決して恵まれていた訳じゃない。準備期間があまりにも短すぎた。俺が思いつきで始めたようなものだからな。けど、そんな逆境をみんなで話し合いながら少しずつ前へ進んだ。それが、『はねっこ』の強さで、最大の魅力だと思う。


『DDD』


『はねっこ』の影アナが、イベントホール内に響く。聴いていたファンはたったの20人。しかも全員がDD。けど、『はねっこ』はここで大きく飛躍するんだ。そのきっかけが、この影アナにあったことは言うまでもない。あおいの作戦が当たったってこと。さすがは芸歴15年。生まれた時から芸能人、天才子役と謳われた『なまだしあ』だ。ファン心理を知り尽くしている。5年のブランクもなんのその。すごい。


「対バンで影アナというのは珍しいな……。」


 日本全国のオタク達に絶大な影響力を与える『湯島3兄弟』。その3人をして、伝説と言わしめた男、『イカリムシ』。無料握手イベントに顔を出すこと年間300回以上。無銭ライブには朝から晩まで出没する。ときには2・3ヶ所も掛け持ちする。全てのアイドルを満遍なく愛する男の中の男だ。


 多くのアイドルオタクが飲食費や交通費、場合によっては住居費を切り詰められるだけ切り詰めてまで、特典会に巨費を投じる。『惚れた女にはとことん尽くす』、『推しに全てを捧げる』というのが、彼らの合言葉である。俺は知らなかったけど、可処分所得の8割というのがデッドラインといわれているらしい。俺に置き換えれば、年間で160万円も使うってこと。すさまじい。


『イカリムシ』さんもまた、飲食費や住居費を切り詰めているらしい。そして、残業してでも有給取って出かける先は、インストイベントや無銭ライブ。だがしかし、彼は決して特定のユニットや個人を推したりはしない。そんな彼をDDD、『どこまでもDD』と呼ぶ人もいるらしい。彼のモットーは『アイドルには金を貢がない』だそうだ。アイドルのイベントに相応の時間は使うが、可処分所得の8割を充てているのは、彼の場合は交通費である。今日の夜発で、明日の朝からは大阪での無銭イベントへの参加をこの時点で心に決めていたらしい。


『はねっこ』のステージはそんな『イカリムシ』さんの琴線に触れたみたい。だから、彼は『湯島3兄弟』を押しのけて、特典会に並ぶ列の1番前を陣取った。


『ファンの中で唯一の女の子』


『はねっこ』の影アナを聴いた20人の中には、1人だけ女性がいたんだ。その子の名前は『奈江さん』。今日、彼女がここにいたことは、運命だったと言わざるを得ない。『はねっこ』にとってお披露目ライブとなったこの日が、『奈江さん』さんにとっても初のライブ見学だったんだ。出演後の特典会の真っ最中、1番忙しいときに、俺は『奈江さん』さんと話をした。それは、イベントスペースの横、ホールと楽屋を繋ぐ通路だった。俺と『奈江さん』さんの2人しかいないその場所で、俺はある事情で不覚にも不思議な光を放ってしまった。その直後に、『奈江さん』さんの方からこう切り出した。


「あの、『コンビニは元来7時から』さんの関係者さんですか」


『コンビニは元来7時から』というのは7人組のアイドルユニットの名前だ。俺がどうしてそんなことを知っていたかというと、彼女達の出番は2組目だったんだ。けど、例の加茂権禰宜さんの暴走の影響で、前日に出場を辞退したんだ。7人組だから、8人集めることなんてできなかったんだ。かわいそうに。けど辞退してくれたお陰で『はねっこ』の出演時間は40分に延長してもらえたから、その名前を覚えていたんだ。この変更は、あまりにも急なことだったので、発表されたのは昨夜遅くになってからのことだった。知らないファンがいても無理はない。けど、商用で来たという『奈江さん』さんが知らなかったというのは驚きと言わざるを得ない。


『『奈江さん』さんの存在感』


 俺のことを『コンビニは元来7時から』の関係者と勘違いして声をかけてきた『奈江さん』さん。若干16歳の少女で、ぱっと見はやや暗い印象があるが、話してみると破滅的に暗い。垢抜けていないけど容姿は標準以上で肌は透き通るように白い。どこからどうみてもコミュ障そう。あくまで俺の第1印象だけどね。そんな『奈江さん』さんは、『はねっこ』の今後の活動にとって欠くことのできない存在となる。


