第5話 ジェロント・フィリア
風の乾いた、空の青い或る日のこと。
色付いた葉を落とす木々に囲まれた池を眺める公園のベンチに、痩せこけた男性が眼鏡を掛けて、革の表紙の詩集を読んでいる。
茶色のジャケット、灰色のズボン、白いシャツと紐ネクタイ、皺が刻まれてはいるが端整な顔立ちに、整えられた白髪。彼は、カツカツと近づいてくる靴音に気付き、顔を上げた。見ると、深草色のロングスカートに、襟にフリルがあしらわれた白いブラウスに黒いカーディガンという格好をした、長い黒髪のスラリと背が高い女性が近づいてくる。彼女は何処かあどけない表情をしてはいるが、適度に化粧をしていることから、少女と呼ばれる年齢ではないのだろう。
彼女は彼の目の前で立ち止まり、ニッコリと微笑んだ。
「遅くなってすみません、先生」
彼も本を閉じて、老眼鏡を外し胸のポケットにしまって微笑む。
「構いませんよ、時間を潰すのは得意ですから。それよりも、私を先生と呼ぶのいい加減によしませんか? お嬢様」
「それなら、私をお嬢様と呼ぶのはやめません? 家庭教師と教え子と言う関係は、七年も前に終っているのですから」
二人の関係は、いわゆる恋人であった。しかし傍目から見れば、先生、お嬢様、と呼び合う関係の方が自然にも思える。
彼は彼女の言葉に、微笑んだままで小さく溜息を吐くと、鞄に詩集をしまい、立ちあがった。
「この問答の決着は、いつまでも付きそうにないですね」
「そうですね。それよりも、早く映画館へ向かいましょう? 遅刻してしまったから、今日は私のおごりです。シルバー料金くらい、出せるくらいの稼ぎはありますからね」
彼女はそう言うと、楽しげに公園の出口へと足を進めた。彼も落着いた早足で彼女を追いかけ、隣りに並ぶ。舗装された道に出ると、彼から会話を切出した。
「ところで、お仕事の方は上手く行っていますか? 」
「ええ。流石に三年くらい経てば、大体のコツのようなものは覚えましたから。段々楽しくなってきましたよ。ところで……」
俄かに、彼女が言葉に詰まる。彼は思い当たる節があったため、彼女の質問を代弁した。
「先日の、私の仕事のことですか? 」
彼の問いに、彼女はコクリと頷いてから、口を開いた。
「新聞で読みました。お仕事は、一件につき一人だけと決めていましたよね……? しかも、一人は子供だって……」
不安そうに自分を見つめる彼女の頭を軽く撫でると、彼は宥めるような声で事情を説明した。
「ああ、この間は歳のせいか一度は逃げられてしまいましてね、脚を撃ったものの、灯りのついた場所に逃げ込まれてしまいました……ただ、あの時間帯にあの場所にいるような輩です。やはり、いわゆるマトモな状態ではありませんでした」
「……それはどんな……? 」
彼女の表情が、怯えを帯びる。彼は再び彼女の頭を撫で、苦笑しながら問いに答えた。
「あまり、詳しく説明すると食べられなくなる食事が出来そうですから、簡潔に説明しましょう。少女が加害者で、青年が被害者だった……青年の方は既に虫の息だったので、息の根を止めました」
「放って置けば、口止めをしなくても事切れる状態なのにですか? 」
「……楽にしてやろう、などと言う傲慢な仏心が働いたのかもしれませんね。何せ彼は私と……」
よく似ていた、彼はその言葉を言い掛け、途中で口を止めた。向かいから、幼い子供の手を引き、微笑みながら歩く若い夫婦が歩いてくる。子供は両親の手を握り締め、至極楽しそうに、落ち葉を踏み鳴らしながら無邪気に笑っている。親子連れとすれ違うと、彼女は酷く淋しげな表情となった。彼も、沈痛な面持で黙り込む。
通り過ぎたのは、二人がどれだけ望んでも、手に入らない類いの「幸せ」。
しばし、二人の間から会話が消え、乾いた落ち葉を踏み鳴らす音だけが、青過ぎる空へ昇る。しかし、彼女が何処か何かを堪えるような笑顔で、沈黙を打破った。
「さ、早く映画館へ行きましょう! ヨボヨボ歩いていると、置いて行っちゃいますよ? 先生」
そう言いながら、彼女は小走りに走り出した。
「やれやれ、お嬢様には敵いませんね」
彼も溜息混じりに苦笑してから、早足に彼女の後を追った。
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