2. 導

樒皐月。僕はこの女が嫌いだ。日本語の解釈とは如何せん複雑なもので、だからこそそこには多様な人生観からなる個人固有の文言の選択が行われ、自然に、様々に、独特に言葉が交錯し、結果として会話ないしは対話のアーキテクチャとしての魅力に繋がっていることは全く否定出来ないのだが、今僕はその煩雑さが二次的な面倒臭さを齎していることを少なからず理解しているので、前述の『嫌い』という表現について言及したい。人が人を嫌う状況というのもまた多様なケースが考えられるが、僕が彼女に向ける嫌悪感(嫌悪感と呼ぶには余りに曖昧なものであるが、便宜上この言葉以上にしっくり来る文句というのも今の僕のワードプールには無い)はかなり特殊で限定的な感情だと思う。例えば、その人の容姿、身なりが生理的に受け付けずに、知性を持つ動物同士での交流を持ちたくないという場合も嫌いという言葉が用いられるだろうし、どこか性格の一部分が受け入れられずに対象を避けてしまうというのもありがちな嫌いの一種であると思う。また、過去の相手の行動がどうしても許せなく、また理解が及ばない等の理由で絶縁する、関係を忌避するという際にも相手を嫌ったという言い回しに落ち着く。今列挙した大まかな嫌いの原因に当てはめて考えてみても、僕の彼女に抱く感情とは幾許かの乖離がある。外見は特に気にしたことがないけれども、裏を返せば気にならない容姿であるということだし、性格も明瞭で人当たりが良く、気の回る人間であることは周知の事実であろうし、僕もそう思う。そもそもそこまで深い仲でも無く、長い時間行動を共にしたことも無いので、何か彼女の行動が特段僕の気に障ったということも無い。では何故僕が彼女を『嫌い』であると判断したのか。彼女は、他人の大切にする事物への関心が凡そ全くと言っていい程無い、ような気がする。今までに、そういう人間性を想起させるような言動が有ったかと問われれば僕は口を閉ざすことしか出来ないが、ただ茫漠とした実利主義の片鱗の影が彼女の後ろに纏わり付いているような、腹が減ったら他人の飼い猫を何食わぬ顔で食べるような、そんな論拠の無い偏見だけが今の僕には有る。残山剰水、そこにあの屈託の無い、人当たりの体現のような爽やかな笑顔で立つ彼女の姿が、僕の脳内でいやらしい程に映えるのだ。

「仮に、僕がその頼みを断ったらどうする。」

「考えても無かったなあ。まあ言っても、私と部長で探すんじゃないかな。折角、私を頼ってくれた訳だしね、部長からのその信頼には結果は伴わなくとも応えてあげたいしね。それに、私、ちょっとあの部長のこと気になるんだよね。」

「へえ、何か疑ったりしてるのか?怪しいところがある、とか?」

「あっははは、違う違う。櫟井君、女の子の言う気になる、って言うのは、往々にして『そういうこと』だよ。」

「驚いたな、お前もそういう感情持つことあるんだな。そういう類の話はこの三年間で一度も聞いたこと無いぞ。」

「櫟井君の有って無いような友人関係では凡そどんな話も入って来ないんじゃない?それに、櫟井君私のそういう事情に絶対興味無いでしょう。心配はしてないけど、恥ずかしいから誰にも言わないでね。」

「心得た。だとするなら、俺も手伝うよ、猫。人の頼みを断れない奴の頼みは断れないからな。」

「やっぱり優しいよね、櫟井君って。普段はずっとクラスを静観してて、授業中も心ここに在らずで、遅刻早退欠席の常習で、学校のイベントとかにも非協力的だから他の皆からの印象は余り良いもので無いかも知れないけど。私は勇気を出して櫟井君に話し掛けて良かったな、って胸を張って言えるよ。卒業まで、卒業後も宜しくね。本当に。」

「苦しいな。ありがとう、今後のこととかは敢えて深く考えないようにしてるけど、成るように成るよ。」

「ふふっ、可愛いね、櫟井君は。もう概ね半分程しか授業時間が無いけど、化学室、行こっか。ごめんね付き合わせちゃって。」

彼女は、僕の座る席の横を通過する際、軽く僕の肩を手ではたいて行った。どういう感情を込めてのものなのかは掴めなかったが、急なことで僕の身体は些か強張ったし、悲しいかな人間としての屈辱を感じている自分も居た。それがどういう思考回路で生まれた感情なのかも、今の僕には皆目見当も付かなかった。

「じゃあ、六時間目が終わったら探しに行こっか、美術部の猫。」

彼女は、伸びをしながら教室後方のドアに向かって、ゆっくりと歩いた。彼女とは前述の通り、以前から多少の交流があったのだが、彼女の異性関係については全く立ち入ったことが無かった、否、そういった領域を彼女が持ち合わせていることさえ知らなかったので、彼女の恋愛感情のような話を耳にして、僕は正直、当惑した。気になっている、という旨の話を聞き、少し僕の中で解釈の時間を要したものの、その言葉を噛み砕いた途端に、僕の脳が彼女に細い紐で引っ張られるような不思議な感覚を体験した。彼女と言葉を交わす度に、僕は彼女に脳を揺さぶられるような感覚に陥る。先程僕が感じた漠然とした違和感もそうだし、今回もそう。彼女と話し終わると、僕はどっと疲れて仕舞う。その感覚が、どうも好きになれない。外は未だに、晴れ間が見えない。彼女はがちゃっとドアに掛けられた鍵を開け、教室を出て行った。

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