「ちっ、違いますけど。それより、ごめんなさい。急に光っちゃって……。」


 俺の返事も、どこからどうみてもコミュ障のそれだったと思う。少しずつだけど他人にも興味を持ちはじめた俺だけど、久し振りに人前で不思議な光を放ってしまい、動揺していたんだ。そういう意味ではお互いに言葉にはできないシンパシーを感じたんだと思う。だから、思った以上に話が弾んだんだ。


「あれ? マスター、今光らなかった⁉︎」

「あぁ、ごめん、あおい。ラッキースケベがあって……。」

「何よそれ? ま、良いから早くブロマイド追加! 現場は忙しいんだからね」


 特典会の会場はホールの1番端っこ。ドアの隙間から不思議な光が漏れたんだと思う。異変に気付いたあおいが重たいドアをこじ開けて、首から上を覗き込ませてきたんだ。俺は正直に話したよ。『奈江さん』さんとぶつかって、その柔肌に感じてしまった、いわゆるラッキースケベがあったことをね。けど、あおいには『奈江さん』さんが視界に入らなかったみたい。俺が独りで突っ立っているように感じたみたい。だから俺は、馬鹿なことを言っているって思われてしまったんだ。それは良い。それくらい、『奈江さん』さんの影は薄く、存在感の欠片もないほどの存在だったって言いたいんだ。


『金魚も女神様もチート』


 存在感の欠片もないほどの存在の『奈江さん』さん。単なるコミュ障ではなく、俺を7人組のアイドルユニット『コンビニは元来7時から』の関係者と間違えてしまうようなうっかりさんでもある。けど、俺が興味を引かれたのはそこではない。俺が放った不思議な光を、あれだけの至近距離で浴びたのに全く不快でないばかりか、気持ちイイー!って、こういう感覚のことかしら的な反応を示したことだ。『奈江さん』さん、一体何者なんだろう。


「ごめん。ここで待ってて。今は忙しいけどあとで話したいんだ」


 だから俺は、積極的に『奈江さん』さんを誘ったんだ。といっても、特典会が忙しくって、すっかり忘れちゃったんだけどね。


「続いてブロマイドをお配りします。1枚2000円。希望の方はお並びください」


 ホールに『はねっこ乙女』の8人の声が響く。8人とも頑張ってるなぁ、うん。えらいえらい! 特典会は、最初『御朱印帳セット』の授与だったんだけど、開始5分で売り切れちゃったんだ。『御朱印』はお1人樣1点限りの授与だったから、会場にいたほとんどの人がもらってくれたことになるんだ。すごい熱狂だった。


 計算が合わないぞー! って思ったんなら、説明不足をお詫びします。開演前にいたファンの数は20名だったけど、公演中に入場されたファンもいて、最後の曲を披露しているときには、イベントホールは黒山の人だかりになったんだ。その数、200名くらい。収容人数ギリギリだったみたい。出演時間が延長になったのもあるけど、それだけの人数を相手にして熱狂を生み出すんだから、すごいだろ。『はねっこ』、おそるべし! まないもあおいも、他のみんなもチートだよな。だって、『はねっこ』は世界最古の観賞魚である金魚と、1万年も祀られている女神様の連合ユニットなんだから。


 そんなだから、用意しておいたブロマイドを俺が急遽取りに行くことになったんだ。それで、『奈江さん』さんにぶつかってしまって、ラッキースケベが起こったって訳なんだ。


『凄まじい特典会』


『奈江さん』さんを待たせている間に、急遽行われたブロマイドの配布。1枚2000円って相当な金額なんだ。アイドルのブロマイドって相場は大体100円から1000円くらい。それも大抵は購入者特典でお絵かきとかおはなしとかっていう名称でファンとアイドルが1対1で過ごす時間が用意されるんだ。さらに握手する『ふれあい』と呼ばれる時間を用意する場合もあるんだ。それで大体の相場は、TVに出ているアイドルで1000円で5・6秒の握手ってところ。ブロマイドだけなら大体200円から300円くらい。


「くっ、ブロマイド1枚に2000円とは、高過ぎるぞ……。」


『イカリムシ』さんはそう嘆きながらも、まないのレーンの先頭にいた。その発言とは裏腹に、その表情は薔薇色。懐かしい多幸感に包まれながら。『イカリムシ』さんだって、はじめからDDDと呼ばれていた訳ではない。アイドルのライブに初参戦したときは、1枚1000円のCDを無駄に5枚も購入している。その後も何度となく通い、気が付けば可処分所得の80%というデッドラインを超え、87%までになっていた。


「このままでは破産するぞ……。どうすれば良い?」


 逡巡の末辿り着いたのがDDDの道だった。だが、DDDと呼ばれるようになってはや8年。目まぐるしく変化するアイドルシーンは、『イカリムシ』さんにとって決して順風満帆ではなかった。アイドルからの認知が取れないからだ。つぶやきへのリプがほとんどないのだ。正確に言えば、アイドルオタクからのリプは20000件を越えることがあるくらい盛んだ。全国のアイドルオタクのほとんどが、『イカリムシ』さんが今日はどこの会場に現れるのかを気にするほどだ。何故なら、『イカリムシ』さんが注目するアイドルは、長続きするからだ。


 世知に長けた運営の中には、キーパーソンとして『湯島3兄弟』よりも『イカリムシ』をあげるものが多い。自分達が育てているアイドルが長続きするのか否かで、戦略が180度変わってしまうというのは決して過言ではないのだ。長続きするなら、ゆっくりと世代交代を測れば良いし、そうでないなら人材発掘に勤しまなくてはならない。それを客観的に示す数字というものは存在しない。CDの売り上げにしても、観客の動員数にしても、それはそのイベントが行われるよりも少し前の人気によるものであり、未来を約束するものではない。そんな客観的な指標を強いてあげるのであれば、それは、『イカリムシ』さんに認めてもらっているか、否か、しかない。


『『イカリムシ』さんと『湯島3兄弟』』


『イカリムシ』さんがそんな慧眼の持ち主であることなんて、俺もだけど、『はねっこ』のメンバーの誰も知らなかった。けど、どういう訳か『はねっこ』のみんなは『イカリムシ』さんを歓待する。あとでまことにその理由を聞いてみたんだけど、単純にライブを盛り上げてくれたから、というものだった。他のメンバーも同じような理由で『イカリムシ』さんを認知し、歓待したみたい。


「こんなにはしゃいだのは数年振りだよ」


『イカリムシ』さんがご満悦だったのは言うまでもない。特定のファンを特別扱いすることは、アイドルにとってはあまり好ましいこととは言えない。払う金額に応じてふれあう時間は違っても、時間当たりの満足度はなるべく揃えるようにするというのが鉄則といえる。そうしなければ、あの子はイケメン好きだとか若者しか眼中にないだとか、尾ひれがついて噂されてしまうものだ。けど、『イカリムシ』さんの場合は、持ち前の醜さから、そんな噂にはならなかった。しかもDDDである。気紛れに列に並んではいるようだが、再びその列に現れる可能性は極めて低い。だから、『はねっこ』達の行動は、賞賛されることはあっても、非難されることは全くなかった。


 その点では『湯島3兄弟』も同じだった。360度どこから見てもオタクな3人を厚くもてなしたとしても、咎めるものは誰もいないのである。


「また来てくれたの! ありがとう」


 そんなまりえの歓迎を、3人は受け流すようにして返す。


「礼には及ばないぞな」

「礼には及ばないでヤンス」

「礼には及びませぬ」


 3人3様の個性は、今日も光っていた。


『ラッキースケベ阻止計画』


『イカリムシ』さんも『湯島3兄弟』も、ちゃんと列に並んでいる。他のアイドルオタクももちろんである。特典会は60分用意されていたけど、ブロマイド配布は40分で終了してしまう。『御朱印』の授与時間と合わせても、持ち時間の60分のうち15分も残している。早めに切り上げたのは、売り切れてしまったからなんだ。


 バックステージの1室、あおいの感嘆と俺の嘆き声が響く。加茂権禰宜さんの計らいで、個室を借りることができたんだけど、8畳くらいの部屋に17人が入ると狭い。折角の休憩だというのに、なんだか悲しい。


「まない、おつかれ! まこともおつかれ!」


 自販機で買ってきたばかりのドリンクをみんなに手渡しながら、相手の表情を伺ってみると、あんなに忙しかったのに、汗だくになっているのは俺くらい。『はねっこ』のみんなは誰も汗をかいていないみたい。あの特訓が効いているのかな? ドリンクなんて要らなかったのかもしれない。そんなことを突っ込むと、大クレーム!


「装束の中は汗びっしょりなのですから!」

「アイリス! 諸肌脱いで、マスターが興奮しちゃったら大変ですよ」


 アイリスを慌てて止めたのは優姫。もうちょっとだったのに。惜しい。今日はもう不思議な光を放っているから心配ないのに。それにここは密室だから誰かの目にさらされる心配もないからさ。そんなくだらないことを考えてしまう。ここ数日で女の子の思考への興味が湧いてきているけど、それ以上に俺の中で女の子の身体への興味は増しているんだ。簡単に言えばスケベになったと思う。ラッキースケベは起こらないかとつい期待しちゃうんだよね。男女比1対16の生活をしていれば、誰だってスケベになるか、完全な免疫システムを構成するかのどちらかだろうけど。『はねっこ』達の中にいたら、前者の人の方が多いと思うんだ。


『生着替えコーナー、完成す』


 優姫がアイリスを止めようと動いたときに汗が迸ったからやっと分かったけど、みんな装束の中は汗だくみたい。まないを除いてはのはなしだけど。それで、このままではみんなが風邪を引くんじゃないかと思って、考えたんだ。そして置いてあったテーブルを横にしてみた。やったー、即席の間仕切りの出来上がり。高さも充分だから、俺が見ようと思っても見えない様になったよ。名付けて、生着替えコーナー! 2・3しか入れないけど、順番に汗を拭って着替えてもらおう。


「マスター、ありがとうございます。私達のために!」

「えー、まりえは平気だよ。間仕切りなんてなくっても、目の前で着替えるよ」

「よしなさいよ、アイドルなんだから! ちゃんと生着替えコーナー使えって!」


 生着替えコーナーの名もあおいによってすっかり定着した。こうして、俺が作った生着替えコーナーは大好評。みんなが順番に着替えることになったんだ。ラッキースケベはなさそうだけど、尊敬されるマスターになるために、俺は敢えて修羅の道を行く!


『直ぐ横で』


 ラッキースケベは起こらない。誰もがそう思った。


「アイリスって、本当に大きいのね!」

「優姫だって、Iカップでしょう」

「けどKに比べたら、全然小さいもの……。」


 かぁっ……。感激かよ。声漏れかよ! エロい。妄想を掻き立てる! 2人してちちくりあったりしてんのかなぁ? 大きさ比べとかしてるみたいだし! もしかして、4つ並んでいるのかも。谷間が3つもあったりして! すごい! 最後になって辿り着いた、究極のエロだ! 俺はすごく頑張って、爆発しそうな気持ちを抑える。そんな俺の目の前に、ぶら下がるブラが現れた。起爆装置付きかよ!


「あら、アイリスったら代えのブラジャーまで用意してるの?」

「そうよ。大きめの子はちゃんとお手入れしないと」

「なるほどー。勉強になるなぁ」


 たまんないだろ。いやむしろ、ためてらんないよ、出ちゃうだろ! どうしてくれるんだよ。俺が作った間仕切りなんて、所詮は即席なんだ。テーブルの脚の側に傾けてあるじゃん。その上に、ブラジャーをかけたら、向こう側は壁に沿ってるようになるけど、こちら側では、ぶらぶらしてるんだよ! ちょっと汗を染み込ませたKの片側から、肩ひもっていうやつがぶらぶらしてるんだよ! Kは、見たことある人の方が少ないと思うよ! それが目の前に揺れているのを眺めていると、何だかそれだけでも甘美なのに。甘酸っぱい匂いと柔軟剤の香りが綯い交ぜになって鼻腔をくすぐってくるんだよ! も、もう限界かも!


『11連タライ』


 もう限界。爆発しそう。そんな俺の様子をちゃんとみていた人がいる。


「ってってってってってってってってってってって! 何よ、今の11連?」


 俺が限界を超えて爆発を堪えていると、笑える事件が発生した。正直言って、助かった。何かっていうと、小さいタライが11個、あおいの頭上に落下したんだ。大きいのだと狭くて迷惑だからそうしたんだろうな。まないの仕業だってことは分かるけど、どうして?


「マスターの様子が変でしょう!」

「えー? だったらアイリスの仕業じゃないのっ、ててててててててててて、また?」

「生着替えコーナーを最初に肯定したのは、あおいでしょう」


 まない、なんか怖い。あおいは生着替えコーナーを肯定しただけなのに。それであんなバチが当たるなんて。可哀想。けど傑作! おかしくって笑っちゃいそうだよ。今度はこっちを堪えるのに精一杯だ! あのサイズなら、俺でも堪えられるかもしれない。今度降ってきたらどうしよう。避けた弾みに誰かのボディーにタッチしちゃうかも⁉︎


「プッフフフフ……。」


 あれ? なんかいま、小さい笑い声が聞こえた様な気がするけど、気のせい? その正体を俺が知るのは、次のラッキースケベが起こってからのことだった。


『『コント 2人でラブプリ!』絶賛上演中』


 小さな笑い声の正体は分からないまま、全員の着替えが終わる。テーブルが元に戻されて、その上には現金! 俺の年収をはるかに超える金額。すごい。


「期待損失額は、120万円ってところね」

「そんなに? 俺の半年の収入よりも多いじゃないか……。」


 期待損失については声に出していうほど嘆いている訳じゃない。テーブルの上の現金だけで充分だよ!


「で、『はねっこ乙女』のブロマイドは用意できたの?」

「あぁ、それならここにあるよ」

「で、私達の分は?」

「? もうないよ!」


 俺はあおいにこっ酷く叱られた。なかったら仕入れてこいだって。俺としてはもう充分にお金貰ったからもう良いと思ったんだ。あおいにとって、そんなにお金が大事なんだろうか? ちょっと減滅!


「違うわよ。ファンは思い出を大切にしたいの。そのためにグッズが必要なの」


 なるほど。考えもつかなかった。グッズがあるから思い出が際立つ。それは真実かもしれない。夏も春も高校生球児達は砂を持って帰るんだから。アイドルのグッズは、アイドルとファンが同じ時間を共有した証拠の品って訳だ。


「じゃあ、無料で配ろうか……。」


 うんうん。我ながらグッドアイデア! もう充分にお金はあるんだし、2000円ももらわなくっても良いよな。これならきっとあおいも文句はないだろう。


「アンタ、馬鹿なの! そんなことしたらありがたみがってててててててててててっ」

「マスターはマスターって決めたでしょう!」

「あっ、そっか」

「プッ、フフフフフッ!」


 あれ、まただ。今度はさっきよりははっきりと聞こえたぞ。笑い声だ。一体誰がどこで笑ってるんだろう……。何だか気味が悪い……。他のみんなは気付いていないのかな? 『コント 2人でラブプリ!』の方が、断然視聴率が高そうだ。しばらく様子をみてから、みんなに聞いてみよう。


『阻止できない運命』


『コント 2人でラブプリ!』に夢中なみんな。そんな中、俺はたしかに聞いたんだ。何だか薄気味悪い笑い声を。何だか、変な汗をかいてしまう。怖い怖い。それとも、俺が疲れてて、幻聴でも聴いたんだろうか。俺は汗を拭こうと、テーブルに無造作に置かれていた花柄の布切れに手を伸ばした。てっきりタオルだと思っていたんだ。


「マッ、マスター……。」


 その布切れは、柄と同じようにフローラルな香りを漂わせた。ときどき柑橘系の香りがするんだけど、それはそれで爽やかさを際立たせるのに一役買っていた。吸水性も抜群で、俺の額の汗はみるみる乾いていった。だから、優姫が引いたような声を出したときには、自分が手にしているものが何だか分かっていなかった。ようやくそれが何だか分かるのは、優姫の次の言葉を聞いてからだった。


「それ、アイリスの……。」


 優姫は、アイリスの何かは言わなかったけど、そこまで言われると自分の目でで確かめようと思う訳で、そうすると、布に妙な丸みがあるのに気付いたんだ。小さくたたんであるからまだよく分からなくって、広げてみた。そうしたら、妙な丸みは2つがくっついていて、その間はフローラルな谷間を形成していたんだ。そこから伸びる4本のひもは、4方に伸びているのかと思ったら微妙に違う。妙な丸みをレンズだとしてメガネのテンプルっていうの? みたいになる方向に2本と、レンズからその2本に対して90度をなす同じ方向に伸びる2本とに分けることができたんだ。早いはなし、俺が手にしていたものは、ブラジャーだったって訳。


「キャー! マスター、ひどい!」


 俺は、本当にひどい男だと思う。知らなかったとはいえ、使用済みのブラジャーで汗を拭うんだから。直ぐに手を離せばよかったんだけど、俺は座ったまま背中をそらしてブラジャーをなるべく遠くになるように上へ上げたんだけど、手は離さなかったんだ。


「ご、御免。気付かなかったんだ!」


『フィナーレ』


 そう言ったところで、取り乱したアイリスは俺に向かって突進してくる。意地悪したつもりはないけど、そんな体勢だったから、俺の正面に来たアイリスからでもブラジャーはまだ遠く、さーっと右手を伸ばしたんだ。けど届かなくって、もっと右手を近付けるためにアイリスは左手を俺の右の太ももの付け根においてつっかえ棒みたいにして、さらに右手を伸ばしたんだ。そうすると普通、顔と顔が近付くじゃん。でも一定以上は近付かないんだ。だからアイリスさんは暴れる訳。右手をバタバタ、左手をグリグリ。グリグリ! これはけしからん。はじめて感じる刺激! それはそれでとっても刺激的なんだけど、それよりもすごい圧が俺の胸の辺りを柔らかく、ときに激しく刺激する。おっぱいだよ。これもはじめて。胸の柔らかい刺激はグリグリと同期しているから、胸と右太ももの付け根の、どっちが手でどっちがおっぱいに刺激されているのか判定し難くなる。さらに胸が胸に押し付けられる度に、谷風がスゥーってフローラルな香りと爽やかな柑橘系の香りを運んで来る。風圧はが頬を撫でるようにかすめる。こんなのはじめて! 鼻腔に、さっき嗅いだ香りを少し凝縮したような香りが、だんだん濃く伝わってくる。まるで、風のふるさと、谷間に向かって、俺が移動しているみたい。これもはじめて。それで終わらないのがすごいところで、今度は右手のバタバタに同期して、ウッウッっていう息遣いが聴こえる。聴覚への刺激そのものはさっきの方が強烈だったかもしれないけど、バックコーラスみたいに全体のバランスを整える。はじめて! バタバタ、グリグリ、スゥー、ウッウッ。バタバタ、グリグリ、スゥー、ウッウッ。バタバタ、グリグリ、スゥー、ウッウッ。これが全部、同時に襲ってくるんだ! その体験は、おそらくほんの数秒の出来事。俺にとっては永遠に回る、まわり燈籠みたいに感じられた。


「アァンッ、マスターのエッチィー!」


 変態って言われるのは慣れっこの俺だけど、小さい『い』が付くエッチィー! っていうのははじめて言われた。これをラッキースケベと言わずして、何をそう呼べば良い? はじめてのアンサンブルは、椅子が倒れ、俺の顔面にアイリスのおっぱいがぽよんと乗っかり、俺の左手をアイリスの右手が握ったところで、フィナーレとなった。


『『奈江さん』さん、いたんだ』


 はじめてのアンサンブルにアンコールは必要ない。その代わり、俺達の耳に届いたのは笑い声だった。


「プッハハハハハ!」

「誰? アンタ!」


 その声の主は『奈江さん』さん。今日のラッキースケベ第1号の人だ。そして、俺の放つ不思議な光を浴びても不快感を覚えない女の子だ。


「『奈江さん』です。」

「何なのよ。ここは関係者以外立ち入り禁止よ!」

「すみません。その人に来るように言われたので……。」


 そうだ。そうだった。思い出した。俺、この子に後ではなしたいって言った。

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